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水の魔物  作者: たかまち ゆう
第四章 竜の洞窟 

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4-2. 契約

『では契約だ。リーン、おまえの真実の名を言え』

「『真実の名』……ですか?」

 キエコーン一族では、生まれたときに二つの名を与えられる。一つは普段の生活に使う名前、もう一つが『真実の名』で、これは魔導士として力を使うときに呪文の中に組み込む名だった。

「レシュリーン、です」

 通常は隠しておかなくてはならないと教えられていたその名を、しかしリーンは躊躇いなく口にした。

『よかろう。ではレシュリーンよ』

 竜は尻尾を動かして体の前へ持ってくると、爪で尻尾の先を引っ搔いた。

 プツ、と音がして、尻尾の皮膚が破れる。

「あ……。血が……」

 傷口から滲み出てきた液体を見てリーンは呟いたが、その「血」はヒトとは違い、緑色をしていた。

『――これを飲め』

「は……。その、それを、飲むんですか?」

『そうだ。契約だと言ったはず』

「…………」

 リーンは恐る恐る竜に近寄り、傷口に唇を寄せた。

「……!!」

 ヒトの血とは違う、草の汁のような味がした後、喉から胃までが燃えるように熱くなり、その熱さは一気に全身へ広がった。

 体全体が膨張しようとしているかのような痛みに、リーンは息ができなくなった。

 膝からガクリと力が抜け、リーンは洞窟の地面に倒れ込んだ。

 受け身を取れず、体のどこかをしたたかに打ちつけたような気もしたが、もはやどこが痛いのかさえよく分からない。

 そんなリーンの耳に、竜の静かだが威厳のある声が入ってきた。

『レシュリーン、おまえに我が魔力の一部を与える。永遠に我の(しもべ)となれ』

(……!!)

 体の痛みが和らぎはじめ、リーンは息ができるようになった。地面に倒れたまま、数回荒く呼吸する。

 しかし、体全体が熱を帯びているかのような感覚は消えなかった。

『我が名はアーサー・ガウル。覚えておけ、レシュリーン。契約違反は死を意味するということを!』


     *


「……ん……」

 わずかに身じろぎして、リーンは目を覚ました。

『どうした? リーン』

 アーサーは起きていたらしい。目をギョロリと動かしてリーンに問いかけてきた。

 あの「契約」のとき以降、アーサーは彼女をまた、ただ「リーン」と呼ぶ。

「……初めてアーサー様にお会いしたときのことを、夢に見ていました」

『そうか。……もう何年になるかな、おまえと初めて会ってから』

「そうですね……。三十年くらいじゃないでしょうか」

 自分よりずっとずっと長く生きているアーサーにとって、三十年は長かったのか短かったのか、とリーンは考えた。

『我が封印されてからというもの、この洞窟を訪れる者はいなかった。最初の客がおまえのような者だったおかげで、我は随分助かった。あの時、残り少ない魔力を与えた甲斐があったな』

 少なくともリーンにとって、三十年は長かった。なにしろ、アーサーに会うまでの人生の二倍近くもあるのだ。

 だが、それと同時に、アーサーと出会ったあの日のことは、今でも昨日のことのように感じる。それだけ鮮烈な記憶だった。

 あの日から、リーンは人間の仲間であることをやめた。

「最後の獲物を、連れてきます」

 誰より愛しい竜に向かって、リーンはそう宣言した。

『最後……?』

 アーサーが軽く首を傾げる。

「本当に最後の一人は、私でも構わないと、申し上げたでしょう?」

『まだ決めたわけではない』

 アーサーの答えはそっけなかった。この前は笑ってくれたのに。

 もしかして、自分は何か彼の気に障るようなことを言ってしまったのだろうか。嫌われてしまっただろうか? 本当に捨てられてしまったらどうしよう?

「……行って参ります」

 打ちのめされた気持ちで、リーンは洞窟を飛び出した。


     *


 リューカ村では、村長モイケの家をクラムが訪ねていた。

「この度は、ご心配をおかけしたようで、村長にも皆様にも申し訳ありませんでしたな。塾も随分長い間閉めてしまいました」

「いや、ご無事で良かったです」

 五十歳をわずかに超える年齢のモイケは、年長のクラムに対していつも丁重に話す。

 一方クラムも、モイケの立場を考え、普段は村長を立てる話し方をしていた。

 しかし今日は、一通りの挨拶が済んだところでクラムは声を落とし、口調を変えた。

「実は、儂が道に迷ったのには、……理由があるのだ」

 これから話すことは、「村長」としてのモイケではなく、かつて教え子であった一人の男に対しての言葉だということを、それで表したのだ。

「理由?」

 モイケは一瞬驚いた顔をしたが、クラムの意図を察しておとなしく次の言葉を待った。

「儂は、森で一人の少女を見た。金の長い髪……、あれはリーンだった」

「本当ですか!?」

 モイケの顔が急に輝き、頰が紅潮するのを、クラムは好もしそうに眺めた。

 モイケは、行方不明になったリーンのことをずっと気にかけていた。

 モイケが次の村長に甥を指名して自らは独身を貫いているのは、行方不明になったリーンを今でも待っているからだと噂されているし、本人もそれを否定しない。

 そもそも、たった一人の肉親であった祖父を病で失い天涯孤独になったリーンを助け、何かと面倒を見てやったのは、当時村長であったモイケの父だったのだ。

 リーンと同年代だったモイケは、「仲良くしてやれ」と父から命じられていた。

 モイケは忠実にそれに従おうとしたのだが、当のリーンは周りの人間のことなどさっぱり気にかけず、部屋にこもりがちだったかと思うと、ある日いつの間にかいなくなっていた。

 だがそれからもずっと、モイケがリーンの帰りを待ち続けていたことは、村の多くの者が知っていた。住む者のいなくなったキエコーンの家を、モイケは今でも手入れし続けているのだ。

「……しかし、『少女』というのは……?」

 ふと気付いた様子で、モイケはクラムを見返した。

 クラムの表情が曇った。

「そうだ。儂もそれが不思議なのだ。……森で少女を見かけた時、儂は咄嗟に『リーン』と呼びかけた。もちろん、本人のはずはない。年の頃は十六、七……。ちょうど、リーンが失踪した頃の年齢に見えた。普通に考えれば、あれはリーンの子か孫なのだろう。他人の空似と考えるよりは、有り得ることだ。だが、儂にはどうしてもそうは思えなかった。あの少女は、あまりにも『リーン』そのものでありすぎたのだ」

 クラムもまた、リーンのことはよく憶えていた。

 彼女はクラムの「塾」には来なかったが、彼女の祖父に頼まれて家庭教師のようなことをしていた時期があるのだ。

 彼女が独りになってからは、それとなく様子を見に行ったりもしていた。

「それで、その少女はどこにいたのです?」

 勢い込んで訊くモイケは、その少女がリーン本人でもその孫でも関係ないと思っているのが明らかだった。

 クラムは、一つ溜息をついた。

「森へ入り、泉へ向かい始めてすぐ……そう、振り返っても森の入り口が見えなくなったあたりだった。儂が名を呼んだとき、あの少女は明らかに反応した。あれは少なくとも、リーンの名を知っている者の反応だった。……あの少女は儂以上に驚いて、そして逃げた」

「逃げた!?」

「知り合いに会うとは思っていなかった、ということなのかな。何か姿を現せない事情があるのかもしれん」

「そう…ですか」

「儂も随分捜しはしたのだ。あの時、逃げたリーンを、儂はすぐに見失ってしまった。その後、リーンが去っていった方角へ行ってあちこち捜し回ってみたが、結局は見つからなかった」

「そうか……。それでなかなか帰れなかったのですね……」

 モイケは目を伏せ、噛みしめるように呟いた。

「生きていたのか……。リーン。良かった。良かった……」

「お前さんに会わせてやれなくて、すまないな」

「いいえ。生きていることが分かっただけで充分です。私はこの村に、リーンの居場所を作ってやることができなかった。リーンがずっと息苦しそうに暮らしていることを知っていたのに。リーンがいつも屋根に上ってばかりいたのは、少しでも村を離れたかったからなんでしょうか……。今は幸せになっていてくれるといいんですが」

 モイケはぎこちなく微笑んだ。

 クラムは、本当にそれでいいのかと問いかける目を向けたが、口にはしなかった。

 と、その時、部屋のドアがノックされ、モイケの義理の妹リリが顔を出した。

「村長、お客様です。王都からの――」

 ふう、とモイケは溜息をついた。

「どうやら、この話はここまでですね」

「そうですな。では、儂はここらでお(いとま)しますよ」

「いえ、いてください。おそらく、その方が良いと思いますから」

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