返答待ちの外交文書が十二通あります
実家に着いたのは、夜が明けきる少し前だった。
長時間の馬車は体にこたえる。
けれど王宮から離れるための揺れだと思えば、不思議と苦ではなかった。
フェルノー伯爵家の屋敷は、王都の華やかさとは無縁だ。門も庭も必要以上に飾られていない。朝靄の向こうに見える石造りの本館を眺めて、ようやく肩の力が抜けた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
出迎えた老執事ガスパールが、珍しく少し目を丸くしていた。
私が予告より半日早く戻ったからだろう。
「ただいま戻りました。父上は」
「書斎におられます。奥様はまだお休みですが」
「母上は後で結構です。まずは父上に」
王宮の磨かれた大理石ではなく、少し冷たい屋敷の床を踏みながら、私はようやく帰ってきたのだと実感した。
王宮では、息を吸うにも少し計算が必要だった。ここでは少なくとも、誰の顔色を優先するかで順番を決めなくていい。
書斎にいた父は、私の顔を見るなり眉を寄せた。
「……夜明け前に戻るとは聞いていないが」
「予定を少し早めました」
「王宮で何かあったのか」
「契約が満了しただけです」
私は淡々と答えた。
父はしばらく私を見てから言った。
「その顔は、“だけ”ではないな」
「昨夜、舞踏会の場で正式に婚約者役の終了を告げてまいりました」
「舞踏会で?」
「公の場でなければ、後々の解釈をねじ曲げられかねませんので」
父は深く息を吐いた。
「お前らしい」
「よく言われます」
「で、殿下は」
「好きにしろ、と」
父は片手で額を押さえた。
「なるほど。つまり、何も理解しておらん」
「そうでしょうね」
私は父の向かいに腰を下ろす。
「引き継ぎは済ませております。未処理案件一覧、西方使節への返答案、夜会後の訪問予定、予算修正、来週の謁見順。必要なものは書面で提出しました」
「……待て。今、お前は婚約者役だったはずだな」
「表向きは」
「なぜ外務や予算の話が混ざっている」
「殿下が面倒がるものは、大抵こちらへ回ってきましたので」
父は今度こそ黙った。
伯爵家当主として、それが婚約者の仕事でないことくらい分かるのだろう。
「それを三年か」
「はい」
「よく倒れなかったな」
「倒れる余裕もありませんでしたので」
そこで、書斎の扉が叩かれた。
「旦那様。王都から急ぎの使者が」
父と私は同時に顔を上げた。
早い。
いくら何でも、少し早すぎる。
「誰だ」
「王宮の紋章付きです。外務局の若い書記官かと」
父が私を見る。
私は肩をすくめた。
「どうぞお通しください。おそらく、青い表紙が見つからなかったのでしょう」
案内されてきた青年は、絵に描いたように顔色が悪かった。
整えられた服装と徹夜明けのような目元。その両方がそろっている。
「フェルノー伯爵、朝早くに失礼いたします。リゼット様も……こちらにいらっしゃると伺いまして」
「ご用件を」
父の声は低い。
青年は私に向かって深々と頭を下げた。
「リゼット様、外務局より確認のお願いがございます。西方三侯連盟への返答案につきまして、最終稿の所在が――」
「青い表紙の書類です」
私がそう言うと、青年の肩がびくりと揺れた。
「は、はい。どうしても見当たらず……。殿下の執務室も、侍従局も、朝から大変なことになっておりまして」
「侍従局と押しつけ合いに?」
「……はい」
そうでしょうね。
「王太子殿下の執務机、左端の書類箱の二段目。その一番上にあります。付箋は白です」
青年は半ば呆然としたまま、慌ててメモを取る。
「その中に返答案の要約、先方の要求整理、譲歩可能な点と不可な点を分けてあります」
「ありがとうございます……!」
父が低く問うた。
「それだけか」
青年は顔を引きつらせた。
「い、いえ……その、ほかにも」
私は息をついた。
「返答待ちの外交文書が十二通ありますね」
青年は目を見開いた。
父も、ゆっくりこちらを見る。
「西方三侯連盟が一件。北方商業連合からの税率照会が二件。南方港湾都市との寄港許可に関する往復が三件。聖堂経由の寄進品受領確認が一件。昨夜の夜会に関する訪問礼状の優先先が四件。……昨夜中に東方伯から追加の書簡が届いているはずなので、十二です」
青年の口がぱくぱくと動いた。
「ど、どうして……」
「昨日まで私が管理していたからです」
「その、外務局でも、どこから手をつければよいか判断がつかず……。それに昨夜の席次の件で、ランベール侯爵家が既に不快感を示しておりまして、王妃宮からも確認が入り――」
王妃宮まで。
思ったより早く燃え広がったらしい。
「でしたら順番を申し上げます」
私は指を折った。
「最優先は西方三侯連盟。返答期限が明日の正午。次に北方商業連合。あちらは遅れると先に税率案を流します。その次が港湾都市。礼状は最後で構いませんが、ランベール侯爵家だけは本日中に出してください」
「は、はい」
「席次そのものには触れないこと。昨夜のもてなしへの謝辞を厚めに入れて、次回の茶会で埋め合わせを」
青年はもはや恐怖に近い目でこちらを見ていた。
「席次の件まで……」
「最終確認をしていたのも私です」
父は椅子の背にもたれ、目を閉じた。
「王宮は、お前を何だと思っていたんだ」
「便利な婚約者、ではないでしょうか」
「便利、で済む量か」
「済まなかったから使者が来たのだと思います」
青年が申し訳なさそうに身を縮めた。
別に彼を責めたいわけではない。末端の書記官は、上の皺寄せで死にかけるものだ。
私は少しだけ声音を和らげた。
「王宮へ戻るつもりはありません」
青年がはっと顔を上げる。
「で、ですが――」
「書類の所在と、今日中に致命傷になりかねない案件の優先順位だけはお伝えしました。これ以上は契約外です」
「……はい」
「加えて申し上げます。夜会後の訪問予定は赤い綴じ紐、予算修正は灰色、謁見順は金の角印です。色で分けてありますから、探す人を間違えなければ見つかります」
青年は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、リゼット様」
「感謝は不要です。私はもう辞めましたので」
青年が退出すると、書斎に短い沈黙が落ちた。
父がゆっくり目を開く。
「戻るなよ」
「戻りません」
「王命が来てもか」
「条件次第です」
「あるのか」
「当然です。私は三年間、無償の便利屋ではありませんでしたから」
父は数秒ほど私を見つめ、それから低く笑った。
「それでこそフェルノー家の娘だ」
そのとき、今度は母が姿を見せた。
まだ朝支度の途中らしく、髪をゆるくまとめただけの姿だったが、私を見るなり目を潤ませる。
「リゼット……! 本当に戻ってきたのね」
「おはようございます、母上」
「おはようございますではありません。どうしてこんな急に。顔色が悪いわ」
母は私の頬に手を当てた。
王宮ではまずされない類いの接触で、少しだけ戸惑う。
「痩せたでしょう」
「たぶん気のせいです」
「気のせいではありません」
父が咳払いをする。
「感動の再会は後でもできる。今朝、王宮から使者が来た」
母の目が細くなった。
「……何をさせていたのです、あちらは」
「さあ」
私は笑った。
「少なくとも、婚約者教育だけではありませんでした」
母はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「帰ってきて正解よ」
それはたぶん、昨日までの私にいちばん必要な言葉だった。
少しだけ胸の奥が軽くなる。
「ありがとうございます」
「ただし、帰ってきたからには休ませたいところだけれど」
母が机の上の帳簿を見た。
父も同じ方向を見る。
私は嫌な予感がした。
「……何かあるのですか」
父が帳簿を一冊こちらへ寄越す。
「倉庫番と会計係の数字が合わん」
開いてみると、小麦、乾燥豆、塩漬け肉。
冬越し用備蓄の欄に妙なずれがある。数字の書き換えも多い。
私は数ページめくっただけで見当がついた。
「在庫がないのではなく、記録の取り方が崩れていますね」
父が片眉を上げる。
「見るだけで分かるのか」
「倉庫番号の振り方が途中から変わっています。帳簿側が追いついていません。これでは、あるものも“ない”ことになります」
母が呆れたように私を見る。
「王宮を出たその日に、もう仕事ですか」
「いえ、これは王宮ではありませんから」
私は帳簿を閉じた。
「こちらの方が、まだ素直です」
数字は見栄を張らない。
書類は機嫌を損ねない。
王宮よりよほど扱いやすい。
父が口元を緩める。
「では、少し寝たら倉庫を見ろ」
「寝る前提なのですね」
「当たり前だ。王宮の連中が何通書類を溜め込もうが、うちの娘はまず眠る」
そこでようやく、私は本当に帰ってきたのだと理解した。
王宮なら、ここでさらに使者が増え、別件が重なり、誰かの不機嫌の埋め合わせまで付いてくる。
けれどこの家では、まず眠れと言われる。
それだけで、十分だった。
たぶん今ごろ王宮では、青い表紙が見つかった頃だろう。
返答待ちの外交文書が十二通あると知って、ようやく誰かが青ざめている頃かもしれない。
でも、もう私の知ったことではない。
少なくとも、今日の午前中までは。




