私は本日をもって婚約者役を辞めます
舞踏会の最中に婚約者役の終了を告げるのは、さすがに空気を読まないと思う。
けれど三年前に交わした契約書には、終了日が今日だと明記されていた。
ならば、空気より契約を優先するのが正しい。
私はグラスを置き、光の海のような大広間を見渡した。
磨き上げられた床にシャンデリアが揺れ、音楽は軽やかに流れている。王都でも有数の名家ばかりが集まる春の夜会だ。誰もが笑っていて、誰もが誰かを値踏みしていた。
その中央に立つのは、王太子ユリウス殿下。
そして殿下の隣にいるのは、聖女ミレーヌ様だった。
ミレーヌ様は可憐な方だ。
金の髪に、春先の陽射しのような柔らかな微笑み。悪意の似合わない顔をしている。だからこそ始末が悪い。悪意がないまま、人の立場を奪ってしまう方もいる。
殿下はミレーヌ様へ何か囁いてから、ようやく私に気づいた。
「どうした、リゼット」
その声音は、婚約者へ向けるものではなかった。
今から面倒な確認事項を持ってきた相手へ向ける声だ。
実際、この三年間の私は、ほとんどそういう存在だった。
私は淑女の礼をとる。
「王太子殿下。ご歓談のところ失礼いたします」
「改まっているな」
「ええ。本日で契約満了ですので」
殿下の目が一拍だけ止まった。
けれど次の瞬間には、ああその話か、とでも言いたげな顔になる。
本当にこの方は、自分に都合の悪いことほど軽く流すのがお上手だ。
「それで?」
「ですので、本日をもって、王太子殿下の婚約者役を終了いたします」
近くで扇子の止まる音がした。
何人かの令嬢が息を呑み、年嵩の貴婦人たちが興味を隠しきれない目を向けてくる。
“やはりそうだったのね”
“ついに退いたのね”
そんな無言の声が聞こえるようだった。
殿下は肩をすくめた。
「好きにすればいい。もともと期限付きだ」
「ご理解いただけて何よりです」
「ただ、こんな場で言う必要があったのか?」
「ございます」
私は笑顔のまま答えた。
「公の場で明確にしておきませんと、後から立場を曖昧にされかねませんので」
一瞬だけ、殿下の顔が険しくなる。
図星だったのだろう。
ミレーヌ様が不安げに殿下を見上げた。
「ユリウス殿下……」
殿下は彼女に向かうときだけ、声をやわらげた。
「気にしなくていい、ミレーヌ。少し細かい話だ」
少し細かい話。
なるほど。
三年の契約も、社交上の立場も、私の名誉も、その程度だったらしい。
胸の奥に、ごく薄く残っていた何かが、そこでようやく完全に冷えた。
最初から何も期待していなかった、というのは嘘になる。三年前の私はもう少し愚かで、もう少し若く、殿下の隣に立つ意味を信じようとした時期もあった。
けれど、それはもう終わっている。
「引き継ぎ資料は昨日までに提出しております。行事予定表、返答待ちの案件一覧、外務局との確認事項、春季予算案の修正点、夜会後の訪問予定先一覧も含めて」
「……随分と細かいな」
「必要なことですので」
「そんなもの、侍従に任せればいいだろう。お前はそういう雑務をきれいに片づけるのが得意なのだから」
周囲の空気が、わずかに固まった。
ああ、やはり。
言ってしまうのですね。
侍従に任せればいい。
雑務。
得意だから。
便利な婚約者をどう見ていたのか、これ以上ないほど分かりやすい。
私は一瞬だけ目を伏せ、すぐに微笑みに戻した。
「任せられるのでしたら、それが一番よろしいかと」
殿下は少しだけ顔をしかめた。
ようやく言葉の棘に気づいたらしい。
そのとき、少し離れた位置から低い声がした。
「殿下」
声の主はアルノー・セレヴァン宰相補佐。
黒髪に灰青の瞳、いつ見ても感情の読みにくい顔をしている人だ。王宮で数少ない、“会話の中身”を最後まで聞く方でもある。
彼は私と殿下を見比べ、短く確認した。
「契約終了のご報告、という理解でよろしいですか」
「ええ」
私が答えると、彼は小さく目を細めた。
「提出済みの引き継ぎ資料の中に、西方三侯連盟への返答案も」
「ございます。期限は明日の正午です」
アルノー様は一度だけ息を止めた。
その反応で、この方はやはり中身を把握しているのだと思う。
対して殿下は怪訝そうに言った。
「何だ、それは」
アルノー様は無表情のまま答える。
「三日前に到着した、西方三侯連盟からの親書です。春季交易税の暫定措置について、殿下名義での返答が必要になります」
「そんな話、聞いていないぞ」
「リゼット様経由で、確認用の要約が届いていたはずですが」
私は穏やかに補足した。
「昨日の午前、青い表紙の書類にまとめております。付箋も付けてありますので、すぐお分かりになるかと」
殿下は露骨に不機嫌な顔をした。
青い表紙。おそらく見てもいないのだろう。色まで指定して差し上げたのに。
「……後で確認する」
「お願いいたします」
私には、もうそれ以上言う義務はない。
私は再び淑女の礼をとった。
「それでは殿下。三年間、お役目を務めさせていただき、ありがとうございました。契約に基づく終了ですので、今後はフェルノー伯爵家の次女として静かに暮らします」
「好きにしろ」
「ええ、そういたします」
その一言で、すべてが終わった。
私は背を向ける。
道が自然と開いた。噂好きな貴族たちの視線が突き刺さるが、不思議と足取りは軽い。
惨めだとは思わなかった。
悔しさも、今はもうあまりない。
三年前に決めた期限が来て、予定通り終えただけだ。
ただひとつ、もう“殿下の婚約者”として扱われる必要がなくなったことに、心底安堵していた。
大広間を出て回廊に出たところで、ようやく肺に溜めていた息を吐いた。
コルセットが少し苦しい。けれど、それも今夜限りだ。
「リゼット様」
振り向くと、アルノー様が追ってきていた。
「お引き止めして申し訳ありません」
「いえ。何かございましたか」
「一つだけ確認を」
彼は私の表情を探るように見た。
「本当に、予定通りだったのですね」
変な質問だ。
「ええ。契約書通り、三年で終了です」
「未練は」
「ありません」
即答すると、彼はほんのわずかに視線を伏せた。
安堵なのか、別の感情なのかは読み取れない。
「そうですか」
「何か不都合でも?」
「……いえ。あるとすれば、王宮側にです」
それはそうでしょうね、と喉まで出かかったが、さすがに飲み込んだ。
代わりに私は、できるだけ親切に言った。
「提出した一覧の一番上から処理なさってください。外交文書、夜会後の訪問予定、予算修正、来週の謁見順。その順番なら、致命傷にはならないはずです」
「致命傷には」
「ええ。傷にはなります」
アルノー様は、そこで初めて少しだけ口元を緩めた。
笑った、というより、呆れたに近い。
「あなたらしい」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「そうしてください」
短いやり取りのあと、彼は静かに言った。
「王宮で、あなたがしていたことを理解している者は、思っているより少ない」
「存じています」
「……でしょうね」
私は首を傾げる。
「それでも、もう私の仕事ではありません」
そう。
それがいちばん大切だ。
王宮で誰が困ろうと、どの書類が積まれようと、どの貴族が不機嫌になろうと、明日からそれは私の責任ではない。私はもう、便利な婚約者ではないのだから。
アルノー様は何か言いかけて、結局やめた。
「夜道です。お気をつけて」
「ありがとうございます」
私は最後に一礼して、玄関へ向かった。
外は少し冷たい春の夜気だった。
馬車へ乗り込むと、御者が静かに扉を閉める。窓の向こうで王宮の灯りが遠ざかっていくのを見て、胸の奥にあった緊張がようやくほどけた。
三年間。
長かったような、短かったような時間だった。
表向きは婚約者。
実際には、殿下が面倒がる仕事の受け皿。夜会の配置、贈答品の管理、外務局との調整、派閥の顔色合わせ、失言の後始末。
王妃教育より先に覚えたのは、他人の尻拭いのやり方だった気がする。
でも、もう終わりだ。
私は膝の上で手を組み、小さく息をついた。
「これで、やっと自由ね」
誰に聞かせるでもなく呟くと、馬車は石畳を滑るように走り出した。
明日の朝、王宮は少しだけ騒がしくなるだろう。
けれどきっと、最初は誰も大したことではないと思う。
青い表紙の書類が見つからない。
返答が必要な文書がある。
席次表の最終確認ができていない。
その程度の、よくある小さな遅れだと。
そうして彼らは、昼頃になってようやく気づくのだ。
ああ、あの婚約者は、ただ立って微笑んでいただけではなかったのか、と。
そのとき私はもう、王都の外にいる。




