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三年前、私は婚約者を捨てた  作者: ちょこまろ


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第4話 切らなくてよかった

三年ぶりに、怜司の声を聞いた。


謝ることも、切ることもできない美桜に、

彼が最初に告げたのは、責める言葉ではありませんでした。


「切らなくてよかった」


止まっていた二人の時間が、

一本の電話から、もう一度動き出します。

 その声だけで、涙が溢れた。


「ごめ……間違えたの。ごめんなさい、かけるつもりじゃなくて」


 言い訳みたいな言葉が、震えながらこぼれた。


 電話の向こうで、怜司が息をのむ気配がした。


 しばらく沈黙があった。


 責められると思った。

 当然だった。


 私は三年前、彼を置き去りにした。理由も告げず、謝罪も一方的に押しつけて、逃げた。


 けれど怜司は、低い声で言った。


「……切らなくてよかった」


 その一言で、胸が壊れそうになった。


「怜司……」


「間違いでもいい。声が聞けた」


 涙が止まらなかった。


「ごめん……本当に、ごめんなさい」


「今は、謝らなくていい」


 怜司の声は、驚くほど静かだった。


「切らないでいてくれたら、それでいい」


「……うん」


「無理に話さなくてもいい。泣いてるなら、少しそのままでいい」


 私はスマートフォンを握りしめたまま、声を殺して泣いた。


 怜司は何も急かさなかった。

 どこにいるのかも聞かなかった。

 どうして消えたのかも、今すぐ問いたださなかった。


 ただ、電話の向こうにいてくれた。


 それだけで、三年間張りつめていた何かが、少しずつほどけていった。


「番号、変えてなかったんだな」


 怜司が、静かに言った。


「……変えられなかった」


「俺もだ」


 胸が痛んだ。


「どうして……」


「美桜から、電話が来るかもしれないと思った」


 私は声を失った。


 三年間。

 怜司は、私からの電話が来るかもしれないと思って、番号を変えずにいた。


 それだけで、自分がどれほど残酷なことをしたのか、思い知らされた。


「怜司、私……」


「母さんのこと、だろ」


 息が止まった。


「……知ってたの?」


「半年後に聞いた。母さんが、ぽつりと漏らしたんだ。『あの子は、あなたのために身を引いたのよ』って」


「怜司……」


「全部は知らない。でも、母さんが何か言ったんだろうとは思ってた」


 怜司の声は、責めるものではなかった。

 けれど、三年分の痛みが、その奥に静かに沈んでいた。


「そのとき、母さんにも腹が立った」


 怜司は言った。


「でも、それ以上に、自分に腹が立った」


「どうして……怜司が」


「結婚しようとしていた相手を、俺は俺の家族の前に一人で立たせていたんだって思った」


「違う。怜司は悪くない」


「悪い悪くないじゃない」


 怜司の声が、少しだけ震えた。


「美桜が俺に言えないまま消えるくらい、俺は頼りなかったんだと思った」


「違うよ……」


「三年、ずっと考えてた。言ってほしかったって思った日もある。でも、言える場所を俺が作れていなかったんだとも思った」


 胸が痛かった。


 私だけが苦しんでいるつもりだった。

 私だけが、罰を受けているつもりだった。


 でも怜司も、三年間ずっと、自分を責めていた。


「美桜」


「……うん」


「会いたいって言ったら、困るか」


 その言い方が、あまりにも怜司だった。


 命令ではなかった。

 確認だった。


 私の逃げ道を塞がないまま、それでも、そっと手を伸ばすような声だった。


「困る」


 私は泣きながら答えた。


「でも……私も、会いたい」


 電話の向こうで、怜司が小さく息を吐いた。


「じゃあ、会える日を探そう」


「今すぐじゃなくて、いいの?」


「今すぐじゃなくていい」


 怜司は言った。


「今度は、美桜が切らずにいられる速さでいい」


 その言葉で、また涙が溢れた。


 三年前、私はメールを送って、電源を切った。

 怜司の声も、言葉も、手も、全部そこに置いて逃げた。


 なのに今、怜司は私に、切らずにいられる速さでいいと言う。


 優しすぎる。

 だからこそ、苦しかった。


「怜司」


「うん」


「会いたい」


「俺も、会いたい」


 その言葉は、責める言葉よりずっと苦しかった。


「会いたかった。ずっと」


 私はスマートフォンを握りしめたまま、声を殺して泣いた。


 翌週、怜司は私の街へ来た。


 駅の改札前に立つ怜司を見た瞬間、私は三年前の東京駅に引き戻された気がした。


 白石怜司は、少し痩せていた。

 目元に疲れがあった。

 けれど、まっすぐ私を見ていた。


「久しぶり」


 怜司が言った。


 私はうなずくことしかできなかった。


 二人は海の見える小さな喫茶店に入った。窓の外では、灰色の波が静かに寄せていた。


 私はすべて話した。


 怜司の母に呼び出されたこと。

 自分がふさわしくないと思ったこと。

 怜司の未来を守るふりをして、怜司自身を信じなかったこと。


 怜司は最後まで黙って聞いていた。


 そして、言った。


「母さんは、父さんのことがあったから怖かったんだと思う」


「……うん」


「俺が誰かを守りすぎて、自分を壊すんじゃないかって。そう思ったんだと思う」


 怜司は、海を見たまま続けた。


「でも、それを美桜に背負わせたのは違う」


 私は何も言えなかった。


「母さんの不安は、母さんと俺が話すべきことだった。俺の人生は、母さんの不安でも、美桜の遠慮でもなく、俺が決めるものだった」


「怜司……」


「俺はずっと、美桜に言ってほしかったと思ってた」


「うん」


「でも、三年考えてわかった」


 怜司は、ゆっくりと言った。


「言ってほしかった、だけじゃなかった。言える場所を、俺が作るべきだった」


 私は首を振った。


「怜司は、いつも優しかった」


「優しいだけじゃ足りなかったんだと思う」


「そんなことない」


「母さんの前に、美桜を一人で立たせた」


 怜司の横顔が、少し苦しそうに歪んだ。


「結婚するつもりだったのに、俺はまだ、俺の家族のことを美桜にちゃんと見せられていなかった。守るって言葉にする前に、守れる形を作るべきだった」


「怜司……」


「美桜を責めたい日がなかったわけじゃない」


 その言葉に、胸が痛んだ。


「でも、責めるたびに、最後は自分に戻ってきた」


「自分に?」


「俺がもっと早く、母さんと話していれば。俺がもっと、美桜に不安を言わせていれば。俺がもっと、結婚を二人だけの約束にしないで、ちゃんと現実にしていれば」


 怜司は小さく息を吐いた。


「そうやって、三年経った」


 私は涙をこらえきれなかった。


「ごめんなさい」


「謝ってほしくて言ってるんじゃない」


「でも、私は逃げた」


「うん」


 怜司は、静かにうなずいた。


「それは、なかったことにはできない」


「うん」


「俺も傷ついた。美桜が消えた日、部屋にも行った。もう空だった。職場にも連絡した。退職したと言われた」


 私は息をのんだ。


「来て、くれてたの……?」


「行ったよ」


 怜司は、ほんの少しだけ笑った。


 でもその笑みは、痛かった。


「行くよ。美桜がいなくなったんだから」


 私は両手で顔を覆った。


 怜司は来てくれていた。

 私がいない部屋の前まで。

 私が捨てた鍵の向こう側まで。


 それなのに私は、追ってこなかったのだと勝手に思って、自分の逃げ道にしていた。


「ごめん……」


「だから、もう黙って消えるな」


 怜司の声は、私が逃げ道を探す時間まで残してくれていた。


「怖いことも、嫌なことも、俺の母親のことも、俺自身のことも。黙って消えるくらいなら、泣きながらでも言ってくれ」


「……言えるかな」


「すぐじゃなくていい」


 怜司は、ゆっくりと言った。


「言えるようになるまで、待つ」


 その言葉で、三年前に閉じたはずの扉が、ほんの少しだけ開いた気がした。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


三年前、理由も告げずに逃げた美桜。

それでも、彼女からの電話を待っていた怜司。


切るつもりだった電話を切らなかったことで、

二人はようやく、言えなかった想いに触れ始めました。


次話、最終話です。


逃げた恋が、もう一度向き合う恋に変わっていく結末を、

最後まで見届けていただけたら嬉しいです。

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