王宮に戻る条件は三つです
面談の場に選ばれたのは、王都とフェルノー領の中ほどにある小さな迎賓館だった。
王家所有ではあるが、宮廷の喧騒からは距離がある。
今の時期はほとんど使われておらず、余計な目も少ない。
“中立地点”としては悪くない。
もっとも、本当に中立かどうかは、建物の持ち主ではなく、そこに座る人間の顔ぶれで決まる。
私は馬車を降りる前に、手袋の指先を軽く整えた。
隣には父。反対側にはアルノー様がいる。今回の場をまとめたのは王妃宮と宰相府だが、細部を詰めたのはたぶんこの人だろう。
「緊張しているようには見えませんね」とアルノー様が言った。
「しておりませんので」
「そうですか」
「ただし、面倒だとは思っています」
彼の口元がほんのわずかに動いた。
笑ったというほどではないが、意味は通じたらしい。
迎賓館の応接室は、王宮ほど豪奢ではない代わりに、無駄な威圧感もなかった。
磨かれた木の長机。薄い金縁の椅子。窓の外にはまだ冬の名残を残した庭木。
そして机の向こうには、すでに三人が座っていた。
王妃殿下。
宰相ローデリック卿。
そして王太子ユリウス殿下。
私はそこで、ほんの一瞬だけ視線を止めた。
ユリウス殿下は、以前と変わらず整った顔をしている。
けれどその表情には、舞踏会の夜のような余裕はなかった。気分を害しているのは明らかだが、自分がどれほど不利な立場にいるのかは、まだ半分ほどしか理解していない顔だった。
私は礼をとる。
「お招きに応じ参りました、フェルノー伯爵家次女リゼットにございます」
父も一礼する。
王妃殿下が静かに頷いた。
「ご足労をおかけしました、リゼット嬢。今回の場は、あなたを呼びつけるためのものではありません。今後の話をするためのものです」
「そのように伺っております」
「ならば結構です」
王妃殿下の声音は柔らかい。
だが、その柔らかさは“曖昧に済ませる”ためのものではない。感情で荒れないよう、最初から温度を整えているのだ。
宰相が書面を整えながら口を開いた。
「先日の分析書、確認いたしました。率直に申し上げて、王宮側の認識不足は想定以上でした」
「そうですか」
「そうです」
この人も回りくどくない。
ありがたい。
「本日は二点、確認したい」と宰相は続けた。
「一つは、分析書の内容に関する認識のすり合わせ。もう一つは、今後あなたにどこまで協力を願えるのか、その可能性についてです」
そこで初めて、ユリウス殿下が口を挟んだ。
「回りくどいな。要するに、また手を貸してもらえるかどうかの話だろう」
私は殿下を見た。
以前なら、その言い方一つで部屋の空気を読んで、必要なら受け流しただろう。
けれど今の私は、もうその役目ではない。
「いいえ、殿下」
私は静かに答えた。
「まず確認すべきは、何が壊れており、誰がそれを壊したのかです。その整理が終わらぬうちに“また手を貸してほしい”とおっしゃるのであれば、順番が逆です」
応接室が少し静かになる。
ユリウス殿下の眉が寄った。
「壊した、とは随分な言い方だな」
「では申し上げ方を変えましょうか。
何が止まり、誰がその停止を見過ごし、誰が変更判断を行い、誰が責任を曖昧にしたのか――です」
王妃殿下が、そこで静かに言った。
「その表現で結構です」
殿下がそちらを見る。
「母上」
「殿下。今回ここへリゼット嬢を招いたのは、慰撫のためではありません。現実を確認するためです」
その一言で、殿下は口を閉ざした。
ありがたい。最初からそこを曖昧にされると、話が長くなる。
宰相が短く頷く。
「では、こちらから先に確認を。分析書記載内容について、事実誤認と考える箇所はありますか」
「私からはありません」
「王妃宮からもありません」と王妃殿下。
宰相が最後に視線を向ける。
殿下は少し不機嫌そうに椅子にもたれた。
「細かい書き方には思うところがある」
「事実誤認は」
「……内容自体は、概ね」
「概ね、では困ります」と私は言った。
「どの項目に誤りがあるのか、今ここでご指摘いただけますか」
殿下はすぐには答えなかった。
そして、その沈黙が答えになってしまう。
宰相が書面へ視線を落とし、乾いた声で言う。
「では、事実関係は共有されたものとみなします」
私はそこで、ようやく本題へ入った。
「その上で申し上げます。今後、私が王宮側と何らかの形で関わる可能性があるとしても、前提条件が整わなければ応じません」
王妃殿下がわずかに顎を引く。
「聞きましょう」
「三つあります」
私は、あらかじめ用意していた一枚の紙を机の上へ置いた。
口頭だけで済ませるつもりはない。条件は最初から文字にしておくべきだ。
「第一に、今後の契約内容、権限、責任範囲を明文化すること」
私は一行目を指先で示した。
「何を依頼するのか。どこまでが私の担当で、どこからが王宮側の責任なのか。
婚約者役に付随しない実務を、曖昧な善意や慣行で私へ流さないこと。
この点が文書で定まらない限り、私は継続的な協力をいたしません」
宰相がすぐに頷く。
「妥当です」
王妃殿下も異論はないようだった。
殿下だけが、わずかに口を引き結ぶ。
「第二に」
私は次の行へ移る。
「私を“婚約者役の延長”として扱わないこと。今後必要とされるなら、それは婚約者ではなく、外務・儀礼補佐官としてです」
そこで初めて、殿下が明確に顔をしかめた。
「補佐官?」
「はい」
「お前が?」
「ええ。少なくとも、過去三年間に私が実際に担っていたのは、その領域でしたので」
殿下が何か言い返しかけたが、宰相が先に口を開く。
「事実としてはその通りです」
「しかし肩書きの話だろう」と殿下が苛立った声を出す。
私はその声に乗らず、静かに続けた。
「肩書きは重要です。肩書きが曖昧だから、権限も責任も曖昧になる。
婚約者であることと、実務を担うことは本来別です。別であるものを一つに束ねていたから、今の停滞が起きています」
王妃殿下が机の上で指を組んだ。
「それも正しい指摘です」
殿下は明らかに不満そうだったが、まだ黙っている。
あと一つで、たぶん爆発するだろう。
「第三に」
私は最後の行へ視線を落とした。
「王太子殿下ご本人が、ご自身の認識不足と運営上の判断不備を、公式記録において認めること」
応接室の空気が、そこで明確に止まった。
先に反応したのは殿下だった。
「何だと?」
「聞こえた通りです」
「ふざけるな。なぜ私が、そんな形で」
「殿下」
王妃殿下が制したが、殿下は収まらない。
「分析書を出した程度で、そこまで言う権利があると思っているのか? そもそも、お前は契約婚約者だっただけだろう」
その一言は、部屋の中にいる全員へよく響いた。
私は怒らなかった。
むしろ、少しだけ助かったと思った。
こういうとき、人は本音を隠せない。
「ええ」と私は答える。
「私は契約婚約者でした。
そして殿下は、その契約婚約者へ、契約範囲を超える実務を継続的に担わせていた。
しかも、その範囲をご自身で把握していなかった。
それが、先日の協議記録にも残っております」
殿下の顔が険しくなる。
「だからといって、公式に認めろとは――」
「必要です」
私は殿下の言葉を切った。
「今回は、ただ不機嫌になった家が数軒あった、では済みません。外交、儀礼、侍従、王妃宮、複数の部署に停滞が出た。
その原因の一つが、殿下ご自身の認識不足と確認工程の欠落にある以上、そこを記録に残さずして、何を次へ繋げるおつもりですか」
「言い過ぎだ」
「いいえ。
むしろ今まで、誰も言わなかっただけです」
応接室が再び静まる。
宰相は何も言わない。
王妃殿下も、すぐには口を挟まなかった。
それはつまり、今の応酬を止める理由がないということだ。
私は一度だけ息を整え、言葉を置いた。
「誤解なさらないでください、殿下。
これは“屈辱を味わってください”という話ではありません。
今後も同じことを起こさないために、何が不足していたかを明文化してくださいという話です」
「同じことなど――」
「起こります」
私は即答した。
「今ここで、殿下が“自分はどこを把握していなかったのか”を認められないなら、また起こります。
しかも次は、私がいない前提で起こります」
そのとき、王妃殿下が初めて深く息をついた。
「殿下」
その声音は静かだったが、かなり重かった。
「この第三条件は、リゼット嬢を満足させるためのものではありません。
王太子家の運営記録を正すためのものです」
「母上まで」
「ええ。私まで、です」
王妃殿下は視線をまっすぐ息子へ向ける。
「あなたが知らなかったことは、すでに問題ではありません。
問題なのは、知らなかったことを、今なお“認めるほどではない”と考えていることです」
殿下は黙った。
反論を探しているのだろうが、今の王妃殿下に正面から勝てる言葉は、そう多くない。
私はその沈黙の間に、紙を机の中央へ寄せた。
「念のため申し上げておきます。
この三つは、“王宮へ戻る条件”というより、話を続けるための最低条件です」
宰相がそこで初めて顔を上げた。
「最低条件」
「はい。これを満たしたからといって、私が必ず協力するとは申しません。
ただ、これがなければ、協力の是非を検討する段階にすら入りません」
父が隣で、小さく息をついた。
たぶん、そこを言うだろうとは思っていたのだろう。
宰相は数秒考え、言った。
「理解しました。
つまり、これは復帰交渉ではなく、交渉の前提を整える条件提示だと」
「その通りです」
王妃殿下が静かに頷く。
「私は第一条件と第二条件について、妥当と判断します。
第三条件も、本質的には必要です」
そこで殿下が再び顔を上げた。
「では、私は責任を認めるまで何も話せないというのか」
私は殿下を見た。
「少なくとも、“知らなかったが大した問題ではなかった”という前提のままでは、話はできません」
「……っ」
「殿下。これは私のためではありません。
あなたが今後も王太子であるなら、何を知らず、何を見落とし、どこを他人任せにしていたのか。それを認めるところからしか始まりません」
その言葉は、殿下だけでなく、部屋全体に向けたものだった。
王妃殿下は目を閉じて数秒黙り、それから宰相を見た。
「記録係へ」
扉の側に控えていた書記官が、静かに頭を下げる。
「本日の協議において、リゼット嬢より三条件の提示があったことを記録。
また、これらは今後の面談継続に関する最低条件であり、現時点で協力受諾を意味しないことも付記なさい」
「かしこまりました」
私はそのやり取りを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
最低限、言葉は記録になった。
ここまで来れば、あとで“そんなつもりではなかった”とは言いにくい。
「本日はここまでといたします」と宰相が言った。
「王妃宮と宰相府で条件文案を整理し、改めて書面で返答いたします」
「お待ちしております」
「殿下も、それでよろしいですね」と王妃殿下。
ユリウス殿下は不機嫌さを隠さないまま、短く言った。
「……好きにしろ」
私はその言い方に、ほんの少しだけ既視感を覚えた。
舞踏会の夜と同じ言葉だ。
ただし今度は、以前ほど自由に響かなかった。
もう“好きにしろ”で済む段階ではない。
そのことだけは、殿下にも分かったのだろう。
面談が終わり、私は父とともに応接室を出た。
廊下の窓からは、薄曇りの空が見える。
春になりきれない灰色の空だ。
少し離れたところで、アルノー様が待っていた。
王妃宮と宰相府の人間が先に動き始める中、この人だけはすぐに何か言おうとはしなかった。
私は立ち止まる。
「……何でしょう」
「いえ」
アルノー様は静かに言った。
「予想通りだと思いまして」
「何がですか」
「第三条件に、殿下が最も強く反発されたことです」
「でしょうね」
「ですが、第一条件と第二条件がその場で否定されなかった時点で、十分進んでいます」
私は彼を見た。
この人は、いつもそうだ。
楽観はしない。
だが、進んだ分だけは正確に数える。
「あなたは最初から、私が戻るつもりではないと分かっていたのでしょう」
そう言うと、彼は少しだけ目を細めた。
「完全に戻るつもりではない、とは思っていました」
「完全に」
「ええ。あなたの狙いは“復帰”ではなく、“清算を経た上で、必要なら新しい形を定義すること”だと」
私は数秒、黙って彼を見つめた。
そこまで正確に言葉にされると、さすがに少し落ち着かない。
けれど間違ってはいなかった。
「……よくご存じで」
「分析書と契約案の直し方で分かります」
「そうですか」
「はい。戻る方は、“どうすればうまく回るか”から話します。
あなたは最初から、“どうすれば曖昧さを消せるか”から話していました」
私はその言葉に、少しだけ息を吐いた。
「でしたら、次も話が早いでしょうね」
「そう願います」
それだけ言って、アルノー様は一礼した。
父が横でぼそりと言う。
「やはり変わった男だな」
「ええ」
「だが、まだ使える」
私は思わず父を見た。
「その評価なのですね」
「今のところはな」
父らしい。
けれど、その“今のところ”の中には、前より少しだけ肯定が混ざっている気がした。
迎賓館を出るころには、空の色がさらに鈍くなっていた。
馬車へ乗り込む前、私は一度だけ振り返る。
王妃宮も、宰相府も、ようやくこちらを“使いやすい婚約者”ではなく、“条件を持つ交渉相手”として見始めた。
それだけでも、今日ここへ来た意味はある。
ただし、まだ足りない。
第三条件が文書になるまでは。
殿下が、自分の不足を“気分”ではなく“記録”として引き受けるまでは。
本当の意味で次には進めない。
私は馬車へ乗り込み、窓の外へ目を向けた。
「王宮に戻る条件は三つです」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
条件というより、前提だ。
線引きと言ってもいい。
そして線を引けるようになったこと自体が、たぶん昔の私にはなかった変化だった。




