第26話 「第5章 6:水の底の集落へ」
ペタペタと水を滴らせる男は、玉座の前までクッキリと足あとを残しながら歩み寄ると、そのまま座り込んで臣下の礼を取った。
青い鱗が全身を覆い、下半身にとりあえず布を撒いただけの姿をしたその男は、一目で水の氏族の男であることが、アデルには分かった。
「水の氏族の者よ、よく参られた。魔王アーデライト・アルタロスだ」
「水の氏族より族長ルートの意を伝えに参った。名はミルドと申す」
水底の集落から戻ったカナリアとニャルガの報告で、アデルはすでに族長の意思を伝え聞いている。集落内への周知もさほど掛からなかったようで、ほどなく使者が城へとやって来た。
「我ら水の氏族は、魔王様の臣下へと下る旨、お受けいただきたい」
「感謝する、使者ミルドよ。そなたらの族長殿の意は確かに受け取った。魔王は、これまでと同様に水の氏族のあり方について何か求めることはない。それを族長殿に伝えてくれ」
「承知」
水の氏族の使者は了承を示すと立ち上がって一礼し、そのまま広間を出て行った。
ドアが音を立てて閉じたことを確認するや、カナリアがモップを取り出して広間に飛び散った水滴を掃除し始める。瞬く間に広間から水分が除去され、いつもの広間へと戻った。
「ふぅ、全く堅い言葉を使うのは面倒だな」
「そーね、魔王ちゃんにはそういうの似合わないよね」
「似合わない……とまで言うか」
「気にするでない、魔王殿。人にはそれぞれ向き不向きがあるし、何よりこういった場は経験じゃ。すぐに慣れるよ」
「だよねだよね! うんうん、ニャルガはやっぱりいい子だねぇ」
アデルはニャルガの元まで歩き寄ると、頭を撫でたり頬ずりしたりした。
「にゃーっ!?」
ニャルガは嫌そうな声を出しつつ、逃げようとしたりせずにそれを受け入れる。アデルが満足するまでそれは続いた。
アデルが満足して立ち上がったところ、すぐ真後ろにカナリアがスタンバイしていた。
「アデルアデル。私も頑張ったんですよ?」
「知ってる知ってる。ありがとうな、カナリア」
そう言いながらアデルは玉座へと戻った。
不満そうな顔を隠しもせずに、カナリアはアデルへと頭を突き出して、頭を揺らしてアピールする。
「頭突きは止めてくれ……」
「違いますよ。私が満足するまで、ナデナデしていいですよ」
「……止めておこう」
「そうですか、頬ずりだけで我慢しましょう」
「それもナシだな」
まったくもって相手にしないアデルであったが、残念ながらカナリアはそういう反応をすでに想定していたので、速やかに想定していた通りの行動を取る。
アデルの座る玉座へ、カナリアは体を横向きにして飛び込み、アデルは慌てて手を出してそれを受け止めた。それはまるでお姫様抱っこをされているかのような体勢だった。
「ふふ、アデルったら。私をこんなに辱めるだなんて、いけない魔王ですね」
カナリアはアデルの首へと腕を回してかっちりと姿勢を固定して離れないように抱きついた。
「……カナリア、重い」
「重くありません。重くありませんとも」
カナリアはそのままアデルの顔を引き寄せて、抱きしめる。胸に顔を当てるようにしたのは、もちろん狙ってのことである。
「たまには、こういうのも悪くありません」
とびきりの笑顔のカナリアであったが、それと対称的にアデルの表情は苦しそうである。呼吸がしにくいのと、十分に膨らんだ胸の感触とがアデルを二重の苦しみへと誘いこんでいた。
その様子を見て、フランがニャルガに尋ねる。
「なあ、カナリアは何がしたいんだ?」
「……そうなあ、魔王殿とくっつきたいのであろう」
「魔王ちゃんとくっつくと、何かいいことがあるのか?」
「さてな。カナリア殿の嗜好であろう」
「ふぅん。じゃあ今度やってみるかな。楽しいのかもしれないし」
「それは許しませんよ」
すかさず釘を刺してくるカナリアだった。
「そ、そういえば……報告の時にはぐらかされたけど、水の氏族が出してきた条件の一つだけ聞けてなかった気がするんだが」
アデルはなんとか呼吸が出来るように顔の向きを調整して、声を上げた。
その声を聞いたニャルガは、答えに悩んだが、カナリアへと視線を向けるだけにしておいた。
「アデルは気にしなくてもいいですよ」
「またそれだ。俺が知ってなきゃマズイだろう」
「知らなくてもいいです」
「……ニャルガ! ニャルガなら教えてくれるよな!」
「それについてはカナリア殿に任せておるでな。ワシから言うことは出来ないわ」
カナリアに強く言い含められたニャルガは、答えること自体を放棄した。
「ね、アデル。気にしなくても大丈夫なんですよ」
「いや、だってなあ」
「問題ありません。私に任せておいてください」
カナリアは頑として答える事を拒否し続けた。
水の氏族の集落へと降り立ったカナリアとニャルガは、すぐに族長の部屋へと通された。
族長のルートはニャルガと同じく先代の魔王の御代から族長を務めており、ニャルガの名と姿だけで面会が叶ったことは僥倖だった。
「ほう、黒騎士殿の娘御であったか。父上はご壮健かね?」
「腰を悪くして伏せていることが増えましたが、概ね元気ですね」
「そうかそうか。かの御仁もよい歳であるからなあ。いやはや、歳は取りたくないものだ」
そういうルートは若々しく見えたが、おそらく百五十程度であるはずだ。輝く鱗は丁寧に磨き上げられており、カクシャクとした動きにもまだ衰えは見えないでいた。
「して、今日はどんな用事であるかな?」
「その前に、ワシにも何かないのか」
「だってなあ。ニャルガはまったく変わった様子がないからな。そんなことを聞いても仕方あるまいに」
「仕方あれ!」
「ニャルガ様、そんな言葉はありませんよ」
「……」
「はっはっは。面白いな、お前ら」
ルートは盛大に笑い、ニャルガは憮然とした表情で肘を付いた。
「ルート様。今日はお願いがあって参りました」
雑談の時間が終わったと見るや、カナリアはすかさず切り込んだ。それを聞き、ルートは表情を改め直す。
「お願い、か。まずは聞こうか」
「ありがとうございます。魔王アーデライトは、来るべき勇者との戦いのため、迎え撃つ陣容の整備を進めております。つきましては、水の氏族にもご協力いただきたいとのことで、私たちが使者として参りました」
ルートは一瞬口を開きかけたが、言葉は出さずに口を閉じると腕を組んで考える様子を見せた。
「……なるほどな。その勇者とすでに一戦交えて被害を出した水の氏族であれば、取り込むのも容易かろう、ということか」
カナリアはわずかな言葉だけで考えを見切られたことに驚愕したが、ギリギリのところで表情を維持することに成功した。固い笑顔を貼り付けたままではいられたが、額に浮かび上がってくる汗だけは、抑えきれなかった。
「相変わらず察しがいいな。話が早くて助かるわい」
ニャルガはそれを肯定し、その上で分からせようとしていたと言うことで話の流れを譲らない。
「そも、話をするだけで引き込める可能性がある氏族はそう多くはないからの。話だけで済むなら安いもんじゃろ」
「そうだな。聞いている限りでは、龍の氏族が付いたと聞いてはいたが、獣の氏族も付いたと考えていいのだな?」
「ああ。それに鬼の連中もだ」
「バルドスもか。アイツはアーデライト殿を可愛がっていたからな、確かに話だけで済む氏族ではあるか」
さすがに氏族長レベルの話になると、カナリアはそこに口を割り込むことが出来ず、タイミングを図っていた。
「ニャルガよ、一つ聞きたい。お前は、あの約束についてどう考えている」
「……それを言われると悩ましいところではあるがな。ただ、獣の氏族も勇者には手酷くやられておるでの。氏族を守るため、という名目が一点。バルドスの奴から声を掛けてきたのだから奴に責任を押し付けられようというのが一点。龍の若造が先に降っていたというのが一点、といったところかの」
「それだけでは、あるまい」
「ふん、これだから察しの良い奴は」
「それを褒めた者が言うでないわ」
ルートは苦笑するが、それを無視してニャルガは続ける。
「……あとは……そうさの、個人的な興味よ。あの方とはだいぶ違う魔王ではあるが、それが興味深い。どういった魔界を作ろうとしているのかは未だに分からんが、それはそれで面白くてな。老い先短い命じゃ、ついでに氏族の立ち位置を高くしておくために使うのも悪くはあるまい」
「ふむ。確かに興味はあるが、水から出ない我らには興味がある程度でしかないな。だがニャルガよ。まだ隠していることがあるな」
「……」
「言わんか。まあいい、それこそ個人的な事であろう。さすがにそこに踏み込みはすまい」
ルートはニャルガの返答に満足したのか、相好を崩した。
「して黒騎士の娘よ。三つの氏族が降った際は、何かしら条件を突きつけたのかね?」
「いえ。いずれの氏族もそういったものはありません」
いきなり話を振られてビクッとしたが、カナリアは淀みなくそう答えた。
「そうか。そういうことならば、水の氏族は条件を付けさせてもらおう。その方が、それ以降の交渉もしやすかろう?」
「本当にお主は抜け目ない男じゃの」
「はっはっは。何、こちらの要求は大したものではないし、約束について果たしてもらおうというだけさ」
「──そういうことか」
「うむ。水の氏族が魔王に協力する条件は、我が娘に魔王殿の子をもらうことだ」
カナリアは目の前が真っ暗になるのを感じつつ、それを受け入れる返事をしなくてはならない自分がイヤでイヤで仕方がなかったが、アデルの立場と望みと生存のために突きつけられた条件を受け入れる返事をしなくてはならなかった。
せめてもの抵抗として、ニャルガへ口止めしつつアデルに条件について話さないようにすることにして、カナリアは魔王にそれを了承させることを誓約するとルートへ答えた。
言葉と共に溢れでたカナリアの涙が、一滴、固く握りしめた膝の上の拳に落ちて砕け散った。




