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3/3

領地の倉庫は嘘をつかない

三時間だけ休むつもりが、目が覚めたときには昼を少し回っていた。


王宮ではありえない寝過ごしだ。

起きた瞬間に飛び起きかけて、ここが自室だと思い出してやめる。薄い生成りの天蓋、見慣れた壁紙、窓辺の小机。誰かに呼ばれることも、急ぎの書類が積み上がっていることもない。


安心すると、体はこんなにも重かったのかと思う。


身支度を整えて食堂へ向かうと、母がすぐに気づいた。


「まあ、起きたのね。温かいスープを用意させてあるの」


「ありがとうございます」


「本当なら今日は何もしなくていいと言いたいのだけれど」


「でも帳簿が気になる、でしょう?」


母は小さく笑った。


「ええ。残念ながら」


食堂の端では、父がすでに昼食を終えかけていた。


「倉庫へ行くぞ」


「食後すぐですか」


「お前が寝ている間に、会計係と倉庫番を呼んでおいた」


用意が良すぎる。

だがありがたいとも言える。王宮なら、呼ばれた人間はまず言い訳を持って現れる。実家では少なくとも、現場へ行く前提ではある。


屋敷の裏手にある倉庫までは、歩いて十分ほどだった。

春先の空気はまだ冷たく、土の匂いが濃い。王都の磨き上げられた石畳とは違って、ここには生活の音がある。


倉庫の前では、会計係のロランと倉庫番頭のマルセルがそろって居心地悪そうに立っていた。


「帳簿を」


挨拶の代わりにそう言うと、ロランが慌てて分厚い帳面を差し出した。


「数字自体に大きな間違いはないはずでして」


「“はず”なのですね」


横でマルセルがぼそりと言う。


「数字は合ってても、荷が見つからなきゃ意味はねえんですよ」


私は帳面を数ページめくり、倉庫の中を一通り見て、だいたいの事情を理解した。


「冬の途中で、保管場所を変えましたね」


マルセルが目を丸くする。


「……よく分かりましたね」


「樽の向きと札の打ち直し痕が違います。湿気でも入りましたか」


「雪の強い日に西壁から。急ぎで場所を移したんです」


「そのとき、倉庫番号の呼び方も変えた」


今度はロランが言葉に詰まった。


「三号、四号、五号では現場が混乱すると言われまして。方角で呼ぶようにした方が早いかと」


「帳簿には?」


「途中まで旧番号で記録し、そのうち合わせようと……」


「合わせないまま春になった、と」


返事はない。

十分だった。


私は積み上げられた樽をひとつ指した。


「これは何ですか」


「小麦です」


「帳簿では?」


ロランが確認し、青ざめた。


「……乾燥豆、です」


「つまり“物はあるのに、ある場所へ辿り着けない”状態です」


父が腕を組んだまま言う。


「不足ではなく、迷子か」


「そういうことです」


不足していると思われていた小麦は、本当に消えたわけではない。

乾燥豆も塩も、おそらく大部分は敷地内にある。ただし記録との紐づけが切れている。これでは、現場は感覚で動き、会計は紙だけを見て怒る。


一番面倒で、一番よくある壊れ方だ。


「どう直す」


「簡単です」


私は帳面を閉じた。


「倉庫の呼称を一つに統一する。次に、旧番号と新呼称の対応表を作る。最後に、品目ごとではなく倉庫ごとに棚卸しをする」


ロランが顔を上げる。


「対応表を先に……?」


「ええ。いきなり全部を書き直す必要はありません。過去帳簿を捨てずに繋げる方が早いです」


マルセルも頷いた。


「現場の呼び方を急に戻せと言われるよりゃ、そっちの方が助かります」


「では始めます。ロランさん、紙を三種類。現行帳簿用、旧番号対照表、仮記録用。マルセルさん、今の南倉庫から順に開けてください」


二人は一瞬ぽかんとしたが、すぐに動き出した。

命令の意味が通るだけで、仕事はずいぶん速くなる。


棚卸しは予想以上に順調だった。


小麦は不足していなかった。

乾燥豆も、会計上は減っていることになっていたが、実際には保管倉庫がずれていただけ。塩漬け肉に至っては帳簿上で二重計上された箱が見つかった。減っていたのではなく、逆に余っていたのである。


途中で使用人の若い娘が温かいお茶を持ってきた。


「お嬢様が倉庫にいらっしゃるなんて、珍しいですね」


「私もそう思います」


「でも、皆ちょっと安心してます」


「なぜですか」


娘は小さく笑った。


「旦那様とロランさん、朝から怖かったので」


私は思わず父の方を見た。

父は聞こえていたはずなのに、知らない顔をしている。


夕方になるころには、対応表の骨子がほぼ完成していた。


旧三号=南倉庫。

旧四号=西倉庫。

旧五号=北倉庫。

途中で増築した小倉庫のみ新番号を使う。ただし帳簿の備考欄に必ず併記。


私は最後の行を書き込んでから、ペンを置いた。


「これで今後は迷いません」


ロランが紙束を両手で持ちながら何度も頷く。


「これなら過去帳簿も生きます」


マルセルも感心したように倉庫の中を見回した。


「同じもんが置いてあるのに、朝よりずっと分かりやすいな」


「物は変わっていませんから」


「じゃあ何が変わったんで?」


私は少し考えた。


「名前と順番です」


人は、分からないものに苛立つ。

でも多くの場合、実体が複雑なのではない。名前と順番が揃っていないだけだ。


王宮も少し似ている。

違うのは、向こうには物理的な在庫の代わりに、体面と感情と責任逃れが山積みになっていることくらいだ。


父が対照表を一枚手に取り、満足そうに頷いた。


「これをもとに来月の備蓄計画も立て直せる」


「今のうちにやっておいた方が良いでしょうね。次の冬まで曖昧なままにすると、また同じことが起きます」


「やはり戻ってきて正解だったな」


その言い方に、私は少しだけ眉を上げた。


「領地のためには、ですか?」


「お前のためにも、だ」


父はそれ以上言わなかった。

けれど、その短い一言は思ったより真っ直ぐ胸に落ちた。


王宮では、役に立つかどうかでしか測られないことが多かった。

ここでも能力は使う。帳簿は見るし、倉庫も直す。けれど少なくとも、“戻ってきて良かった”が先にある。


それだけで、同じ仕事でも重さが違う。


屋敷へ戻るころには、空が橙に染まり始めていた。

玄関先でガスパールがこちらへ歩いてくるのが見える。老執事は、いつもよりわずかに足を速めていた。


「お嬢様」


「どうしました」


「王都から、お客様です」


父が横で顔をしかめた。


「また使者か」


「いえ」


ガスパールは一拍置いてから答えた。


「今度は外務局の書記官ではございません。セレヴァン侯爵家の紋章入りの馬車です」


私は足を止めた。


セレヴァン侯爵家。

つまり――


「アルノー・セレヴァン様が、お見えです」


夕暮れの風が少しだけ冷たくなった気がした。


応接間に通されると、アルノー様はすでに立ち上がっていた。

王宮で見るより旅装に近い装いなのに、不思議なくらい隙がない。灰青の瞳がまっすぐこちらを見る。


「急な訪問をお許しください」


「王宮はそんなにお困りですか」


挨拶より先にそう言うと、アルノー様は否定も肯定もせず、ただわずかに目を細めた。


「困っています」


率直だった。


「殿下は、まだ“大したことではない”と考えておられます。ですが、外務、侍従、王妃宮、礼官、すでに複数の部署で綻びが出ました」


「そうでしょうね」


「そして、誰も全体を把握していません」


彼の言葉には、無駄な飾りがなかった。

誤魔化しも、気休めもない。


「それで、迎えにいらしたのですか」


「いいえ」


アルノー様は即座に答えた。


「迎えではなく、依頼に参りました」


私は少しだけ目を見開いた。

父も、黙ったまま彼を見ている。


アルノー様は続けた。


「王宮へ戻れとは申しません。戻るべきでもないと思っています」


その一言は、驚くほど正確に私の警戒心の芯を外してきた。


「……続けてください」


「あなたが残した引き継ぎ資料を、私は読みました。あれは補助ではありません。王宮実務の骨組みです。にもかかわらず、殿下はそれを“細かい雑務”と認識していた」


彼はそこで一度言葉を切った。


「私は、その認識のままあなたを再び王宮へ引き戻すつもりはありません」


応接間が静まり返る。


私はこの方が無口なのだと思っていた。

違う。

必要なことだけを、必要な精度で言う人なのだ。


「では、何を依頼なさるのですか」


「外交文書と夜会失敗の損害を最小限にするための助言です。王宮ではなく、あなた個人に対価を支払って」


父の眉がわずかに動いた。

そこまで言うなら、ただの使いではない。


私はアルノー様を見た。

王宮で唯一、こちらの仕事量を理解していた人。

そして今、唯一“便利だから戻れ”ではなく、“対価を払うから力を貸してほしい”と言った人。


「無償では引き受けません」


「承知しています」


「条件は書面で」


「そのつもりです」


即答だった。


その迷いのなさに、少しだけ息を呑む。

王宮では、私の条件が先に尊重されたことなど一度もなかった。


「……本当にお困りなのですね」


「はい」


アルノー様は静かに言った。


「そして私は、あなたを軽んじたまま済ませる気もありません」


その一言だけで、今日一日どこかに引っかかっていた疲れが、少し別の形に変わった気がした。


王宮が回らない。

それは事実なのだろう。

けれど今、私の前にあるのは“困っているから戻れ”といういつもの命令ではない。


初めて差し出された、正しい依頼だった。

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