第二十六章 崩壊
(篝……)
瑚太朗は丘へと向かいながら不安に苛まれていた。
もし自分のいない間に何者かに襲われていたとしたら。
もういつどこから現れてもおかしくはないほど、現象が確定されてしまっている。
最大速度で駆け戻っていた。
「……っ」
丘を見上げると、そこには変わらない姿の篝がいた。
ホッと胸を撫で下ろす。
歩きながら篝を見上げ、ただその姿を見ているだけで心の中が凪いでいた。
もう片時も傍を離れていたくはない。
そんな気持ちで一杯だった。
「……?」
近づいてみて。
ようやく彼女の様子に気づく。
姿はさきほどと変わらない。――いや。むしろ。
何の変化も起きていなかった。
「……!」
駆け寄る。
篝の手が。
まるで動いていなかった。
「……か、篝……」
声を掛けても。
篝は瑚太朗を見ようともせず、指一本も動かせていなかった。
静止している。
まるで彫像か一枚の切り取った絵のようだった。
「どう、……したんだ?」
先ほどまでは確かに、篝は指を動かしていたし、目だって瞬かせていた。
つまり生の気配を漂わせていたのに。
これではまるで……。
「……篝っ!!」
肩を揺さぶる。
篝の瞳は、何も映していなかった。眼球には瑚太朗自身が鏡のように見えるだけ。
口と鼻に手を当てる。
呼吸すらとまっていた。
心臓は……?
胸に耳を当ててみる。……わずかに聞こえる。本当に微かな音だけど。
だけど。
このままだと篝は生命活動を停止してしまう。
生きる意志も感じとれない。
一体、何が起きた……?
瑚太朗は篝の足元――命の理論に、意を決して目線を向けた。
瞬間、頭が割れるほどの衝撃。それに歯を食いしばって耐える。
見ようとするな。感じるんだ。これは……命の系譜。生命の辿った道筋。
それはどれほど高次元な情報だろうと、決して壊れたり消滅したりするものなどではない。
命とはそうやって形づくられるものなのだということを理解しろ。
必死になって耐える。もうすでに脳神経は焼きついていた。だが痛覚を遮断して末梢神経を無視する。
大丈夫、耐えられる。神経などあとで自然と再生する。
そこには――。
一つだけ切り取られたような枝の根元。
根元からばっさりと先がなかった。
枝世界が消滅していた。
「な……っ?!」
枝にはとても怖くて触れられなかったが、切り取られた先の何もない空間は――。
バラバラになった枝の破片が散らばっていた。
瑚太朗は読み解くために、もう一段階ギアをあげることにした。
これを理解するためには、どうしても知力を高める必要がある。
篝の停止状態をなんとかするためにも。
(やってやる……)
意識を集中する。
前ほど跳ぶ必要はない。要るのはそう――素粒子物理学等の数学的知識。
0と1の世界からこの枝を解読することができれば。
一瞬で……出来た。
ほんの少しの水滴を注ぐだけでよかった。ホッとする。改めて自分の能力に感謝するが不気味にも思う。
今はそんなことどうでもいい。
切り取られた枝を見る。
瑚太朗の中で数々の数式と計算が渦巻き、それを理論にして体系化するまでさほど時間はかからなかった。
わかった。
原因は――。
(俺、だ……)
虚数領域への接続。
それがこの世界で繰り返し起きたため、生命そのものの崩壊現象が起きた。
アウロラの減少。
それは並列世界の均衡を崩すほどの加速度的減少だった。
壊された枝世界はもはや修復不可能。
再構成するためには篝自身が持つ生命力を補うしか方法がなかった。
そして彼女はいま、限界まで生命力を注ぎ込んで、今必死に並列世界を構築し直そうとしている。
自身の生命活動を停止してまで。
それは。
間違いなく瑚太朗が原因で起きている現象だった。
(俺が……無意識に……呼び寄せていた?)
朱音が現れたとき。
自身の因果の収束に絶望していた。
それが無意識の共時性を呼び寄せ、虚数領域内の実存意識を実体化させた。
それが朱音。――そして先ほどの今宮。
つまり。
瑚太朗自身の本来の実存的存在ともいえるもう一人の自分が。
この世界の虚数密度を増大させた。
それは生命という存在を脅かし、崩壊させ、アウロラをも破壊してしまう。
マイナスエネルギーの塊。
それが瑚太朗という存在が命を得る前の本当の姿だった。
それがなぜ、この次元に現れ、生命を得てしまったのか、そこまではまだわからないが。
いまこの世界で虚数エネルギーが瑚太朗という識域下のパスを繋いでしまっていて、そこから流れこんできている。
それは……。
篝を停止させてしまうほどの勢いをつけて。
「……かが、り……」
膝をつく。
このままでは間違いなく、彼女は死んでしまう。
自分がいる限り。
だが。
たとえ自分が消えても、もはやこの世界に散逸したエネルギーを回収することは出来ない。
マイナスエネルギーなど、本来この三次元では存在することすら不可能だ。
第一、次元の干渉力によって衝突するだけでこの宇宙が崩壊する。
ならばなぜ、この世界であり得ないエネルギーが満ちているのか。
いくら自分がパスを繋いでいるといっても……。
それに……無意識だとしても。
今の自分は人間で、生命で、虚数領域とは相容れない存在のはず。
(くそ……っ!)
解決の糸口が見つからない。
人間の知力の限界がもどかしい。所詮この程度の理解しか得られない。
篝に及ぶことなどそもそも不可能なことで……。
(篝……)
見つめる。
彼女はいまだ停止したままの状態だった。
指先はとまっている。……だが、生命力はもう注ぎ込んだ筈。
分裂した並列世界は繋ぎ合わせることは出来なかったが、分かれた枝のひとつひとつが、篝の持つ生命力で独立した状態で生まれていた。
これ以上はもう無理だろう。
篝もよくやったと思う。だけど……。
「篝、もう……いいんだ」
抱きしめる。
本当は、自分みたいな存在が触れてなどいけない尊い存在なのに。
少しでも慰めてあげたかった。
彼女は小さな一つの生命体ではあるけれど。
生きること。
その克己にも似た確固たる意志の強さは、遥かに遠く及ばない。
なぜ……。
普通の人間として、彼女の前に現れなかったのだろう。
そうすれば、これほど彼女を苦しめることもなかったのに……。
「篝……ごめん……」
謝って済むものではない。だけど。
涙がとめどなく溢れてきた。
その涙の雫が篝のうなじに流れたとき。
篝の手が。
瑚太朗の頬に伸びた。
「え……?」
瑚太朗の涙を指で掬い取ろうと。
彼女の気遣わしげな表情が、胸を打った。
「……篝っ!」
感情が押し寄せて堰を切ったように流れた。
口づける。
涙で濡れた頬を彼女の顔に押しあて、吐息を絡ませるように唇を重ねる。
荒々しさはなく、ただ優しさだけを引き出して。
篝は。
瑚太朗の口づけに応えるかのように、腕を背に回してきた。
不思議なことに、篝の生命力が、瑚太朗と口づけを交わすたびにどんどん満ちていく。
それがわかっているかのように、篝はひたむきに応えていた。
「どう……して……?」
わけがわからなかった。
唇を離して篝の顔に触れる。艶のある温かみのある頬。濡れた唇。潤んだ瞳。
どれも先ほどまでまったく見られなかった状態だった。
篝は。
少し戸惑うかのように、瑚太朗の右腕にそっと触れた。
二の腕から付け根へと、手を動かしていく。
そして。
瑚太朗の胸の前――心臓に。
そっと頭を預けた。
「……あ……」
わかった。
自分の持つ、上書き能力。
これは進化の過程で獲得された特化された身体能力が生命力と結びついて発現したもの。
つまり……。
生命そのものの持つ力。
これが篝の力に影響を齎している。
ということは。
より深く繋がれば……。
「回復、するのか……?」
こくん、と篝は頷いた。
照れもなく。恥じらいもなく。……ただ素直に。
それは。
瑚太朗にとって、これ以上はないほどの福音だった。
「はは、は……」
嬉しいのか複雑なのかわからない。
それって、つまり。
篝といくらでも、好きなだけ、愛し合えるということだから。
好きな人と結ばれる。
それ以上の幸せがあるだろうか。
「篝……」
愛おしげに顔を覗きこむ。
篝はなんの表情も浮かべない。ただ瑚太朗を見つめている。
だけどその無機質な瞳の奥に、確かな命の意思を宿していることを瑚太朗は知っていた。
「俺のせいで、君はボロボロになった……」
原因のわからない接続領域。それが自身の内にある。
いまだその流出を食い止める手立てが見つからない。
だけど。
「俺が君を救えるというのなら、何を犠牲にしても救ってみせる」
この生命を守るためなら。
たとえ自分が消滅しても構わない。
自身を犠牲にしてでも。
篝を守ってみせる。
「さっそくで悪いけど……ちょっと場所変えてやらないか?」
篝は首を傾げた。
意味がわかってないようだ。
それに瑚太朗は苦笑した。
「いや、ここだとさ……。さすがに大っぴら過ぎて……恥ずいというか」
どこにいても変わらない気はするけれど。
せめて柔らかいベッドの上に篝を寝かせてあげたかった。
「おいで」
手を引いて、歩く。
月明かりの下。
二人の恋人が、黒と白のヒナギクの丘を静かに歩いていた。
to be continued……
一日三連続投稿!新記録達成ですね(笑)
いえ、実を言うと、ここまでの話はすでに出来上がっていたのですが。
二十四章が難物でした……。(ここでとまってた)
さて。
一応ここまでであらかたの謎は解き明かしたつもりです。
瑚太朗の正体と、謎の朱音・今宮の正体も、おわかりいただけたかと思います。
虚数領域とは、ディラックの海のことです。本来は存在しない机上の空論です。
ですがこの話ではあえて現象として存在させてみました。
それは瑚太朗がディラックの海からなぜ三次元に出現したかの理由によるものですが。
それはまたいずれ、お話の中で語らせて頂きます。
では、これからもどうぞよろしく。




