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条件は書面でお願いいたします

翌朝、アルノー様は約束の時刻ぴったりに来た。


時間を守る方は、それだけで話が早い。

王宮では珍しいとまでは言わないけれど、少なくとも“相手を待たせて当然”と思っている方ではないらしい。


応接間へ入る前に、私は一度だけ窓の外を見た。

昨夜の雨で庭の石畳がわずかに濡れている。空は明るいのに風は冷たく、春の始まりらしい中途半端な天気だった。


「旦那様はもうお待ちです」


ガスパールがそう告げる。

案の定だった。


応接間へ入ると、父はすでに定位置に座っていた。

その向かいにアルノー様。今日は旅装ではなく、王宮で見慣れた装いに近い。けれど昨日より、少しだけ“交渉に来た人間”の顔をしている。


「お待たせいたしました」


「いえ。こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」


前置きが短い。良いことだ。


私は席につき、彼の前に置かれた書類束を見た。

昨日の口約束だけで済ませる気はないと分かってはいたが、本当に一晩で整えてきたらしい。


「契約案です」


アルノー様がそう言って書類を差し出す。


「依頼内容、支払い条件、提出先、守秘範囲を記載しております。暫定版ですが、昨夜お伝えいただいた条件を反映しました」


「暫定版、ですか」


「はい。修正を前提に持参しました」


私は少しだけ目を細めた。


普通、王宮側が持ってくる書面は“これに従え”という顔をしていることが多い。

最初から修正前提と言うだけで、かなり珍しい。


私は契約案を受け取り、まず紙質と印を確認した。

安い紙ではない。宰相府の正式書式に近いが、王命文書ほど堅くもない。印章は二つ。宰相補佐個人の確認印と、宰相府の事務印。


「発注者が宰相府補佐官室名義になっていますね」


「緊急の初動としては、そこが最も早いためです。ただし、副署は追加できます」


「“できます”では困ります」


私は紙から目を上げた。


「誰が、どの権限で、何を依頼するのか。そこが曖昧な契約は結びません」


アルノー様はその言葉を遮らずに受け止めた。


「現時点で確定しているのは三つです。宰相府が依頼主体。王妃宮が礼法・社交上の損害整理に関する閲覧主体。外務局が外交案件部分の実行責任を負います」


「王太子殿下は」


「署名権者には入れておりません」


私はそこで一度、紙を置いた。


父がわずかに口元を動かす。

たぶん、今ので一つ評価が上がったのだろう。


「理由を伺っても?」


「現段階で殿下を依頼主体に入れると、責任範囲が曖昧になります。現に、ご本人が何をどこまで依頼しているのか正確に把握しておられません」


「率直ですね」


「必要ですので」


父が低く言う。


「私はその意見に賛成だ」


「父上、まだ判断が早いです」


「早くない。“分かっていない者を署名権者から外す”判断は正しい」


私は肩をすくめ、再び契約案へ目を落とした。


最初の条文から、すでに修正箇所は見えていた。


依頼対象者は、王宮運営上必要と認められる助言および補助を行うものとする。


広すぎる。


「この一文は使えません」


私がそう言うと、アルノー様はすぐに頷いた。


「やはり」


「“必要と認められる”の主語が不明です。“助言”と“補助”が同列なのも危険です。書面助言なのか、実務代行なのか、現場出席なのかで、負荷も責任も違います」


私はペンを取り、余白に書き込んだ。


依頼対象者は、未処理案件の現状分析、優先順位整理、損害最小化のための書面助言を行う。

王宮内での実務執行、対外折衝、儀礼現場への出席は、本契約の対象外とする。


「これで」


アルノー様はその文面を黙って読み、静かに言った。


「異論ありません」


「早いですね」


「その方が、後で揉めません」


正しい。

そしてその正しさを、感情ではなく実務の都合として理解しているのも悪くない。


次に引っかかったのは報酬条項だった。


報酬は案件終了後に王宮規定に基づき支払うものとする。


論外である。


「これも不可です」


「理由を伺っても?」


「“案件終了後”では、誰が終了と認めるのかで揉めます。王宮規定も、外部の人間には適用基準が不透明です」


私は淡々と続ける。


「こういうときに善意へ逃げる契約は、最後に必ずこちらが損をします」


「……善意へ逃げる契約」


「ええ。曖昧な善意ほど高くつくものはありません」


父が、いかにも面白そうだという顔で黙っている。

たぶん今の一言を気に入ったのだろう。


私は新しく書き込んだ。


報酬は、初回現状分析書提出時点で半額、補足書面提出完了時に残額を支払う。

金額は固定とし、案件の完了認定とは切り離す。

支払い主体は宰相府とし、必要に応じて王妃宮・外務局が分担負担するものとする。


「補足書面は何通までを想定されていますか」


「一通です」


「少ないですね」


「十分です。最初の分析書で骨組みを渡し、その後の質問に対して補足を一度だけ返す。それ以上必要なら別契約です」


アルノー様は一瞬だけ考え、それから頷いた。


「合理的です」


父が言う。


「もっと取ってもいいのではないか」


「父上、今は絞った方が主導権を握れます」


私は紙面を軽く叩いた。


「範囲を広げて恩を売るより、範囲を絞って価値を見せた方が、次の交渉が有利です。今回は“戻る”契約ではありません。王宮が自分たちの崩れ方を正確に理解することが先です」


アルノー様の灰青の瞳が静かにこちらを見ていた。

その目に、反発も焦りもない。ただ、聞いたことをそのまま咀嚼している気配がある。


「提出先は?」


「宰相、王妃宮、外務局長、礼官長を想定しています」


「王太子殿下は」


「写しを回すことは可能ですが」


「不要です」


私は即答した。


「少なくとも最初の一通は、読んで理解し、動かせる方々にだけ渡してください」


父が低く笑う。


「容赦がないな」


「現状確認書は、慰めの手紙ではありませんので」


アルノー様が、その言葉にほんのわずか口元を緩めた。


「承知しました」


「さらに守秘条項を追加してください。私の同意なく、“王太子の内々の相談役として協力中”などと外へ解釈される形で使わないこと」


「その懸念は当然ですね」


「懸念ではなく、予防です」


私はペンを動かした。


依頼対象者の関与は、本契約に定める書面助言に限られる。

当人の同意なく、王太子家の私的協力者・非公式補佐・復帰予定者等として内外に示唆してはならない。


「これも入れます」


「異論ありません」


やはり、話が早い。


そこで母が静かに応接間へ入ってきた。

昨日よりきちんと身支度を整えているが、表情はやわらかいままだ。


「お茶を淹れ直させました。ずいぶん難しいお話のようですこと」


「契約の話です」と父が言う。


「リゼットが王宮に損をさせないための」


「まあ。それは大事ね」


母はそう言って私の前のカップを新しいものと入れ替えた。

それからアルノー様へ目を向ける。


「娘は、優しく頼まれると逆に警戒しますの。ですから、きちんと書いて持ってきてくださったのは正解です」


私は思わず母を見た。

アルノー様は真顔のまま、ほんの少しだけ頭を下げた。


「肝に銘じます」


それだけで十分だった。

母は満足したように父の横へ腰を下ろし、応接間の空気が少しだけ和らぐ。


私は最後の条項へ目を通した。

納品期限は本日夕刻になっている。


「これは無理です」


「明日朝であれば」


「違います。急いで雑なものを出す気はありません」


私は顔を上げた。


「今日の正午までに、昨夜の席次変更後写し、今朝入った各家からの連絡記録、外務局の未処理一覧、礼官局の内部報告、侍従局の返礼品台帳。それらを揃えて届けてください」


「揃います」


「揃わなければ書きません」


「揃えます」


「本当に?」


「はい」


また即答だった。


私はそこで、ようやく少しだけ息を抜いた。

少なくともこの人は、“何とかします”ではなく“揃えます”と言う。できるかどうかは別として、その差は大きい。


私は新しく書き込む。


必要資料が本日正午までに到着した場合に限り、初回現状分析書を翌日夕刻までに提出する。

到着が遅れた場合、納期も同様に順延する。


「これで」


「承知しました」


アルノー様は、修正だらけになった契約案を見下ろしたあと、静かな声で言った。


「ずいぶん赤が入りました」


「不服ですか」


「いいえ。むしろ、ようやく契約書らしくなったと思っています」


その返答は、少しだけ予想外だった。


たいていの人は、ここまで直されると不機嫌になる。

面倒だとか、細かいとか、信頼してくれないのかとか。どれかは出るものだ。

けれどこの人は、そうではないらしい。


「ひとつだけ、こちらから加えてもよろしいでしょうか」


「内容によります」


「成果物の改変禁止です。要約は構いませんが、提出後の分析書を都合よく切り貼りされては意味がない」


私は少しだけ考えてから頷いた。


「入れましょう」


アルノー様が自ら一文を書き加える。


提出された分析書および補足書面は、原文の趣旨を損なう形で改変してはならない。

必要な要約・抜粋を行う場合も、出典と原文保管者を明記すること。


「これで、殿下の都合で別の意味にされる余地が減ります」


私はその横顔を見て、昨日より少しだけ理解が進んだ気がした。


この人はたぶん、私を守るために優しい言葉を選ぶのではない。

構造として歪まないように、先に楔を打つのだ。


それは、ずいぶん信用しやすい。


「よろしいですね、父上、母上」


父は短く答えた。


「私は異存ない」


母も頷く。


「ええ。“何となく助けてほしい”より、ずっとましです」


「では、この内容で進めます」


アルノー様が言う。


「本日正午までに必要資料をお届けし、正本はその後、改めて整えます」


「ええ。清書は後で結構です。今は先に資料を揃えてください。必要なのは文面の美しさではなく、材料です」


アルノー様は静かに頷いた。


「承知しました」


「それから、もう一つ」


彼が待つ。


「分析書は書きます。ですが、読んで理解できる方にだけ提出します」


応接間が静かになった。


「“気持ちとしては助かる”“何となく頑張ってほしい”では困ります。誰が読み、誰が判断し、誰が動くのか。そこが曖昧なままなら、一文字も書くつもりはありません」


「分かっています」


「本当に?」


「はい。だからこそ、提出先から先に固めました」


私は彼の答えを聞き、ようやく契約案を閉じた。


「でしたら、こちらも仕事をいたします」


父が口元を緩める。


「決まりだな」


母はほっとしたようにお茶を置いた。


アルノー様は立ち上がる。


「本日正午までに必要資料をお届けします」


「お待ちしています」


玄関まで見送ると、外気は朝より少しだけ和らいでいた。

馬車へ向かう前に、アルノー様が一度だけ振り返る。


「リゼット様」


「何でしょう」


「昨日より、少し進みました」


「そうですね」


私は淡々と答えた。


「昨日は依頼でした。今日は契約です」


アルノー様は、ほんのわずかに目を細めた。


「その違いを重く見てくださって、安心しました」


私は返事をしなかった。

その代わり、彼が馬車へ乗り込むのを黙って見送る。


車輪の音が遠ざかってから、父が後ろで言った。


「ずいぶん厄介な条件を並べたな」


「必要な条件です」


「だが、全部飲ませた」


「飲める相手だっただけです」


父は少しだけ考えるように黙ったあと、低く笑った。


「なるほど。ようやく“話になる相手”が来たわけか」


その言葉に、私はすぐには答えられなかった。


話になる相手。

それはたぶん、昨日までの王宮にはいなかったものだ。


私は窓の外を見た。

まもなく正午になる。必要資料が届けば、今日からまた書類仕事だ。


けれど、それでも昨日までとは違う。

今回は、最初から条件がある。

範囲がある。

対価がある。

そして、少なくとも一人は、何が壊れていて、誰がそれを支えていたのかを理解している。


それだけで、机に向かう理由はずいぶん違って見えた。


「では」


私は静かに言った。


「現状分析書を作成しましょうか」

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