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便利な婚約者の不在証明

第二回の協議は、前回より少しだけ人数が多かった。


場所は同じ迎賓館。

ただし今回は、王妃宮と宰相府に加え、外務局長、礼官長、侍従局次長、そして記録係が二名。

王宮の中核に近い人間だけを集めた、半ば実務会議のような顔ぶれだった。


私は席に着く前に、それを一目で確認した。


余計な貴族はいない。

観客もいない。

だが逆に言えば、ここにいる者たちは全員、後から「聞いていない」とは言えない立場だ。


悪くない。


机の中央には、前回の協議記録と、新たに王妃宮側で整えられた条件文案が置かれていた。

第一条件と第二条件は、ほぼこちらの意図通りに直されている。

問題は第三条件で、そちらはまだ結論保留のままだった。


つまり今日は、そこを動かすための場でもある。


私は席につき、紙束を静かに机へ置いた。


「本日は、先日の分析書を補足し、実際に私が担っていた業務と、その不在によって発生した停滞を具体的にご説明いたします」


王妃殿下が頷く。


「お願いいたします」


ユリウス殿下は、前回よりは不機嫌さを隠していた。

隠しているだけで、なくなってはいない。

ただ、最初から口を挟むつもりはないらしい。王妃殿下に釘を刺されたのだろう。


宰相が短く言った。


「本日の説明は、第三条件の要否判断に直接関わるものと位置づけます」


「結構です」


私はそう答え、一番上の紙を開いた。


「まず前提として、私が婚約者役として王宮へ入っていた三年間、表向きの役割は一貫して変わっておりませんでした。

行事への出席、王太子殿下の隣席、来客応対、王妃教育の補助。

少なくとも記録上は、その範囲です」


私はそこで一拍置いた。


「ですが実際には、それ以外の実務が継続的に流入していました」


外務局長がわずかに姿勢を正す。

礼官長も、机の上の指先を止めた。


私は紙を一枚めくる。


「分類すると、大きく六つです」


そして順に指を置いた。


「一つ、外務。

二つ、儀礼設計。

三つ、返礼品・献上品管理。

四つ、派閥調整。

五つ、王太子殿下ご発言後の事後整理。

六つ、予算圧縮と日程調整です」


侍従局次長が、ほんのわずかに顔をしかめた。

自分たちの領域も含まれていると分かったのだろう。


「外務から参ります」


私は最初の束を開いた。


「西方三侯連盟、北方商業連合、南方港湾都市。

この三系統について、私は過去三年間、返答案の下書き作成、要求整理、譲歩可能範囲の分類、そして殿下確認用要約を継続して作成していました」


外務局長がすぐに口を開く。


「確認します。正式な返答文案そのものではなく、その前段階の整理を?」


「前段階のみではありません」


私は静かに答えた。


「案件によっては、殿下名義で出す前の草案も私が作成していました。もちろん最終決裁は殿下名義ですが、論点整理と初稿は私です」


ユリウス殿下の視線がこちらへ向く。

私は気にせず続けた。


「証拠として、外務局で保管されている過去の返答案のうち七件には、私が用いた分類記号と同一の手順が残っているはずです。色分け、注記位置、付箋順まで一致するでしょう」


外務局長は沈黙した。

否定できないのだろう。


「次に儀礼設計です」


私は別の束へ移る。


「夜会、茶会、使節受け入れ、晩餐。

私は座席の原案、代替案、雨天時や欠席時の差し替え案まで用意していました。

先日の席次の件で顕在化したのは、この“差し替え時の秩序設計”が共有されていなかったためです」


礼官長が苦い顔をした。


「共有されていなかった、というより……」


「私個人の手元にありました」


私は礼官長の言葉を引き取った。


「ええ。その通りです。

礼官局にあるべき代替設計が、婚約者役の私的整理として存在していた。

それ自体が異常でした」


礼官長は反論しなかった。

その沈黙だけで十分だった。


「返礼品・献上品管理については侍従局の領分ですが、実際には、どの品をどの順で返すか、誰にどの格の品を返すか、その調整を私が行っていました。

台帳と実際の出入りをつなぐ役です」


侍従局次長が低く言う。


「そこは、侍従局内で拾えていたつもりでしたが」


「拾えていた案件もあります」


私は頷いた。


「ですが、王太子家名義で返す品について、

“相手家の社交上の意味”

まで含めて最終判断する工程は制度化されていませんでした。

そこで止まった品が、先日の台帳未処理分です」


次長が沈黙する。

こちらも完全否定はできないらしい。


私は一度、全体を見渡した。


みな、自分の部署が少しずつ関わっていると分かり始めている。

そしてもっと重要なのは、それが誰にも明文化されていなかったことだ。


「四つ目、派閥調整です」


私はそこだけ少し声を落とした。


「これは正式文書になりにくいため、最も証明が難しい領域です。ですが、負荷は最も重い」


王妃殿下が静かに言う。


「続けてください」


「たとえば、ある家の令嬢を少し前へ出す。

別の家には次回の茶会で埋め合わせる。

献上品の礼状の順番で角を立てない。

ある発言のあとで、侮辱と取られないよう説明の場を挟む。

そういった“問題になる前に均す仕事”です」


私はそこでユリウス殿下を見た。


「殿下ご自身は、おそらくこれを仕事とはお考えではなかったでしょう」


殿下が顔をしかめる。


「それは――」


「ですが、なくなるとこうなります」


私は侍従局次長の前に置かれた紙へ指を向けた。


「礼状遅延。

席次の探り。

出席見合わせの示唆。

“次回以降は様子を見たい”という遠回しな圧。

これらはすべて、派閥調整や社交調整が見えないところで機能していた証拠です」


宰相が静かに頷いた。


「続けて」


「五つ目。王太子殿下ご発言後の事後整理です」


ここで初めて、殿下が露骨に不快そうな顔をした。


「それは何だ」


「そのままの意味です」


私は淡々と答えた。


「殿下が会話の中で軽くおっしゃったことを、後から各部署が実行可能な形へ直す。あるいは、実行不可能なものは角が立たないよう退ける。

その役目を私は何度も担っておりました」


「そんなもの、普通に相談すれば済む話だろう」


「済んでいませんでした」


私はすぐに返した。


「たとえば昨秋の東方使節受け入れ。

殿下は“形式ばらず、温かな歓迎を”とおっしゃいました。

結構なことです。ですが、それだけでは礼官局は何を削り、何を残し、どこまで崩してよいのか判断できません。

そこで私は、儀礼を一段だけ崩しつつ、序列を損ねない案を礼官局へ回しました」


礼官長が、沈黙のまま視線を落とした。


「また、冬の寄進式では“若い者たちにも見やすく”と。

そこで私は前列配置を少し変え、王妃宮側へ事前に話を通し、表向きは新しい配慮として処理しました」


今度は王妃殿下が、わずかに目を閉じた。

覚えているのだろう。


私は最後の束へ手を伸ばす。


「六つ目、予算圧縮と日程調整です」


ここは一番“婚約者役ではない”部分だった。


「使節受け入れ費、晩餐回数、返礼品の格、移動動線。

どこを削り、どこを削らないか。

どの予定を前に寄せ、どこに休息日を挟むか。

これを私は、行事単位で毎回調整していました」


外務局長が低く問う。


「そこまで、なぜあなたが?」


「王太子家の予定表と、儀礼行事と、外務対応が一つの机の上で見えていたからです」


私は静かに言った。


「本来なら、そんな状態は存在すべきではありません。

ですが実際には、婚約者役の私の机にそれが集まり、そこで初めて整っていた」


沈黙が落ちた。


私は、わざとすぐには言葉を継がなかった。

今必要なのは、説明ではなく、この沈黙だった。


王妃殿下が最初に口を開く。


「……つまり、あなたは婚約者役の立場でありながら、王太子家の実務接続点として機能していたのですね」


「結果としては」


「結果として、ではなく事実としてです」と宰相が補う。


私はそれには答えなかった。

肯定しても否定しても、今はあまり意味がない。


代わりに、別の紙を取り出して机の中央へ置いた。


「こちらは、私が不在となってから七日間で顕在化した停滞一覧です」


外務文書の返答遅延。

夜会後の礼状処理遅延。

返礼品台帳の滞留。

礼官局の責任所在不明。

王妃宮問い合わせ件数増加。


私は一つずつ指を置いた。


「これらはすべて、なくなって初めて見えた業務です。

つまり、私が特別優秀だったという話ではありません。

ただ、誰かがやっていた。

そしてその誰かの仕事が、制度として存在していなかった」


殿下がそこで、低く言った。


「それで、何が言いたい」


私は殿下を見た。


「簡単です。

私は“便利な婚約者”ではありませんでした。

王宮がそう扱っていただけです」


その一言は、机の上に置いた紙の束よりも、ずっと静かに落ちた。

けれどたぶん、今いちばん効いた。


殿下はすぐには言い返せなかった。

代わりに宰相が、前へ一枚紙を引き寄せる。


「確認します」


その声は乾いていて、感情がない。

だからこそ重い。


「今述べられた六領域について、殿下はどこまでご認識でしたか」


ユリウス殿下は明らかに嫌そうな顔をした。


「全部を知っている必要があるのか」


「ございます」と王妃殿下が即座に言う。


殿下がそちらを見る。


王妃殿下は静かだった。


「少なくとも、自分の名義で処理され、自分の家で起き、自分の判断で変更される案件について、どこまで誰が動いているかを知らないままでよいはずがありません」


殿下は何か言おうとして、結局黙った。


宰相がもう一度問う。


「外務。儀礼。返礼品。派閥調整。事後整理。予算と日程。

この六領域のうち、婚約者役の付随を超える実務が存在していたことを、殿下は把握しておられましたか」


部屋の空気が張り詰める。


私は何も言わずに待った。


殿下は机の上へ視線を落とし、やがて絞り出すように言った。


「……そこまで広く、とは」


それだけだった。

だが十分だった。


宰相が記録係へ視線を向ける。


「今の発言を記録」


記録係が短く返す。


「記録いたしました」


私はそこで、初めてほんの少しだけ肩の力を抜いた。


王妃殿下が紙へ視線を落としたまま言う。


「第三条件の必要性は、これでより明確になりましたね」


「はい」と宰相。


「認識不足が争点ではなく、記録対象であることが確定しました」


侍従局次長も礼官長も、何も言わなかった。

だが反対もしない。

それで十分だ。


私は最後に、もう一枚の紙を取り出した。


「補足です」


「まだあるのですか」と殿下が言った。

私は気にせず続ける。


「これは、過去三年間に私が処理した案件のうち、

“王太子殿下ご本人の決裁前に、私が整形し直した案件”

の件数一覧です」


外務局。九件。

儀礼。十二件。

礼状・返礼品関連。十五件。

発言後の調整。八件。


私はその数字を読み上げた。


「もちろん、すべてが全面的な代行ではありません。

ですが少なくとも、殿下の目に入る前に、実行可能な形へ整えられていた案件数としては、これだけあります」


殿下の顔色が変わった。


「そんな数になるはずが」


「なります」


私は即答した。


「数えていたからです」


その返しで、もう殿下は何も言えなかった。


王妃殿下が深く息をつく。


「……よく三年も保ちましたね」


その言葉は、おそらく慰めではなく、純粋な感想だった。


私は少しだけ視線を伏せる。


「保たせていただけです」


「誰のために」


王妃殿下のその問いに、私は少しだけ考えた。


昔なら、殿下のためと答えたかもしれない。

王太子家のためとか、王宮の安定のためとか、それらしい言葉はいくらでもあった。


けれど今は、違う。


「崩れたあとで、誰かが余計に困らないようにです」


王妃殿下は何も言わなかった。

ただ、その沈黙は先ほどまでとは少し質が違っていた。


宰相が書面を整える。


「本日の説明で、少なくとも二点は明らかになりました」


彼は指を二本立てた。


「一つ。リゼット嬢が担っていた実務は、婚約者役の付随範囲を明確に超えていたこと。

二つ。その範囲を王太子殿下ご本人が把握していなかったこと」


外務局長が短く言う。


「外務としては異論ありません」


礼官長も続く。


「礼官局も」


侍従局次長は少しだけ間を置いてから言った。


「侍従局も、反対はできません」


ここまで来れば十分だった。


私は紙を静かに重ねる。


「以上です」


「以上ではないでしょう」


突然、ユリウス殿下が言った。


全員の視線がそちらへ向く。


殿下は、ようやく真正面から私を見た。


「それだけやっていたのなら、なぜ最初から言わなかった」


私は一瞬だけ、言葉を失いかけた。


あまりに予想通りで、逆に返答を選ぶ必要があった。


「言っておりました」


私は静かに答えた。


「ただし殿下は、それを“細かいこと”としてお受け取りにならなかった」


殿下が息を詰まらせる。


私はさらに続けた。


「そして、仮に私がもっと強く申し上げたとしても、正式肩書きも正式権限もない婚約者役の言葉より、ご自身の“今は大丈夫だろう”の方を優先なさったでしょう」


「……そんなことは」


「ございます」


私は言い切った。


「でなければ、今こうはなっておりません」


それで終わりだった。


王妃殿下は目を閉じ、宰相は沈黙し、殿下だけが何も言えなかった。


そこへ、これまで口を挟まなかったアルノー様が、初めて短く言った。


「以上をもって、本件は“感情的な行き違い”ではなく、“実務上の欠陥”として整理できます」


その一言で、場が完全に閉じた。


王妃殿下が頷く。


「そうですね。

では、本日の記録をもって第三条件文案を再整理し、改めて提示します」


宰相も続く。


「そして、今後の協力可能性については、その後に改めて」


私は礼をとった。


「承知いたしました」


面談が終わって応接室を出たあと、廊下の窓から、ようやく少しだけ陽が差しているのが見えた。


灰色の雲の切れ目から落ちるような、弱い光だ。


後ろから足音がして、アルノー様が並ぶ。


「思っていたより静かに終わりましたね」


私がそう言うと、彼は答えた。


「静かな方が深く刺さることもあります」


「そうでしょうね」


「本日は、怒られないのですね」


私は足を止めて彼を見た。


「何をですか」


「殿下へ、かなり明確に申し上げたので」


私は少しだけ考えて、それから首を横に振った。


「怒る必要がありませんでした。

今日はもう、私の感情ではなく、数字と記録の方が強かったので」


アルノー様は、そこでほんの少しだけ目を細めた。


「ええ。まさに」


それだけだった。

だが、その短い肯定は少し耳に残った。


私は廊下の先へ視線を戻す。


便利な婚約者。

その言葉は、きっとこれからもどこかで使われるのだろう。


けれど今日、少なくとも王妃宮と宰相府の記録には、別の形で残った。


不在によって、制度の欠陥が可視化された者。


それなら、悪くない。

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