翠牢のキメリア
アルトの対戦相手の男は、右腕と左膝が壊されている状態。にもかかわらず男の動きは鈍ることなく初戦から変わらないため、クロエら騎士を含む観客の全員が、男の状態に気付いていなかった。
ただ1人、商人レイチェルを除いて。
レイチェルはその上で、さらに別のことにも気付いていた。
「おやおや、魔法は使っていないけど、魔法を使われているみたいだね……」
アルトが頭から地面に叩きつけられ、誰もがアルトの敗北を予感する中、レフェリーがアルトの状態を確認しようと1歩踏み出したとき、男の両腕があらぬ方向に曲がると同時に、アルトは跳び上がるように起き上がりつつ、男の脇腹に蹴りを入れて男を吹っ飛ばした。
「すまんな、少し余裕を見せすぎたか」
アルトは、レフェリーに手を向けて謝罪した。
対戦相手の男は、木柵を破壊しながら試合場の外まで吹っ飛ばされ、観客の群れに衝突した。
観客たちは、蜘蛛の子を散らしたように倒れる男から離れる。
この試合に場外はない。これまで木柵を破壊して場外にでることなどなかったこともあり、想定すらされていなかった。
アルトがゆっくりと倒れる男に向かって歩き出すと、男も立ち上がった。男は、折れた両腕で何事もなかったように拳を握り、粉々に砕けた肋骨をものともせず、半身になって構える。
「やはり、魔法で操られているか」
アルトはそう呟くと、向かって来る男の攻撃を軽くいなしながら、周囲を探した。
何者かがこの男を操っている。男が痛みを感じないどころか、骨折した身体でもまともに動いているのはそのためだ。
「そこか……!」
見つけた。
人いきれに紛れ、身を隠して後方から眺める卑怯な奴。
アルトは、突進して来る男を捕まえ、投げ飛ばした。
男は広い物置のような建物に激突し、木の壁を突き破りながら建物の中へ。
アルトが男を追って建物の中に入ると、埃の舞う薄暗い中にいたのは、緑の色の裏地の黒いマントで身体を包み、深緑の頭巾で頭を覆った髑髏の仮面の男――キメリア。
「やはり、貴様だったかキメリア」
「……気付きましたか、お見事です」
「背後に隠れてこそこそ動くのはいかにも魔族らしい……が、ここは退いてもらうぞ!」
アルトは足元の木材を脚で跳ね上げて手に取ると、キメリアに向かって振り回した。
キメリアは片腕でガードし、木材はキメリアの腕に負けて砕け散る。
「く……あなたこそ、邪魔です!」
キメリアが倒れている男に手を向けると、男がむっくと起き上がった。
が、その直後、アルトの蹴りがキメリアの腹部に命中し、キメリアは建物の壁を破って外まで吹っ飛ばされた。
観衆たちがアルトと対戦相手の男が突っ込んでいった建物を見守っていると、建物の反対側で大きな音がしたかと思えば建物が一気に崩れ、辺りに砂ぼこりが舞い散った。
マリーは砂ぼこりからメグを守るため、メグを抱きしめ、メグはマリーの腕の隙間からアルトの入って行った建物が崩れる様を茫然と見ていた。
砂ぼこりが少しずつ治まると、崩れた建物の外に倒れる人影が見え、その人影はゆっくりと起き上がった。
「アルトくん!」
メグが叫んだ。
「いやあ、間一髪助かりました」
濃紺の髪に仮面をつけ、眼鏡を掛けた男――アルトが、九死に一生を得たという風を装いながら、その場に座り込んだ。
審判たちが崩れた建物の下を探すと、対戦相手の男は全身に複数の骨折をしながら気を失っており、この瞬間アルトの優勝が決まった。
アルトがキメリアを遠くまで蹴り飛ばしたことで、キメリアが男に掛けていた魔法が解除されたため男は動かなくなったのだが、レフェリーや観衆たちはそんなことは露知らず、男は建物の下敷きになったことで骨折し、気を失ったと考えた。
仮面の男が元・魔王であるアルトということを知っているクロエは、
「ちょっ……ここまでの戦いをちゃんと見てなかったの? 蹴りで数メートル吹っ飛ばしたり、ボールのように投げ飛ばしたりしてたわよ」
と、観衆の反応に困惑していたが、
「くそ、あの仮面野郎、ツいてるぜ」
「まさか、あの超強い奴が建物の崩壊に巻き込まれるなんてな」
「そうじゃなきゃ、あいつが敗けるはずがねえ」
と仲間の騎士も口々に言うので、何かを言うのは止めた。
だが、クロエも対戦相手の男がキメリアに操られていたことまでは気付いていない。そのことも含めて真実に気付いていたのは、商人レイチェルだけであった。
レイチェルは、面白い物を見つけたといった顔でアルトに近付き、
「お兄さん、凄いじゃないか」
そう言って笑顔でアルトを讃えた後に、顔を近付け、声を潜めた。
「あの中に、操っていた奴がいたんだろう?」
アルトは一瞬驚きを見せたが、直ぐに口元に笑みを浮かべた。
「よく気付いたな」
「まあね、物だけじゃなく、人を見る眼もあるんでね。それでさ、あのベルトについている宝石のことなんだけど……」
レイチェルは、幾分か猫なで声で商談を切り出した。
「悪いがそれは――」
アルトが言い掛けたとき、何の前触れもなく、突如として街全体が闇に包まれた。
遠くに見えていた山も青い空も見えなくなり、そこには黒い闇があるばかり。いや、よく見れば闇の手前に、緑色に輝く巨大な柱が立っており、それは牢獄の格子のようにタルエンの町を取り囲んでいる。
「なんだい、こりゃあ……」
レイチェルが周囲を見渡す横で、アルトは街を取り囲む緑色の柱に気付くや、仮面を外しながら咄嗟に声を上げた。
「クロエ、町の人を守れ! モンスターが来るぞ!」
少し離れた所にいたクロエは、アルトの急な指示にただキョトンとしていたが、ふと、左前方に正方形の闇が現れたかと思うと、その闇から緑色の格子の檻が現れ、その檻の中から猛禽類タイプの乙級モンスター、ダーク・コンドルが現れた。
「アルトくん!」
マリーとメグがアルトの下に駆け寄って来ようとしているが、その2人を狙ってダーク・コンドルが飛んで来る。アルトは跳び上がって空中でダーク・コンドルを倒すと、
「丈夫な建物の中に入っていろ」
と2人に指示し、レイチェルに託そうとしたが、その瞬間、上空から無数の緑色の柱が落下して来て、周囲を大きく破壊した。
アルトはマリーとメグを庇いながら衝撃に吹き飛ばされて地面に強く叩きつけられ、マリーとメグも意識を失って倒れた。
そのアルトの前に現れる、浮遊する人影。
緑の裏地の黒いマント。深緑の頭巾の下は髑髏の仮面――
「我が名はキメリア。オルレウス魔王国軍団長が一人、翠牢のキメリアである」
死刑宣告にも近いキメリアの名乗り。禍々しい風貌のキメリアを目の当たりにした町の人々は、1人の例外なく慄き、絶望した。
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