聖女様は席次表をご存じない
「……あなたを軽んじたまま済ませる気もありません」
その一言が応接間に落ちたあと、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのは父だった。
「セレヴァン卿」
「はい」
「今の言葉は、宰相補佐としてか。それともセレヴァン侯爵家の人間としてか」
アルノー様はわずかに視線を父へ向けた。
「どちらでもありません」
「ほう」
「私個人の認識としてです」
父は数秒ほど彼を見つめ、それから椅子の背にもたれた。
すぐに怒るでも、試すように笑うでもない。珍しい反応だった。たぶん、言葉の置き方を見ているのだろう。
私はアルノー様へ向き直る。
「では、その“困っている”の中身を伺っても?」
「もちろんです」
彼はそう言ってから、一度だけ間を置いた。
王宮の者にしては珍しく、話を整理してから口にする人だ。
「最初の綻びは、外務局でした。これは今朝お伝えした通りです。次が侍従局。夜会後の訪問予定と返礼品の手配が止まりました。三つ目が礼官局。昨夜の席次について、複数の家から確認が入っています」
「ランベール侯爵家だけではないのですね」
「はい。表立って不快感を示したのはランベール侯爵家ですが、オルシーニ伯家も内々に不満を伝えてきています。さらに、その件をきっかけに“誰が最終確認をしたのか”という話になり――」
「いないことが発覚した」
「はい」
私は小さく息を吐いた。
でしょうね、という感想しか出てこない。
「王妃宮は?」
「すでに把握されています。正確には、王妃殿下が把握なさいました」
それは早い。
王妃殿下は温厚な方だが、社交秩序の乱れには厳しい。感情的に怒鳴ることはなくても、“記録に残る静かな怒り”を使う方だ。
父が腕を組んだまま低く言う。
「殿下は」
アルノー様の返答は簡潔だった。
「まだ、“少々運が悪かった”程度にお考えです」
父が露骨に顔をしかめた。
私は逆に妙に納得してしまう。
あの方は、自分が見ていない仕事ほど軽く見積もる。逆に言えば、自分で書類を開きさえしなければ、問題は存在しないのと同じなのだろう。
「では、ひとつ確認させてください」
私はテーブルに指先を置いた。
「昨夜の席次表は、私が最終確認したものから変更されましたか」
アルノー様の視線が、ほんのわずかに鋭くなった。
「……なぜそう思われますか」
「ランベール侯爵家とオルシーニ伯家が同時に不満を持つ理由が、それしかありません」
昨夜の配置は頭に入っている。
ランベール侯爵はあの位置でよかった。問題は、その近くに置く相手と、聖女様との距離だったはずだ。
二家同時に崩れるなら、誰かが“見栄えのよさ”だけで触った可能性が高い。
「誰が変更を」
私が問うと、アルノー様はためらわなかった。
「ミレーヌ様です」
やはり。
けれど口に出すと、父の眉が動いた。
「聖女が席次表を?」
「正確には、殿下のご意向もありました」
アルノー様は淡々と続けた。
「リゼット様が退出されたあと、殿下は“どうせ今夜のことだ、多少なら動かしても構わないだろう”とおっしゃったそうです。その場にいた侍従が、聖女様を殿下のお近くに置く案を優先しました」
「そうでしょうね」
私は即座に答えた。
そこは驚かない。
私がいたとしても、最後の最後で“聖女様のお気持ちを優先したい”という圧は、三年間ずっと存在していた。
「ですが問題は、その後です」とアルノー様が言った。
「ミレーヌ様は、場がもっと和やかになるようにとお考えになったようです」
「和やか」
「はい。対立している家同士も、近くに座れば打ち解けるのではないか、と」
私は一瞬だけ目を閉じた。
父が呟く。
「最悪だな」
「父上、まだ“最悪”とまでは申せません」
「まだ下があるのか」
「ええ」
私はアルノー様を見る。
「聖女様は、家格順ではなく“話しやすそうな方々”を寄せたのですね」
「……その通りです」
「しかも、自分の近くに“優しそうな方”“相談しやすそうな方”を置いた」
「はい」
父が額を押さえた。
珍しく本気で嫌そうな顔をしている。
私は椅子にもたれ、静かに言った。
「聖女様は席次表をご存じない」
アルノー様が、わずかに目を細めた。
たぶん、この一言で全部通じたのだろう。
席次表は、ただの座る順番ではない。
家格、年齢、政治距離、当日の主役、過去の軋轢、今後の取引、誰が誰に借りを作るか。
そういう見えないものを、表面上だけ穏やかに並べたものだ。
だから、善意で触ると壊れる。
「ミレーヌ様は悪意でなさったわけではありません」とアルノー様が言う。
「存じています」
私は即答した。
「むしろ悪意がないから止めづらいのです。悪意なら、まだ理屈で止められます。善意は、ご本人が正しいことをしていると信じている分、周囲が止めると角が立つ」
「その通りです」
アルノー様の声が、ごくわずかに低くなった。
「実際、止めた礼官は“聖女様に冷たい”と殿下に退けられました」
「……でしょうね」
目に浮かぶようだった。
ミレーヌ様は、おそらく困っている方を放っておけない。
目の前の不機嫌そうな貴族夫人に声をかけたくなるし、会話の弾まない卓を“なんとかしたい”と思う。
それ自体は人として悪いことではない。
けれど王宮の夜会でやるなら、話は別だ。
そこに必要なのは親切さではなく、順序であることが多い。
「どなたを動かしたのですか」
アルノー様は答えた。
「ランベール侯爵を一つ上座へ。代わりにオルシーニ伯を下げ、さらに聖女様の視界に入りやすい位置へ若い令嬢方を寄せました」
「若い令嬢方?」
「聖女様と年が近く、話しやすそうだと」
私は思わず笑いそうになって、やめた。
「それはもう、席次ではなく茶会です」
父が深く頷く。
「しかも王家主催のな」
「はい」
私は指先で軽く机を叩いた。
「若い令嬢方は、表向きは喜んだでしょう。聖女様に近い席ですから。ですが、その父兄や母親は別です。なぜうちの娘がその位置なのか、なぜ本来そこにいるはずの家が動かされたのか、必ず考える」
「そして考えた結果、殿下の寵がどこへ向いているかが露骨に見える」
「そういうことです」
アルノー様は、そこで初めてわずかに息をついた。
「リゼット様がいらしたときは、そこまで露骨にはなりませんでした」
「当然です。婚約者役の私がいる以上、少なくとも表面は整えなければなりませんから」
私はそこで一拍置いた。
「……いえ、正確には。整えていたのは私ですね」
そう言うと、応接間が少し静かになった。
私は感傷的になりたいわけではない。
事実を口にしただけだ。
殿下は隣にいた。
ミレーヌ様は微笑んでいた。
私は、そこに生じる不都合をすべて見えないところで処理していただけ。
「お聞きしても?」とアルノー様が言った。
「何をですか」
「昨夜、退場される前から、こうなる可能性をある程度ご承知でしたか」
私は少し考えた。
「外務局が最初に止まることは予想していました。侍従局も、まあ。礼官局については、私がいなくなったあと席次に触る方がいなければ、もう少し持ったはずです」
「触る方がいると読まなかった?」
「読んでいました。ですから最終版を三部作り、礼官、侍従、王妃宮にそれぞれ回してあります」
父が顔を上げた。
「三部?」
「はい。殿下のお手元だけでは危ういと思いましたので」
アルノー様の口元が、ほんのわずかに動いた。
笑った、というより半ば呆れたような気配だった。
「王妃宮の控えと礼官局の控えが一致していたため、今朝の段階で“誰かが手を入れた”と確定できました」
「でしたら、私の不在が原因ではなく、変更判断をした方の責任ですね」
「はい。ですが殿下は、その責任の所在をまだ曖昧にしておられます」
「それも、でしょうね」
私は紅茶を一口飲んだ。
少し冷めていたが、その方がかえって頭は冴える。
「殿下は、聖女様を庇いたい。聖女様ご本人は悪意がない。周囲は止めると角が立つ。結果として、責任だけがぼやける」
「まさにその通りです」
「そして、その責任の受け皿を、これまでは私がやっていた」
今度は誰も否定しなかった。
父が静かに言う。
「セレヴァン卿。お前はその場にいたのだろう」
「はい」
「止められなかったか」
その問いは責めているようでいて、半分は確認だ。
アルノー様もそれを分かっているらしく、視線を逸らさずに答えた。
「止めるべきでした」
「だが止まらなかった」
「殿下が“今夜だけなら構わない”とおっしゃった時点で、礼官局が強く出られなくなりました。私は外務局の件で席を外しており、戻ったときにはすでに変更後でした」
私はそこで、少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。
この方は言い訳をしない。
自分の責任をゼロに見せようともしない。
王宮では、それだけでかなり珍しい。
「分かりました」
私がそう言うと、アルノー様は静かに続きを待った。
「聖女様は悪くありません、とは申しません。悪意がなくとも、結果に責任は出ます。ただし今回いちばん大きいのは、席次表を“少し動かすくらいなら構わない”と考えた殿下です」
父が頷く。
「妥当だな」
「そして二番目が、止めきれなかった周囲。三番目に、善意で触った聖女様」
アルノー様が低く言う。
「厳しいご評価です」
「現実的なだけです」
私は彼を見る。
「私に甘い言葉を言わせるために来たのでしたら、無駄足でしたね」
「承知の上です」
即答だった。
それが少しだけ可笑しくて、私は口元を緩めた。
「では、依頼の話に戻りましょう。王宮側は何を求めているのですか。正確に」
アルノー様は背筋を正した。
「短期的には二つです。ひとつ、外交文書の優先順位と返答方針の整理。もうひとつ、昨夜の席次変更に伴う損害の最小化です」
「損害の最小化、ですか」
「はい。誰にどう謝り、どこまで認め、どこを曖昧にするか。その線引きを」
「つまり後始末ですね」
「はい」
気持ちのよい言い方ではないが、正しい。
実際、私はそれを三年間やってきた。
「王宮に戻れとは申しません、とおっしゃいましたね」
「はい」
「では、ここで判断できる材料だけ先にください。昨夜の変更後席次の写し、礼官局からの報告、今朝入った苦情の内容。少なくともそれがなければ、こちらも線は引けません」
「持参しております」
さすがに早い。
アルノー様が革鞄から書類を取り出す。
父の目がわずかに細くなる。準備がいい男は、それだけで信頼されやすい。
渡された紙を数枚めくっただけで、だいたい見えてきた。
ランベール侯爵家の不満は予想通り。
オルシーニ伯家は直接の抗議ではなく、“今後の出席の可否を検討する”という遠回しな圧。
若い令嬢二人の母親からは、逆に妙な探りが入っている。
そして礼官局の報告書には、変更指示の経路が曖昧に書かれていた。
「礼官局は、殿下のお顔を立てて濁しましたね」
「はい」
「濁し方が下手です。これでは後で誰も責任を取れなくなります」
私は紙を置いた。
「第一に、ランベール侯爵家には即日、昨夜のもてなしへの謝辞と、別日に小規模な招待を。王妃宮名義が望ましいです」
アルノー様が頷く。
「第二に、オルシーニ伯家には直接謝る必要はありません。ただし次回の公式行事で、順番を一つ上げる余地を作ってください」
「できます」
「第三に、若い令嬢方の家には何もしないこと。今動くと、逆に“聖女様の周辺に入った家”として色がつきます」
「……なるほど」
「そして礼官局の報告書は書き直しです。“変更は当夜の現場判断によるもの”だけでは弱い。誰が、どの理由で、どの範囲を変更したか。少なくとも内部記録では正確に残させるべきです」
父が感心したように息をつく。
「一瞬だな」
「一瞬ではありません。三年分の蓄積です」
言ってから、少しだけ間が空いた。
べつに恨みがましくしたかったわけではない。
でも、それは事実だった。
アルノー様は私を見て、静かに言った。
「その三年分に、正当な値が支払われるべきだと私は考えています」
応接間がまた少し静かになる。
こういう言葉は、慰めとして使われると安く聞こえる。
けれどこの人の場合、そうではなかった。
実際に書面と対価の話を持ってきているからだ。
「今日はここまでです」
私は書類を揃えた。
「今のは、状況把握のための確認と、被害拡大を避けるための最低限の助言です」
「十分です」
「いいえ、十分ではありません。王宮側が本当に依頼したいなら、正式な条件を詰める必要があります」
アルノー様は頷いた。
「承知しています」
「曖昧な“善意”では動きません」
「その方がいい」
「“以前のように助けてほしい”という言葉も無意味です」
「ええ」
「そして、私を“便利だから使う”つもりなら、今ここで帰っていただきます」
そこでアルノー様は、一度だけはっきりと言った。
「そのつもりなら、私は最初から参りません」
父がその言葉に反応して、わずかに口元を動かした。
たぶん、今のでようやく一定の線は越えたのだろう。
私は視線を伏せ、ほんの少しだけ考える。
この人は、王宮の人間だ。
殿下の側に立つ仕事をしている。
だから簡単には信じられない。
けれど同時に、今日ここまで来て話している内容は、少なくともこれまで私が王宮で浴びてきた“曖昧な命令”とは明らかに違った。
「では明日」
私は顔を上げた。
「明日の午前、改めて条件を伺います。契約案は書面で。王宮側の権限者が誰かも明記してください」
「承知しました」
「それと」
アルノー様が待つ。
「聖女様を悪人にしたいわけではありません」
彼の灰青の瞳が静かにこちらを見る。
「ですが、“悪意がないから仕方ない”で済ませる気もありません。そこを誤るなら、私は協力しません」
「分かっています」
「本当に?」
「はい。悪意の有無ではなく、結果と責任で整理すべきです」
私はそこで初めて、少しだけ安心した。
この人はたぶん、感情で誰かを守るのではなく、構造で崩れを止めようとしている。
少なくとも今は。
「でしたら今日は以上です」
アルノー様は立ち上がった。
父も無言でそれに応じる。
見送りのために玄関まで出ると、外はすっかり夕闇に沈んでいた。
馬車の紋章が薄い灯りに浮かび上がる。
「急な訪問、失礼いたしました」
「いえ。少なくとも、意味のある訪問でした」
私がそう言うと、アルノー様はわずかに目を細めた。
「それは光栄です」
「ただし、明日お持ちになる書面が曖昧なら、お引き取りいただきます」
「そのようなものは持参しません」
やはり、迷いがない。
馬車へ乗り込む前、彼は一度だけ振り返った。
「リゼット様」
「何でしょう」
「昨夜、あなたが去られたあとで初めて、王宮の多くが“整っていた状態”を当然だと思っていたのだと分かりました」
私は答えなかった。
答える必要もなかった。
当然だったのではない。
誰かが整えていたのだ。
その当然の上に立ちながら、見ようとしなかった人たちがいただけで。
アルノー様はそれ以上何も言わず、馬車へ乗り込んだ。
車輪が石を踏む音がして、侯爵家の馬車は夜の道へ消えていく。
玄関先で父がぽつりと言う。
「変わった男だな」
「ええ」
「嫌いではない」
私は思わず父を見た。
そんな感想が先に出るとは思わなかった。
父は私の視線に気づいて、わずかに肩をすくめる。
「命令せず、媚びず、責任だけは引き受ける顔をしていた。ああいう手合いは珍しい」
「……そうかもしれません」
屋敷へ戻る廊下で、私は自分でも少しだけ妙な気分になっていることに気づいた。
王宮からの使いなら、もっと腹が立つはずだった。
もっと警戒して、もっと冷たく切り捨てるつもりだった。
けれど、あの人は“戻れ”とは言わなかった。
“以前のように”とも言わなかった。
最初から最後まで、私が何をしていたのかを理解した上で話していた。
それはたぶん、思っていた以上に大きい。
自室へ戻る前、私は窓の外に視線を向けた。
遠くの空には、もう王都の灯りは見えない。
たぶん今夜もあちらでは、誰かが慌てて席次を繕い、誰かが遅れた返書の言い訳を考え、誰かが聖女様の善意をどう説明するかで頭を抱えているのだろう。
そしてその中心には、相変わらず何も分かっていない殿下がいる。
私は窓辺に手を置き、小さく息を吐いた。
聖女様は、席次表をご存じない。
殿下は、その重みをご存じない。
けれどアルノー様だけは、少なくとも“誰がそれを支えていたのか”を知っている。
それだけで、明日の交渉は少しだけましになる気がした。




