表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/10

聖女様は席次表をご存じない

「……あなたを軽んじたまま済ませる気もありません」


その一言が応接間に落ちたあと、しばらく誰も口を開かなかった。


最初に沈黙を破ったのは父だった。


「セレヴァン卿」


「はい」


「今の言葉は、宰相補佐としてか。それともセレヴァン侯爵家の人間としてか」


アルノー様はわずかに視線を父へ向けた。


「どちらでもありません」


「ほう」


「私個人の認識としてです」


父は数秒ほど彼を見つめ、それから椅子の背にもたれた。

すぐに怒るでも、試すように笑うでもない。珍しい反応だった。たぶん、言葉の置き方を見ているのだろう。


私はアルノー様へ向き直る。


「では、その“困っている”の中身を伺っても?」


「もちろんです」


彼はそう言ってから、一度だけ間を置いた。

王宮の者にしては珍しく、話を整理してから口にする人だ。


「最初の綻びは、外務局でした。これは今朝お伝えした通りです。次が侍従局。夜会後の訪問予定と返礼品の手配が止まりました。三つ目が礼官局。昨夜の席次について、複数の家から確認が入っています」


「ランベール侯爵家だけではないのですね」


「はい。表立って不快感を示したのはランベール侯爵家ですが、オルシーニ伯家も内々に不満を伝えてきています。さらに、その件をきっかけに“誰が最終確認をしたのか”という話になり――」


「いないことが発覚した」


「はい」


私は小さく息を吐いた。

でしょうね、という感想しか出てこない。


「王妃宮は?」


「すでに把握されています。正確には、王妃殿下が把握なさいました」


それは早い。

王妃殿下は温厚な方だが、社交秩序の乱れには厳しい。感情的に怒鳴ることはなくても、“記録に残る静かな怒り”を使う方だ。


父が腕を組んだまま低く言う。


「殿下は」


アルノー様の返答は簡潔だった。


「まだ、“少々運が悪かった”程度にお考えです」


父が露骨に顔をしかめた。

私は逆に妙に納得してしまう。

あの方は、自分が見ていない仕事ほど軽く見積もる。逆に言えば、自分で書類を開きさえしなければ、問題は存在しないのと同じなのだろう。


「では、ひとつ確認させてください」


私はテーブルに指先を置いた。


「昨夜の席次表は、私が最終確認したものから変更されましたか」


アルノー様の視線が、ほんのわずかに鋭くなった。


「……なぜそう思われますか」


「ランベール侯爵家とオルシーニ伯家が同時に不満を持つ理由が、それしかありません」


昨夜の配置は頭に入っている。

ランベール侯爵はあの位置でよかった。問題は、その近くに置く相手と、聖女様との距離だったはずだ。

二家同時に崩れるなら、誰かが“見栄えのよさ”だけで触った可能性が高い。


「誰が変更を」


私が問うと、アルノー様はためらわなかった。


「ミレーヌ様です」


やはり。


けれど口に出すと、父の眉が動いた。


「聖女が席次表を?」


「正確には、殿下のご意向もありました」


アルノー様は淡々と続けた。


「リゼット様が退出されたあと、殿下は“どうせ今夜のことだ、多少なら動かしても構わないだろう”とおっしゃったそうです。その場にいた侍従が、聖女様を殿下のお近くに置く案を優先しました」


「そうでしょうね」


私は即座に答えた。


そこは驚かない。

私がいたとしても、最後の最後で“聖女様のお気持ちを優先したい”という圧は、三年間ずっと存在していた。


「ですが問題は、その後です」とアルノー様が言った。


「ミレーヌ様は、場がもっと和やかになるようにとお考えになったようです」


「和やか」


「はい。対立している家同士も、近くに座れば打ち解けるのではないか、と」


私は一瞬だけ目を閉じた。


父が呟く。


「最悪だな」


「父上、まだ“最悪”とまでは申せません」


「まだ下があるのか」


「ええ」


私はアルノー様を見る。


「聖女様は、家格順ではなく“話しやすそうな方々”を寄せたのですね」


「……その通りです」


「しかも、自分の近くに“優しそうな方”“相談しやすそうな方”を置いた」


「はい」


父が額を押さえた。

珍しく本気で嫌そうな顔をしている。


私は椅子にもたれ、静かに言った。


「聖女様は席次表をご存じない」


アルノー様が、わずかに目を細めた。

たぶん、この一言で全部通じたのだろう。


席次表は、ただの座る順番ではない。

家格、年齢、政治距離、当日の主役、過去の軋轢、今後の取引、誰が誰に借りを作るか。

そういう見えないものを、表面上だけ穏やかに並べたものだ。


だから、善意で触ると壊れる。


「ミレーヌ様は悪意でなさったわけではありません」とアルノー様が言う。


「存じています」


私は即答した。


「むしろ悪意がないから止めづらいのです。悪意なら、まだ理屈で止められます。善意は、ご本人が正しいことをしていると信じている分、周囲が止めると角が立つ」


「その通りです」


アルノー様の声が、ごくわずかに低くなった。


「実際、止めた礼官は“聖女様に冷たい”と殿下に退けられました」


「……でしょうね」


目に浮かぶようだった。


ミレーヌ様は、おそらく困っている方を放っておけない。

目の前の不機嫌そうな貴族夫人に声をかけたくなるし、会話の弾まない卓を“なんとかしたい”と思う。

それ自体は人として悪いことではない。


けれど王宮の夜会でやるなら、話は別だ。


そこに必要なのは親切さではなく、順序であることが多い。


「どなたを動かしたのですか」


アルノー様は答えた。


「ランベール侯爵を一つ上座へ。代わりにオルシーニ伯を下げ、さらに聖女様の視界に入りやすい位置へ若い令嬢方を寄せました」


「若い令嬢方?」


「聖女様と年が近く、話しやすそうだと」


私は思わず笑いそうになって、やめた。


「それはもう、席次ではなく茶会です」


父が深く頷く。


「しかも王家主催のな」


「はい」


私は指先で軽く机を叩いた。


「若い令嬢方は、表向きは喜んだでしょう。聖女様に近い席ですから。ですが、その父兄や母親は別です。なぜうちの娘がその位置なのか、なぜ本来そこにいるはずの家が動かされたのか、必ず考える」


「そして考えた結果、殿下の寵がどこへ向いているかが露骨に見える」


「そういうことです」


アルノー様は、そこで初めてわずかに息をついた。


「リゼット様がいらしたときは、そこまで露骨にはなりませんでした」


「当然です。婚約者役の私がいる以上、少なくとも表面は整えなければなりませんから」


私はそこで一拍置いた。


「……いえ、正確には。整えていたのは私ですね」


そう言うと、応接間が少し静かになった。


私は感傷的になりたいわけではない。

事実を口にしただけだ。


殿下は隣にいた。

ミレーヌ様は微笑んでいた。

私は、そこに生じる不都合をすべて見えないところで処理していただけ。


「お聞きしても?」とアルノー様が言った。


「何をですか」


「昨夜、退場される前から、こうなる可能性をある程度ご承知でしたか」


私は少し考えた。


「外務局が最初に止まることは予想していました。侍従局も、まあ。礼官局については、私がいなくなったあと席次に触る方がいなければ、もう少し持ったはずです」


「触る方がいると読まなかった?」


「読んでいました。ですから最終版を三部作り、礼官、侍従、王妃宮にそれぞれ回してあります」


父が顔を上げた。


「三部?」


「はい。殿下のお手元だけでは危ういと思いましたので」


アルノー様の口元が、ほんのわずかに動いた。

笑った、というより半ば呆れたような気配だった。


「王妃宮の控えと礼官局の控えが一致していたため、今朝の段階で“誰かが手を入れた”と確定できました」


「でしたら、私の不在が原因ではなく、変更判断をした方の責任ですね」


「はい。ですが殿下は、その責任の所在をまだ曖昧にしておられます」


「それも、でしょうね」


私は紅茶を一口飲んだ。

少し冷めていたが、その方がかえって頭は冴える。


「殿下は、聖女様を庇いたい。聖女様ご本人は悪意がない。周囲は止めると角が立つ。結果として、責任だけがぼやける」


「まさにその通りです」


「そして、その責任の受け皿を、これまでは私がやっていた」


今度は誰も否定しなかった。


父が静かに言う。


「セレヴァン卿。お前はその場にいたのだろう」


「はい」


「止められなかったか」


その問いは責めているようでいて、半分は確認だ。

アルノー様もそれを分かっているらしく、視線を逸らさずに答えた。


「止めるべきでした」


「だが止まらなかった」


「殿下が“今夜だけなら構わない”とおっしゃった時点で、礼官局が強く出られなくなりました。私は外務局の件で席を外しており、戻ったときにはすでに変更後でした」


私はそこで、少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。


この方は言い訳をしない。

自分の責任をゼロに見せようともしない。

王宮では、それだけでかなり珍しい。


「分かりました」


私がそう言うと、アルノー様は静かに続きを待った。


「聖女様は悪くありません、とは申しません。悪意がなくとも、結果に責任は出ます。ただし今回いちばん大きいのは、席次表を“少し動かすくらいなら構わない”と考えた殿下です」


父が頷く。


「妥当だな」


「そして二番目が、止めきれなかった周囲。三番目に、善意で触った聖女様」


アルノー様が低く言う。


「厳しいご評価です」


「現実的なだけです」


私は彼を見る。


「私に甘い言葉を言わせるために来たのでしたら、無駄足でしたね」


「承知の上です」


即答だった。


それが少しだけ可笑しくて、私は口元を緩めた。


「では、依頼の話に戻りましょう。王宮側は何を求めているのですか。正確に」


アルノー様は背筋を正した。


「短期的には二つです。ひとつ、外交文書の優先順位と返答方針の整理。もうひとつ、昨夜の席次変更に伴う損害の最小化です」


「損害の最小化、ですか」


「はい。誰にどう謝り、どこまで認め、どこを曖昧にするか。その線引きを」


「つまり後始末ですね」


「はい」


気持ちのよい言い方ではないが、正しい。

実際、私はそれを三年間やってきた。


「王宮に戻れとは申しません、とおっしゃいましたね」


「はい」


「では、ここで判断できる材料だけ先にください。昨夜の変更後席次の写し、礼官局からの報告、今朝入った苦情の内容。少なくともそれがなければ、こちらも線は引けません」


「持参しております」


さすがに早い。


アルノー様が革鞄から書類を取り出す。

父の目がわずかに細くなる。準備がいい男は、それだけで信頼されやすい。


渡された紙を数枚めくっただけで、だいたい見えてきた。


ランベール侯爵家の不満は予想通り。

オルシーニ伯家は直接の抗議ではなく、“今後の出席の可否を検討する”という遠回しな圧。

若い令嬢二人の母親からは、逆に妙な探りが入っている。

そして礼官局の報告書には、変更指示の経路が曖昧に書かれていた。


「礼官局は、殿下のお顔を立てて濁しましたね」


「はい」


「濁し方が下手です。これでは後で誰も責任を取れなくなります」


私は紙を置いた。


「第一に、ランベール侯爵家には即日、昨夜のもてなしへの謝辞と、別日に小規模な招待を。王妃宮名義が望ましいです」


アルノー様が頷く。


「第二に、オルシーニ伯家には直接謝る必要はありません。ただし次回の公式行事で、順番を一つ上げる余地を作ってください」


「できます」


「第三に、若い令嬢方の家には何もしないこと。今動くと、逆に“聖女様の周辺に入った家”として色がつきます」


「……なるほど」


「そして礼官局の報告書は書き直しです。“変更は当夜の現場判断によるもの”だけでは弱い。誰が、どの理由で、どの範囲を変更したか。少なくとも内部記録では正確に残させるべきです」


父が感心したように息をつく。


「一瞬だな」


「一瞬ではありません。三年分の蓄積です」


言ってから、少しだけ間が空いた。

べつに恨みがましくしたかったわけではない。

でも、それは事実だった。


アルノー様は私を見て、静かに言った。


「その三年分に、正当な値が支払われるべきだと私は考えています」


応接間がまた少し静かになる。


こういう言葉は、慰めとして使われると安く聞こえる。

けれどこの人の場合、そうではなかった。

実際に書面と対価の話を持ってきているからだ。


「今日はここまでです」


私は書類を揃えた。


「今のは、状況把握のための確認と、被害拡大を避けるための最低限の助言です」


「十分です」


「いいえ、十分ではありません。王宮側が本当に依頼したいなら、正式な条件を詰める必要があります」


アルノー様は頷いた。


「承知しています」


「曖昧な“善意”では動きません」


「その方がいい」


「“以前のように助けてほしい”という言葉も無意味です」


「ええ」


「そして、私を“便利だから使う”つもりなら、今ここで帰っていただきます」


そこでアルノー様は、一度だけはっきりと言った。


「そのつもりなら、私は最初から参りません」


父がその言葉に反応して、わずかに口元を動かした。

たぶん、今のでようやく一定の線は越えたのだろう。


私は視線を伏せ、ほんの少しだけ考える。


この人は、王宮の人間だ。

殿下の側に立つ仕事をしている。

だから簡単には信じられない。


けれど同時に、今日ここまで来て話している内容は、少なくともこれまで私が王宮で浴びてきた“曖昧な命令”とは明らかに違った。


「では明日」


私は顔を上げた。


「明日の午前、改めて条件を伺います。契約案は書面で。王宮側の権限者が誰かも明記してください」


「承知しました」


「それと」


アルノー様が待つ。


「聖女様を悪人にしたいわけではありません」


彼の灰青の瞳が静かにこちらを見る。


「ですが、“悪意がないから仕方ない”で済ませる気もありません。そこを誤るなら、私は協力しません」


「分かっています」


「本当に?」


「はい。悪意の有無ではなく、結果と責任で整理すべきです」


私はそこで初めて、少しだけ安心した。


この人はたぶん、感情で誰かを守るのではなく、構造で崩れを止めようとしている。

少なくとも今は。


「でしたら今日は以上です」


アルノー様は立ち上がった。

父も無言でそれに応じる。


見送りのために玄関まで出ると、外はすっかり夕闇に沈んでいた。

馬車の紋章が薄い灯りに浮かび上がる。


「急な訪問、失礼いたしました」


「いえ。少なくとも、意味のある訪問でした」


私がそう言うと、アルノー様はわずかに目を細めた。


「それは光栄です」


「ただし、明日お持ちになる書面が曖昧なら、お引き取りいただきます」


「そのようなものは持参しません」


やはり、迷いがない。


馬車へ乗り込む前、彼は一度だけ振り返った。


「リゼット様」


「何でしょう」


「昨夜、あなたが去られたあとで初めて、王宮の多くが“整っていた状態”を当然だと思っていたのだと分かりました」


私は答えなかった。

答える必要もなかった。


当然だったのではない。

誰かが整えていたのだ。


その当然の上に立ちながら、見ようとしなかった人たちがいただけで。


アルノー様はそれ以上何も言わず、馬車へ乗り込んだ。

車輪が石を踏む音がして、侯爵家の馬車は夜の道へ消えていく。


玄関先で父がぽつりと言う。


「変わった男だな」


「ええ」


「嫌いではない」


私は思わず父を見た。

そんな感想が先に出るとは思わなかった。


父は私の視線に気づいて、わずかに肩をすくめる。


「命令せず、媚びず、責任だけは引き受ける顔をしていた。ああいう手合いは珍しい」


「……そうかもしれません」


屋敷へ戻る廊下で、私は自分でも少しだけ妙な気分になっていることに気づいた。


王宮からの使いなら、もっと腹が立つはずだった。

もっと警戒して、もっと冷たく切り捨てるつもりだった。


けれど、あの人は“戻れ”とは言わなかった。

“以前のように”とも言わなかった。

最初から最後まで、私が何をしていたのかを理解した上で話していた。


それはたぶん、思っていた以上に大きい。


自室へ戻る前、私は窓の外に視線を向けた。

遠くの空には、もう王都の灯りは見えない。


たぶん今夜もあちらでは、誰かが慌てて席次を繕い、誰かが遅れた返書の言い訳を考え、誰かが聖女様の善意をどう説明するかで頭を抱えているのだろう。


そしてその中心には、相変わらず何も分かっていない殿下がいる。


私は窓辺に手を置き、小さく息を吐いた。


聖女様は、席次表をご存じない。

殿下は、その重みをご存じない。

けれどアルノー様だけは、少なくとも“誰がそれを支えていたのか”を知っている。


それだけで、明日の交渉は少しだけましになる気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ