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7/10

王宮に戻る条件は三つです

面談の場に選ばれたのは、王都とフェルノー領の中ほどにある小さな迎賓館だった。


王家所有ではあるが、宮廷の喧騒からは距離がある。

今の時期はほとんど使われておらず、余計な目も少ない。

“中立地点”としては悪くない。


もっとも、本当に中立かどうかは、建物の持ち主ではなく、そこに座る人間の顔ぶれで決まる。


私は馬車を降りる前に、手袋の指先を軽く整えた。

隣には父。反対側にはアルノー様がいる。今回の場をまとめたのは王妃宮と宰相府だが、細部を詰めたのはたぶんこの人だろう。


「緊張しているようには見えませんね」とアルノー様が言った。


「しておりませんので」


「そうですか」


「ただし、面倒だとは思っています」


彼の口元がほんのわずかに動いた。

笑ったというほどではないが、意味は通じたらしい。


迎賓館の応接室は、王宮ほど豪奢ではない代わりに、無駄な威圧感もなかった。

磨かれた木の長机。薄い金縁の椅子。窓の外にはまだ冬の名残を残した庭木。

そして机の向こうには、すでに三人が座っていた。


王妃殿下。

宰相ローデリック卿。

そして王太子ユリウス殿下。


私はそこで、ほんの一瞬だけ視線を止めた。


ユリウス殿下は、以前と変わらず整った顔をしている。

けれどその表情には、舞踏会の夜のような余裕はなかった。気分を害しているのは明らかだが、自分がどれほど不利な立場にいるのかは、まだ半分ほどしか理解していない顔だった。


私は礼をとる。


「お招きに応じ参りました、フェルノー伯爵家次女リゼットにございます」


父も一礼する。

王妃殿下が静かに頷いた。


「ご足労をおかけしました、リゼット嬢。今回の場は、あなたを呼びつけるためのものではありません。今後の話をするためのものです」


「そのように伺っております」


「ならば結構です」


王妃殿下の声音は柔らかい。

だが、その柔らかさは“曖昧に済ませる”ためのものではない。感情で荒れないよう、最初から温度を整えているのだ。


宰相が書面を整えながら口を開いた。


「先日の分析書、確認いたしました。率直に申し上げて、王宮側の認識不足は想定以上でした」


「そうですか」


「そうです」


この人も回りくどくない。

ありがたい。


「本日は二点、確認したい」と宰相は続けた。


「一つは、分析書の内容に関する認識のすり合わせ。もう一つは、今後あなたにどこまで協力を願えるのか、その可能性についてです」


そこで初めて、ユリウス殿下が口を挟んだ。


「回りくどいな。要するに、また手を貸してもらえるかどうかの話だろう」


私は殿下を見た。


以前なら、その言い方一つで部屋の空気を読んで、必要なら受け流しただろう。

けれど今の私は、もうその役目ではない。


「いいえ、殿下」


私は静かに答えた。


「まず確認すべきは、何が壊れており、誰がそれを壊したのかです。その整理が終わらぬうちに“また手を貸してほしい”とおっしゃるのであれば、順番が逆です」


応接室が少し静かになる。


ユリウス殿下の眉が寄った。


「壊した、とは随分な言い方だな」


「では申し上げ方を変えましょうか。

何が止まり、誰がその停止を見過ごし、誰が変更判断を行い、誰が責任を曖昧にしたのか――です」


王妃殿下が、そこで静かに言った。


「その表現で結構です」


殿下がそちらを見る。


「母上」


「殿下。今回ここへリゼット嬢を招いたのは、慰撫のためではありません。現実を確認するためです」


その一言で、殿下は口を閉ざした。

ありがたい。最初からそこを曖昧にされると、話が長くなる。


宰相が短く頷く。


「では、こちらから先に確認を。分析書記載内容について、事実誤認と考える箇所はありますか」


「私からはありません」


「王妃宮からもありません」と王妃殿下。


宰相が最後に視線を向ける。


殿下は少し不機嫌そうに椅子にもたれた。


「細かい書き方には思うところがある」


「事実誤認は」


「……内容自体は、概ね」


「概ね、では困ります」と私は言った。


「どの項目に誤りがあるのか、今ここでご指摘いただけますか」


殿下はすぐには答えなかった。

そして、その沈黙が答えになってしまう。


宰相が書面へ視線を落とし、乾いた声で言う。


「では、事実関係は共有されたものとみなします」


私はそこで、ようやく本題へ入った。


「その上で申し上げます。今後、私が王宮側と何らかの形で関わる可能性があるとしても、前提条件が整わなければ応じません」


王妃殿下がわずかに顎を引く。


「聞きましょう」


「三つあります」


私は、あらかじめ用意していた一枚の紙を机の上へ置いた。

口頭だけで済ませるつもりはない。条件は最初から文字にしておくべきだ。


「第一に、今後の契約内容、権限、責任範囲を明文化すること」


私は一行目を指先で示した。


「何を依頼するのか。どこまでが私の担当で、どこからが王宮側の責任なのか。

婚約者役に付随しない実務を、曖昧な善意や慣行で私へ流さないこと。

この点が文書で定まらない限り、私は継続的な協力をいたしません」


宰相がすぐに頷く。


「妥当です」


王妃殿下も異論はないようだった。

殿下だけが、わずかに口を引き結ぶ。


「第二に」


私は次の行へ移る。


「私を“婚約者役の延長”として扱わないこと。今後必要とされるなら、それは婚約者ではなく、外務・儀礼補佐官としてです」


そこで初めて、殿下が明確に顔をしかめた。


「補佐官?」


「はい」


「お前が?」


「ええ。少なくとも、過去三年間に私が実際に担っていたのは、その領域でしたので」


殿下が何か言い返しかけたが、宰相が先に口を開く。


「事実としてはその通りです」


「しかし肩書きの話だろう」と殿下が苛立った声を出す。


私はその声に乗らず、静かに続けた。


「肩書きは重要です。肩書きが曖昧だから、権限も責任も曖昧になる。

婚約者であることと、実務を担うことは本来別です。別であるものを一つに束ねていたから、今の停滞が起きています」


王妃殿下が机の上で指を組んだ。


「それも正しい指摘です」


殿下は明らかに不満そうだったが、まだ黙っている。

あと一つで、たぶん爆発するだろう。


「第三に」


私は最後の行へ視線を落とした。


「王太子殿下ご本人が、ご自身の認識不足と運営上の判断不備を、公式記録において認めること」


応接室の空気が、そこで明確に止まった。


先に反応したのは殿下だった。


「何だと?」


「聞こえた通りです」


「ふざけるな。なぜ私が、そんな形で」


「殿下」


王妃殿下が制したが、殿下は収まらない。


「分析書を出した程度で、そこまで言う権利があると思っているのか? そもそも、お前は契約婚約者だっただけだろう」


その一言は、部屋の中にいる全員へよく響いた。


私は怒らなかった。

むしろ、少しだけ助かったと思った。


こういうとき、人は本音を隠せない。


「ええ」と私は答える。


「私は契約婚約者でした。

そして殿下は、その契約婚約者へ、契約範囲を超える実務を継続的に担わせていた。

しかも、その範囲をご自身で把握していなかった。

それが、先日の協議記録にも残っております」


殿下の顔が険しくなる。


「だからといって、公式に認めろとは――」


「必要です」


私は殿下の言葉を切った。


「今回は、ただ不機嫌になった家が数軒あった、では済みません。外交、儀礼、侍従、王妃宮、複数の部署に停滞が出た。

その原因の一つが、殿下ご自身の認識不足と確認工程の欠落にある以上、そこを記録に残さずして、何を次へ繋げるおつもりですか」


「言い過ぎだ」


「いいえ。

むしろ今まで、誰も言わなかっただけです」


応接室が再び静まる。


宰相は何も言わない。

王妃殿下も、すぐには口を挟まなかった。

それはつまり、今の応酬を止める理由がないということだ。


私は一度だけ息を整え、言葉を置いた。


「誤解なさらないでください、殿下。

これは“屈辱を味わってください”という話ではありません。

今後も同じことを起こさないために、何が不足していたかを明文化してくださいという話です」


「同じことなど――」


「起こります」


私は即答した。


「今ここで、殿下が“自分はどこを把握していなかったのか”を認められないなら、また起こります。

しかも次は、私がいない前提で起こります」


そのとき、王妃殿下が初めて深く息をついた。


「殿下」


その声音は静かだったが、かなり重かった。


「この第三条件は、リゼット嬢を満足させるためのものではありません。

王太子家の運営記録を正すためのものです」


「母上まで」


「ええ。私まで、です」


王妃殿下は視線をまっすぐ息子へ向ける。


「あなたが知らなかったことは、すでに問題ではありません。

問題なのは、知らなかったことを、今なお“認めるほどではない”と考えていることです」


殿下は黙った。

反論を探しているのだろうが、今の王妃殿下に正面から勝てる言葉は、そう多くない。


私はその沈黙の間に、紙を机の中央へ寄せた。


「念のため申し上げておきます。

この三つは、“王宮へ戻る条件”というより、話を続けるための最低条件です」


宰相がそこで初めて顔を上げた。


「最低条件」


「はい。これを満たしたからといって、私が必ず協力するとは申しません。

ただ、これがなければ、協力の是非を検討する段階にすら入りません」


父が隣で、小さく息をついた。

たぶん、そこを言うだろうとは思っていたのだろう。


宰相は数秒考え、言った。


「理解しました。

つまり、これは復帰交渉ではなく、交渉の前提を整える条件提示だと」


「その通りです」


王妃殿下が静かに頷く。


「私は第一条件と第二条件について、妥当と判断します。

第三条件も、本質的には必要です」


そこで殿下が再び顔を上げた。


「では、私は責任を認めるまで何も話せないというのか」


私は殿下を見た。


「少なくとも、“知らなかったが大した問題ではなかった”という前提のままでは、話はできません」


「……っ」


「殿下。これは私のためではありません。

あなたが今後も王太子であるなら、何を知らず、何を見落とし、どこを他人任せにしていたのか。それを認めるところからしか始まりません」


その言葉は、殿下だけでなく、部屋全体に向けたものだった。


王妃殿下は目を閉じて数秒黙り、それから宰相を見た。


「記録係へ」


扉の側に控えていた書記官が、静かに頭を下げる。


「本日の協議において、リゼット嬢より三条件の提示があったことを記録。

また、これらは今後の面談継続に関する最低条件であり、現時点で協力受諾を意味しないことも付記なさい」


「かしこまりました」


私はそのやり取りを見て、少しだけ肩の力を抜いた。


最低限、言葉は記録になった。

ここまで来れば、あとで“そんなつもりではなかった”とは言いにくい。


「本日はここまでといたします」と宰相が言った。


「王妃宮と宰相府で条件文案を整理し、改めて書面で返答いたします」


「お待ちしております」


「殿下も、それでよろしいですね」と王妃殿下。


ユリウス殿下は不機嫌さを隠さないまま、短く言った。


「……好きにしろ」


私はその言い方に、ほんの少しだけ既視感を覚えた。

舞踏会の夜と同じ言葉だ。

ただし今度は、以前ほど自由に響かなかった。


もう“好きにしろ”で済む段階ではない。

そのことだけは、殿下にも分かったのだろう。


面談が終わり、私は父とともに応接室を出た。


廊下の窓からは、薄曇りの空が見える。

春になりきれない灰色の空だ。


少し離れたところで、アルノー様が待っていた。

王妃宮と宰相府の人間が先に動き始める中、この人だけはすぐに何か言おうとはしなかった。


私は立ち止まる。


「……何でしょう」


「いえ」


アルノー様は静かに言った。


「予想通りだと思いまして」


「何がですか」


「第三条件に、殿下が最も強く反発されたことです」


「でしょうね」


「ですが、第一条件と第二条件がその場で否定されなかった時点で、十分進んでいます」


私は彼を見た。


この人は、いつもそうだ。

楽観はしない。

だが、進んだ分だけは正確に数える。


「あなたは最初から、私が戻るつもりではないと分かっていたのでしょう」


そう言うと、彼は少しだけ目を細めた。


「完全に戻るつもりではない、とは思っていました」


「完全に」


「ええ。あなたの狙いは“復帰”ではなく、“清算を経た上で、必要なら新しい形を定義すること”だと」


私は数秒、黙って彼を見つめた。


そこまで正確に言葉にされると、さすがに少し落ち着かない。

けれど間違ってはいなかった。


「……よくご存じで」


「分析書と契約案の直し方で分かります」


「そうですか」


「はい。戻る方は、“どうすればうまく回るか”から話します。

あなたは最初から、“どうすれば曖昧さを消せるか”から話していました」


私はその言葉に、少しだけ息を吐いた。


「でしたら、次も話が早いでしょうね」


「そう願います」


それだけ言って、アルノー様は一礼した。


父が横でぼそりと言う。


「やはり変わった男だな」


「ええ」


「だが、まだ使える」


私は思わず父を見た。


「その評価なのですね」


「今のところはな」


父らしい。

けれど、その“今のところ”の中には、前より少しだけ肯定が混ざっている気がした。


迎賓館を出るころには、空の色がさらに鈍くなっていた。

馬車へ乗り込む前、私は一度だけ振り返る。


王妃宮も、宰相府も、ようやくこちらを“使いやすい婚約者”ではなく、“条件を持つ交渉相手”として見始めた。

それだけでも、今日ここへ来た意味はある。


ただし、まだ足りない。


第三条件が文書になるまでは。

殿下が、自分の不足を“気分”ではなく“記録”として引き受けるまでは。

本当の意味で次には進めない。


私は馬車へ乗り込み、窓の外へ目を向けた。


「王宮に戻る条件は三つです」


誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


条件というより、前提だ。

線引きと言ってもいい。


そして線を引けるようになったこと自体が、たぶん昔の私にはなかった変化だった。

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