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契約違反の代償をお支払いください

三度目の協議は、前の二回より静かだった。


静か、というのは穏やかという意味ではない。

むしろ逆で、余計な言葉が削ぎ落とされ、言い逃れの余地だけが先に消されている、という意味だ。


場所は同じ迎賓館。

けれど今回は、机の上に置かれている紙の性質が違った。


前回までは分析書、条件文案、協議記録。

今日はそこに、契約書そのものが加わっている。


三年前、私と王太子家の間で交わされた婚約契約。

期間三年。

役割、出席義務、対外的体裁、解除条件。

そして、相手の名誉を毀損しないこと。


私はその羊皮紙を見下ろしながら、少しだけ指先を整えた。


父は前回同様、私の隣。

向かいには王妃殿下、宰相、ユリウス殿下。

外務局長と礼官長は今回外れている。代わりに、王妃宮筆頭女官と法務記録官が同席していた。


つまり今日は、実務よりも清算の話だ。


王妃殿下が最初に口を開いた。


「前回までの協議により、第三条件――すなわち、殿下ご本人の認識不足と運営上の判断不備を記録に残す件については、文案が整いました」


筆頭女官が一枚の紙を前へ置く。

私も写しを受け取った。


文面は簡潔だった。


王太子ユリウスは、過去三年において婚約者役に付随しない実務が王太子家運営の一部として非制度的に集中していた事実を十分把握していなかったこと。

また、その結果として確認工程と責任所在が曖昧になり、先般の停滞を招いたこと。

この二点を、王太子家運営上の不備として記録すること。


私は最後まで読み、紙を置いた。


「妥当です」


ユリウス殿下の顔は硬かった。

署名はまだない。だが、文案がここまで来た時点で、もう以前のように“そんなつもりではなかった”では済まない。


宰相が淡々と言う。


「第三条件については、殿下の確認と署名をもって成立としたい」


「承知しました」と私は答えた。


「ですが、本日はそれだけではございません」


応接間がわずかに静まる。


王妃殿下がこちらを見る。


「ええ。あなたから追加で提示があった件ですね」


「はい」


私は契約書の写しを開き、あらかじめ細く挟んでおいた栞紐を引いた。


「本件は、運営上の不備だけでは終わりません。

三年前の契約そのものに対して、王太子家側の違反が存在しております」


ユリウス殿下の眉が跳ね上がる。


「まだあるのか」


「ございます」


私は静かに答えた。


「むしろ、こちらの方が本来は先に清算されるべき話です」


法務記録官が姿勢を正した。

その反応だけで、今日の論点がどこにあるかは十分伝わっただろう。


私は契約書の該当箇所へ指を置く。


「第五条第二項。

“婚約期間中、王太子家は当該婚約者の公的名誉を損なわず、その地位に反する扱いを行わないこと”」


次に一つ下の条文。


「第六条第一項。

“婚約者役は期間限定の公的役務であり、その対外的体裁は王太子家が維持責任を負うものとする”」


私は顔を上げた。


「この二条に関して、違反がありました」


殿下が苛立った声を出す。


「何を根拠に」


「記録です」


私は別の紙束を取り出した。


前もって整理した一覧。

過去三年間で、私の立場が“婚約者”として守られなかった場面だけを、日付と行事名で並べたものだ。


「まず一件目。

昨年春の南方使節晩餐会。

当初、王太子婚約者席として予定されていた位置が当日変更され、聖女ミレーヌ様が殿下の直近へ配置されました。私はその変更理由の説明を受けておりません」


礼官長はいないが、筆頭女官が小さく眉を寄せた。

たぶん覚えがあるのだろう。


「二件目。

夏季慈善茶会。

王太子家名義の招待状において、私の名が“同席予定”とだけ記され、婚約者としての表記が省略されました。一方で、聖女様については当日紹介の形で正面に立たれております」


ユリウス殿下が言う。


「それは慈善行事であって、婚約披露の場ではない」


「ええ。ですから私は、聖女様が前に出ること自体は問題にしておりません」


私は淡々と返した。


「問題にしているのは、王太子家の婚約者として処遇されるべき私の立場が、同日同時に曖昧にされたことです」


そこを混ぜると論点がぶれる。

私はそこだけは、最初から切り分けておくつもりだった。


「三件目。

秋の東方使節受け入れ。

この件では席次そのものに問題はありませんでしたが、事前打ち合わせの席で殿下が“リゼットは細かいところを整えるのが得意だから、そういう裏方を任せればいい”と発言なさっています」


殿下の顔が強張る。


「……そんなことまで」


「記録係が控えておりました」


私は紙を軽く持ち上げた。


「正式議事ではなくても、周辺に残った言葉はございます。

そしてその結果、私は婚約者としてではなく、“裏方として使いやすい者”という認識で各部署から扱われる頻度が増えました」


法務記録官が低く問う。


「その発言と実害の因果は示せますか」


「完全因果ではありません」


私は頷いた。


「ですが少なくとも、その後の二案件において、侍従局と礼官局から“婚約者席としてではなく、実務調整役として確認を”という書式外の回付が増えています。

こちらがその写しです」


紙を前へ滑らせる。

私はこういうとき、口だけで争う気はない。紙があるなら、紙を出す。


王妃殿下が、その一枚を受け取って目を通した。

表情は変わらない。だが、視線の止まり方で十分だった。


「ほかには」


「はい」


私は最後の束へ手を伸ばす。


「もっとも重いのは、婚約者役としての立場の継続的曖昧化です」


私はそう言ってから、机の中央へ一枚の表を置いた。


そこには三年間の主要行事と、


私の立場表記

事前説明の有無

聖女ミレーヌ様の位置づけ

その後の社交界での問い合わせ件数


を並べてある。


「王太子家は、私に婚約者役としての出席を求めながら、複数の場面で聖女様を事実上の優先対象として前面に置きました。

それ自体を違反とは申しません。

ですが同時に、私の立場について王太子家側が明確な整理を行わず、説明も補償もしなかった」


私はそこで言葉を切った。


「その結果として、私は少なくとも七回、社交上の探りを受けました。

三回は直接。四回は父家への照会という形でです」


父が横で静かに言った。


「事実だ」


その低い一言は、私が説明するより重かった。


「照会内容は単純です。

“婚約は維持されているのか”

“聖女様の立場は何なのか”

“フェルノー家はどこまで了承しているのか”

――そうした問い合わせが、継続的に発生しました」


私は契約書を閉じた。


「これを、婚約者の公的名誉が守られていた状態とは申しません」


応接間の空気が冷える。


誰もすぐには反論しなかった。

その沈黙が、半ば答えになっている。


ユリウス殿下がようやく口を開く。


「待て。私はお前を追い落としたわけではない」


「そうでしょうね」


私は静かに答えた。


「殿下は意図的に追い落としたのではない。

ただし、放置なさいました」


「放置?」


「ええ。

聖女様を前へ出す。

私の立場を曖昧にする。

その曖昧さによって社交上の探りや侮辱が発生する。

にもかかわらず、王太子家としてそれを是正しない。

それを“放置”と申します」


殿下が息を詰める。


私は感情を乗せずに続けた。


「契約違反とは、必ずしも悪意ある行為だけを指しません。

必要な保護を怠り、名誉維持責任を果たさなかった場合も同様です」


法務記録官が、小さく咳払いをした。


「その解釈は、契約文言上も成立します」


殿下がそちらを見る。

だが、法務記録官は目を逸らさなかった。


「王太子家が“婚約者役の対外体裁維持”を負っていた以上、立場の曖昧化による名誉上の損失が継続していたのであれば、違反評価は可能です」


ここまで言えば十分だった。


私は最後の一枚を前へ出す。


「以上を踏まえ、求めるものは三つです」


また三つか、と殿下が言いたげな顔をしたが、もう口にはしなかった。


「一つ。

王太子家名義での正式謝罪。

これは感情のためではなく、記録と社交上の整理のためです」


「二つ。

過去の主要行事記録において、私の立場が不当に曖昧化されていた箇所の注記修正。

少なくとも、契約婚約者としての位置づけが後から否定されないように」


「三つ。

契約違反に対する補償金の支払い。

これは金額の問題ではなく、“違反があった”ことを王太子家自身が認めるための形式です」


宰相が問いかける。


「金額案は」


私は父の方を一度だけ見てから、答えた。


「フェルノー家が失った社交上の信用回復費用、ならびに三年間の契約外実務のうち名誉維持違反と関係する部分を含め、算定表を用意しております」


私は別紙を前へ出した。


細かくはない。

だが、曖昧でもない。

この手の補償は、雑に高く吹っかけるとこちらの品位が落ちる。逆に安すぎると、違反が軽く見られる。

だから必要なのは、納得できる数字だ。


王妃殿下が算定表へ視線を落とし、静かに言った。


「穏当ですね」


「そうですか」


「ええ。もっと感情的な請求で来るかと思っていました」


「その必要がございませんので」


私は淡々と答えた。


「こちらは復讐をしたいのではなく、清算をしたいだけです」


王妃殿下は、その言葉にほんのわずかに目を伏せた。


宰相が法務記録官へ視線を向ける。


「見解は」


「契約違反評価は可能。

補償額も、形式上過大ではありません。

謝罪および記録注記修正と合わせるなら、収まりはよいかと」


収まりはよい。

その表現は少しだけ皮肉に聞こえたが、今はそれで十分だった。


ユリウス殿下が、低く言う。


「そこまでしなければならないのか」


王妃殿下が即座に返す。


「しなければならないのです」


その声音は、これまでで一番冷たかった。


「あなたが軽く見てきたものの中に、契約も、名誉も、運営も含まれていた。

ならば、その軽さの代償は払わねばなりません」


殿下は黙った。


私はその沈黙の間に、ようやく少しだけ息を抜いた。

ここまで来れば、もう感情で覆すのは難しい。


宰相が書面を整える。


「では整理します。

王太子家は、婚約契約第五条第二項および第六条第一項に関し、名誉維持責任を十分果たしていなかった可能性を認める。

謝罪、注記修正、補償の三点を軸に文案を作成。

異論がなければ、正式文書として整える」


私は頷いた。


「結構です」


「殿下」と王妃殿下。


ユリウス殿下は机を見つめたまま、短く言った。


「……異論はない」


それは納得の声ではなかった。

だが、記録に残るのなら、今はそれで十分だ。


そして宰相は、最後の一文を加えた。


「加えて、本件および先般の運営停滞を踏まえ、王太子殿下の対外公務の一部見直しを進言します。

少なくとも、外務・儀礼関連の単独判断は当面停止。継承教育日程も再調整が必要でしょう」


そこで初めて、殿下が顔を上げた。


「そこまで――」


「そこまで、です」と王妃殿下が言った。


「契約違反と運営不備が同時に認定される以上、何も変わらない方がおかしい」


殿下は、今度こそ何も言えなかった。


それでよかった。


私は王妃殿下を見た。

この方は感情で庇わない。

少なくとも今は、王太子の母である前に、王太子家の管理者であろうとしている。


「以上です」と私は言った。


「私からは」


王妃殿下が静かに頷く。


「リゼット嬢。本件について、王太子家として正式に文書を整えます。

あなたが求めた三点についても、原則として受け入れます」


私は礼をとる。


「ありがとうございます」


それは勝利の礼ではない。

あくまで、清算が成立したことへの確認だ。


協議が終わり、廊下へ出ると、外は薄い夕暮れだった。

前回よりも、空が少し明るい気がする。


後ろから足音がして、アルノー様が並んだ。


「……思っていたより、早く決まりましたね」


私がそう言うと、彼は静かに答えた。


「決まるべきものだったのでしょう」


「そうですか」


「はい。先延ばしにされていただけです」


その言い方は少しだけ好きだった。

慰めではなく、整理だからだ。


「殿下は、かなり後退なさりそうですね」


「ええ」


アルノー様は感情のない声で言った。


「当面、外務と儀礼の単独判断は外れます。継承教育も見直しです。記録に残る以上、なかったことにはなりません」


私は歩きながら、小さく息を吐いた。


「それでも、少しは足りない気もします」


「何がですか」


「私が欲しかったものは、謝罪でもお金でもないのかもしれません」


そう言ってから、自分で少しだけ不思議に思った。

あまり、こういう種類のことは口にしない。


アルノー様はすぐには返さなかった。

少し歩いてから、静かに言う。


「分かってほしかった、ですか」


私は彼を見た。


「……たぶん」


「それは、謝罪文では埋まりませんね」


「ええ」


「ですが、埋まらないからといって、記録を取る価値がなくなるわけでもない」


私は少しだけ口元を緩めた。


「相変わらず、そういうところは冷静ですね」


「感情で処理すると、後で崩れます」


「そうでしょうね」


しばらく黙って歩く。


迎賓館の廊下は静かで、足音だけが淡く響いていた。


「セレヴァン様」


「はい」


「今回の件で、王太子家の中で私を庇うような言い方をなさらなかったのは、正しかったと思います」


彼は少しだけ目を細めた。


「庇う必要がありませんでした」


「なぜですか」


「あなたの方が、事実として強かったので」


私はその答えを聞いて、少しだけ可笑しくなった。


そういうところだ。

この人は甘い言葉の代わりに、正確な言葉を持ってくる。


それが、妙に心地よかった。


迎賓館の玄関口まで来たところで、父が先に馬車へ向かう。

私は一歩だけ遅れて立ち止まった。


契約違反の代償。

それはきっと、金額でも謝罪文でもない。

本当の代償は、今後の立場が以前と同じではいられなくなることだ。


ユリウス殿下はもう、以前のように“何となく誰かが整えてくれる場所”には立てない。

そして私は、もう“整える側にいるのが当然の婚約者”ではない。


その線引きが終わった。

今日は、そういう日だった。


「これで、ようやく終わりましたね」


私がそう言うと、アルノー様は少しだけ首を横に振った。


「終わった、というより」


「何ですか」


「あなたが、やっと自由に次を選べるようになったのだと思います」


私はその言葉に、すぐには返事ができなかった。


けれど、馬車へ乗り込む直前になって、ようやく小さく息をつく。


「……そうかもしれません」


それはきっと、今日いちばん正しい言葉だった。

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― 新着の感想 ―
責任の重さを甘くみる王太子、廃嫡まっしぐらでは?少なくとも関係者の中で優秀とか将来有望の看板は外れそう。他人の仕事を甘く見て自分が甘く見られる立場に落ちかねなくなるのでは。
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