現実の価値
「どうしたのかな、ハヤト君。答えを聞かせてくれないか?」
「いや、待ってくれ。何を言ってるんだ。現実を忘れてゲームの世界で生きるなんて無理に決まっているだろう?」
「まあ、この時代の常識なら無理だろうね。たった百年で多くの技術が失われた。いや、改めて団結することはできなかったのだろう。人間とは面白いものだね」
「……何を言ってるんだ?」
「ああ、こちらの話だよ。安心したまえ、私には記憶を操作する技術がある。さすがに脳の電脳化は無理だが、コールドスリープを利用した永続的なログインは可能だよ。それに現実の体も安心だ。宇宙の最も安全な場所で管理してあげよう」
ハヤトは恐怖を感じた。現実を忘れてゲームの中で生きる。それは人によっては魅力的な提案だろうが、実際に現実と決別できるのはごく少数だろう。そもそもそんな技術があるのを信用できない。
それにハヤトには現実で叶えたい夢がある。答えは決まっているのだ。
「話は分かった。念のため確認するけど、これはゲームのイベントとかではないんだね? あとでこれは冗談とか言わないで欲しいんだけど」
「もちろんそんなことは言わない。一億の賞金、それは現実と決別するために必要なお金だと思って渡すんだ。それに今はハヤト君だけだが、他のランキング上位にも似たような質問や提案をする。私の意にかなった人間ならハヤト君と同じようにするつもりだよ」
(いまいち本当なのかイベントの一環なのか分からない。でも、どっちだとしても俺の答えは変わらないんだ)
「断るよ。現実を忘れてこの世界で生きるつもりはないかな」
ディーテは笑顔から一転、感情が抜け落ちた顔になる。
「これをゲームのイベントか何かと思っているのかな? 信じられないかもしれないが、そういう技術は間違いなくある。ハヤト君、君はこの世界が好きだろう?」
「確かにこの世界は好きだよ」
「なら――」
「でも、現実を忘れてここで生きるなんてできないよ」
「……何を言ってるんだ。ハヤト君にはこの世界の素晴らしいところをいくつも見せただろう? 感動していたではないか。それにNPC達との別れを惜しんでもいる。この世界の住人となれば、別れることもないのだぞ?」
「そうだね。でも、現実を忘れる事なんてできないよ。それに俺は現実で叶えたい夢があるんだ」
「夢? それはここで叶えられないのか? 確かにこの世界はまだ現実に劣っているだろう。ゲームのルールに縛られているからね。だが、いつかすべてのルールは無くなり、現実を凌駕するほどになる。この空間を見たまえ。ここは最も現実に近づけた空間だ。残念ながらこの小さな空間でしか実現できないが、いずれこの世界のすべてをこの空間と同じにする」
ハヤトは違和感の正体が分かった。この空間では呼吸や汗までリアルに再現されているのだ。確かに現実に一番近い空間なのだろう。
「ハヤト君、私は君を気に入っているんだ。この仮想空間はデータの集合にすぎない。でも君はこの仮想現実を現実のように生きてくれた。単なるデータでしかない剣を、負ける可能性があるにもかかわらず取り返しただろう? あのせいで現実での賞金を得られなかったかもしれないのに君は実行した。私は嬉しかったよ。現実のリスクがあるにもかかわらず仮想現実を優先した、そう思ったんだ」
ディーテは優し気な顔になる。
「それにNPCを一体消す代わりに一億円を渡すことについても、考えるそぶりもなくすぐに断った。君は私の予想以上だったよ。そんな君をぜひこの世界に受け入れたいんだ」
「そうかもしれないけど、さすがに現実を捨てるのは――」
「ハヤト君、君の現実にはどれほどの価値がある?」
「――え?」
「現実での君を少し調べさせてもらったよ。君は労働階級、ファクトリーの出身だろう? 父も母も、いや、血のつながった縁者なんてだれもいない。生まれたときからただ働くことだけを義務づけられた人間。それとも生まれたときからそうなのだから自分を憐れに思ったこともないか?」
ハヤトにも思うところはある。現実は非情だ。生まれたときから階級は固定され、死ぬまで抜け出ることはできない。職業を選ぶことはできるが、階級は選べない。遥か大昔は、似たような状況はあれど、そこにはもっと自由があり、夢があったという。
とはいえ、ハヤトはそれを別に憐れだとは思っていない。大半の人間がそうなのだ。地球生まれなら働く必要もなくもっと自由なのだろうが、それに憧れているわけではない。
「そうだね、自分を憐れだと思ったことはないよ」
「――そうかね、だが、まだある。ハヤト君、君は足を動かせないだろう? いや、日常生活をする分には問題ないが、怪我をしたときの恐怖で俊敏に動けなくなった。この仮想現実でなら動かせると期待したが、それはダメだった。精神的な問題だったからだ」
「……詳しいね」
ハヤトは以前、事故に巻き込まれて両足に怪我をした。すでに完治しており、普通に動かす分にはなんの問題もない。だが、現実でも仮想現実でも瞬発的な行動はとれなかった。俊敏に動こうとすると、事故を思い出して体が硬直してしまうのだ。
このゲームでの戦闘は現実の身体能力が反映される。ハヤトが生産スキルだけの構成にした理由の一つだ。
「現実には良いこともあるだろう。だが悪いことも多い。仮想現実なら君の望みを叶えてあげられる。誰かに搾取されるように働く必要はないし、怪我の恐怖だって記憶を消去すればいいだけだ。よく考えてくれ、君の望むことがすべて叶えられるのだぞ? ハヤト君なら何を望む? さっき言っていた夢か? なんなら勇者になるか? それとも魔王? 君の望む設定を私が叶えようじゃないか」
魅力的な話ではある。
自分が望むことがこの仮想空間では再現できる。そして現実さえ忘れれば、自分にとっての現実はこの世界だけ。この世界では神と言ってもいいディーテがそのすべてを叶えてくれる。それは間違いなく魅力的だ。
だが、それが楽しそうだとはハヤトには思えなかった。それにハヤトのやりたいことではない。
「悪いね、どんなにいい条件だったとしても断るよ」
ディーテがハヤトを見つめる。仮想現実ではあるが、殺気に近い感じの気配にハヤトは息が苦しくなった。
「いや、駄目だ。ハヤト君、君はこの世界にいてもらおう。その目でこの世界の進化をずっと見ていくんだ」
「何を言ってるんだ?」
「ハヤト君に選ばせようと思ったのが間違いだった。これは決定事項だ。私はこの世界の神。私が望む、私の世界だ。それはハヤト君も例外じゃない」
ハヤトは後ずさりをする。仮想現実だとは分かっていても、ディーテからの圧力がハヤトの本能に危険だと言ったのだ。
(何をするつもりなのか分からないが危険だ。仕方ない、強制ログアウトを――)
ハヤトはシステムメニューから強制ログアウトをしようとするが、反応はなかった。
「強制ログアウトをする気かね? 残念ながら、この空間や先ほどの通路ではできないよ。可能な限り現実に近づけたと言っただろう? 現実からのログアウトなんてあり得ないからね。もちろん、転移も無駄だ」
(嘘だろ、ログアウトできない空間? なら砦まで戻ればなんとかなるか……? たしかクラン戦争中でもログアウトはできたはずだ)
ディーテはうっすらと口元に笑みを浮かべながらハヤトに近づいた。
「安心したまえ、現実の記憶をなくすだけだ。そうそう、現実のハヤト君の体は私が責任を持って管理する。心配は一切ない」
「……俺がいなくなったら捜索願が出されるぞ? 体内のGPSがどこかの場所を示したらまずいんじゃないか? ファクトリー出身なんでね、それくらいの管理はされてる」
「誰が出すのかね? 両親もいなければ仕事もしていないのだろう? この世界で知り合った人はいるようだが、個人情報は名前と容姿以外、一切出していないはずだ」
(まずいな、その通りだ。現実で仲のいい友達もいないし、俺がいなくなっても気に留める奴がいないか……)
「さあ、ハヤト君。共にこの世界で生きよう。君なら絶対に気に入るはずだ。仮想現実を現実よりも現実と見てくれる君には永遠にここにいて欲しいんだ」
ディーテがハヤトに近づく。
何をされるのかは分からないが、おそらく捕まったら終わりだ。ハヤトはそう思って、入って来た扉の方へ向かおうとした。
だが、ハヤトの足は思い通りに動かない。意識と仮想の体が一致せずに転んでしまった。
「怪我の記憶を消せば、そんなこともなくなる。さあ、私の世界の住人になりたまえ」
「くっ!」
ハヤトは仰向けのまま、後ずさりをするが普通に歩くディーテから逃げられるわけがない。
もうダメだ、そう思った時だった。
ハヤトの後方にある扉が勢いよく開いた。直後にドンと花火のような音が鳴り、ディーテの体が後方へ吹き飛ぶ。
「どうやら間に合ったみたいですね。ご主人様は弱いんですから私から離れちゃダメですよ」
「エシャ!」
扉から入ってきたのは銃を構えたエシャだった。




