第51話:先代の、奥様
その晩の夕餉でオスカー様は、兄嫁の話をなさった。
「兄嫁殿はな奥方。気の毒な方だった」
葡萄酒の杯を、置きながら。
「北の家に、向いておられなかった。王都のお生まれでな。冬の長さに、参っておられた。……一度王都のお集まりで泣かれたことがある。人前で。あれには、まいった」
その方は、笑っておられた。悪意は、なかった。それは、わかった。この方は、亡くなった義姉の話を、亡くなった父の話をするのと、同じ調子で、なさっているだけだった。身内の思い出話として。
「困った方だった。だが、優しい方でな。庭の薔薇を——」
旦那様が、立たれた。音は、しなかった。椅子を引く音も、皿の音も。
「……失礼する」
それだけ、おっしゃった。扉が、閉まった。
オスカー様は、少しの間、その扉を見ておられた。それから、肩をすくめられた。
「困った奴だ。兄上にそっくりだ」
コルネリア様の手が、フォークを、握ったままだった。わたくしは、その手の甲を見た。白く、なっていた。
執務室に灯りが、あった。わたくしは、茶を淹れた。
濃くはせず、熱くもせず。ぬるいのでもなく。この方は、書類を読みながら飲まれるので、熱いと、忘れられる。忘れられた茶は、冷める。
扉を叩いた。
「どうぞ」
中へ入ると旦那様は、書類を見ておられた。読んでは、いなかった。頁が、めくられていなかった。
わたくしは、卓の端に茶を置いた。何も、伺わなかった。旦那様は、何も、おっしゃらなかった。わたくしは、礼をして、退がった。
扉を閉める間際、茶碗の触れる、小さな音が、した。
その夜、わたくしは、眠れなかった。厨房へ下りた。
竈にまだ熾火があった。グレーテさんが、湯を、落としておられた。明日の朝の仕込みである。
「奥様。こんな時間に」
「お湯を一杯」
グレーテさんは、何も言わずに、湯呑みに、白湯を注いでくださった。卓の端にまだあの砂糖の袋が、あった。開いていなかった。わたくしは、その袋の横に湯呑みを置いた。
「グレーテさん」
「はい」
「先代の奥様は、どのような御方でしたか」
老いた料理長は、しばらく湯の音を聞いておられた。
「……薔薇の御方でございました」
「薔薇」
「西の温室の。あれは、みな、あの方が、お植えになったものでございます。北の土では、薔薇は、育ちませぬ。冬に凍りますでな。それをあの方は、温室を建てて、火を焚いて、二十年、育てておいででした」
グレーテさんは、湯を少し、足された。
「あの方は、王都の御生まれでございます。年に一度、冬の終わりに王都のお集まりへお出かけになりました。ヴェッセルの奥方として。……お帰りになると三日、お部屋から、出ていらっしゃいませんでした」
「……」
「わたくしどもは、ずっと、お風邪と、思っておりました。北から王都は遠うございます。馬車で五日。お疲れになったのだ、と」
湯が、鳴った。
「違いました」
グレーテさんは、湯を火から、下ろされた。
「傾いた家の奥方が、どういう扱いを受けるものか。……わたくしは、厨房の者でございます。お集まりの中のことは、存じません。ただ、お帰りの日のご様子だけを、二十年、見てまいりました。年ごとに細く、なられました。最後の三年は、お食事が、通らなくなりました」
「……お薬は」
「お医者は、心の臓だと。……奥様。心の臓は、いっぺんに、止まるものではございません。少しずつ削れて、止まるものでございます。あの方は、二十年かけて、削られました」
わたくしは、湯呑みを握っていた。白湯は、もうぬるくなっていた。
「レナート様は、そのとき」
「十八でいらっしゃいました」
「……」
「お母上のお部屋の前で、三日、お立ちになっておいででした。入られませんでした。入ってはいけないと思っておられたのでしょう。あの方は、そういう育ち方をなさいました」
グレーテさんは、布巾で卓を拭かれた。この方の手は、いつも動いている。話しながらでも、動いている。それが、この方の悲しみ方なのだとわたくしは、この頃、思うようになった。
「奥様。旦那様が、何も期待なさらぬのは、冷たいからでは、ございません」
「……はい」
「期待をなさると人は、王都へ出てまいります。奥方として。……お母上は、それで、削れておしまいになりました」
わたくしは、目を閉じた。三条件の三つ目。
——互いに、干渉しない。
あれは、壁だと思っていた。壁は、閉じ込めるためにも、建つ。守るためにも、建つ。
わたくしは、礼を申し上げて、厨房を出ようとした。扉のところで、グレーテさんが、言われた。
「……奥様」
「はい」
「余計なことを、申します」
老いた料理長は、砂糖の袋を、見ておられた。
「先代の奥様が、最後にお出になった、王都のお集まり。あの冬の——」
布巾を、握っておられた。
「あの席に。……オスカー様も、いらっしゃいました」
北の土では薔薇は育ちません。凍りますので。それを温室を建てて、火を焚いて、二十年。——先代の奥様の温室は、第14話でアデーレが雨宿りをした、あの温室でございます。
旦那様の「何も期待しない」は、壁でございました。壁は、閉じ込めるためにも、守るためにも、建ちます。
次回、第52話「冬の、人足」。冬の森は、人が減る季節でございます。
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