第1話 変わらない朝
「王家より布告――」
朝のネルトアに、張りのある男の声が響いた。
パン屋の煙突から白い煙が上がり、石畳を荷車が軋みながら通っていく。井戸には水桶を抱えた女たちが集まり、通り沿いでは商人たちが木戸を開け始めていた。
その人波の中を、王家の紋章を胸につけた役人が進んでくる。
従者が掲示板へ一枚の紙を貼りつけた。
「滅びた城塞都市カレグノスより、王家の求める遺物を持ち帰った者には、多額の報酬を与える! 発見者の身分、所属は問わない」
足を止める者が増えた。
「またカレグノスか」
「いくら出すんだ?」
「金を積まれても、あそこだけは御免だね」
「昨日、前線拠点にいた奴がよく言うよ」
どっと笑いが起こる中、レイグ・オルディアも人垣の後ろから掲示板を眺めていた。
役人が告げた報酬額に、笑っていた者たちまで静かになる。
「……本当に出すのか、そんな額」
近くの男が呟き、レイグも思わず紙を見直した。
紙の末尾にある「王暦五百十二年、芽吹き月十四日」という今日の日付だけが、なぜか妙に目に残った。
人垣の前では、革鎧の肩を新しい鉄板で継いだ探索者が、報酬額を指で追っていた。背の槍は穂先が欠け、片方の長靴には乾いた灰がこびりついている。隣にいた若い男が仲間へ誘いをかけたが、探索者は紙から目を離さずに言った。
「城門の中なら稼げる。だが、王城が見えるところまで欲を出すな。帰りの橋を渡って初めて、拾った物は自分の金になる」
若い男は笑って頷いたものの、腰の剣へ触れた手だけは落ち着かなかった。レイグには、どちらの気持ちも分かった。
その額があれば、しばらくカレグノスへ潜らずに済み、家の屋根も直せるうえ、母にも今より少し楽をさせられる。
そして――。
妹の顔が浮かんだ。
「馬鹿なこと考えてんじゃないよ」
不意に腕を小突かれて振り向くと、魚屋の老婆が呆れた顔でレイグを見ている。
「何です?」
「今、『俺なら持って帰れるかも』って考えただろ」
「そこまでは考えてませんよ」
「どうだか」
老婆は鼻を鳴らした。
「金に目がくらんで奥まで入りすぎるんじゃないよ」
レイグは苦笑した。
「昼鐘を聞いたら、帰り道へ入りますよ」
役人の声を背中で聞きながら、家へ向かう。
朝食が冷める前に戻らなければ、今度は母に叱られる。
*
「遅い」
扉を開けた途端、ネリナが言った。
食卓では、ミレサが鍋のそばに座り、その向かいでネリナがすでに薄いパンをかじっている。
「まだ食べ始めたところだろ」
「兄さんの分も食べようかと思ってた」
「勝手に人の朝飯まで食べるな」
「冷めたらかわいそうだから」
「俺の朝飯を心配してるのか、自分の腹を心配してるのか、どっちだ?」
ネリナは少し考えた。
「両方?」
「ほとんど後者だろ」
ミレサが吹き出した。
「ネリナ。お兄ちゃんが帰ってくるまで待ちなさいって言ったでしょう」
「待ったよ」
「食べながら言わないの」
「これは私の分」
「二枚目でしょう」
ネリナの手が止まる。
「……母さん、よく見てるね」
「母親だからね」
レイグは笑いながら椅子を引いた。
ミレサが鍋から温かなスープをよそうと、豆と刻んだ野菜の匂いが立った。匙を入れると、小さな干し肉が一片だけ沈んでいる。
ミレサは自分の椀を最後に満たした。鍋底をさらったはずなのに、母の椀には豆ばかりで、肉はレイグとネリナの方に一片ずつ入っている。
レイグが黙って自分の肉を匙に乗せると、ミレサは鍋を片づけながらもこちらを見た。
「ネリナの椀へ入れたら、あなたの分を戻すわよ」
「まだ何もしてないだろ」
「しようとした顔をしてたもの」
ネリナが素早く自分の肉を半分に切り、片方を母の椀へ落とした。
「じゃあ、これは私から」
「あなたまで」
「今日は兄さんが稼いでくるし、次は三つ入るよ」
無邪気な声に、レイグは笑いかけて、やめた。三つ入るようにするのは王でも奇跡でもなく、自分の役目だと思った。
豪華ではないけれど、レイグはこの朝食が好きだった。
「布告を見ていたの?」
ミレサが聞いた。
「聞こえてた?」
「あれだけ大きな声なら、この辺り全部に聞こえてるわよ」
ネリナが身を乗り出す。
「王様、本当にすごいお金を出すの?」
「らしいな」
「どのくらい?」
「お前に教えたら、昼には町中が知ってそうだから教えない」
「何それ。私だって秘密くらい守れるよ」
「母さんへの誕生日の贈り物を、買ったその日に本人へ教えたのは誰だ」
ネリナが黙った。
ミレサが笑いを堪えている。
「私は嬉しかったけどね」
「ほら」
「褒められてないぞ」
ネリナが不満そうにパンをかじり、レイグもスープに口をつける。しばらくすると、ネリナが何でもないことのように聞いた。
「兄さん、今日も行くの?」
レイグは顔を上げる。
「カレグノス?」
「うん」
「ああ」
ネリナの表情から笑みが少し消え、ミレサも手を止める。
「王家の報酬を狙うの?」
「いや。今日は前から行く予定だっただろ」
「でも、見つけたら持って帰るんでしょう?」
「そりゃ見つけたらな」
ネリナがすぐに言う。
「やっぱり狙ってるじゃん」
「見つけたらって話だ」
ミレサは何も言わずレイグを見ており、その視線に気づいたレイグはパンを置く。
「大丈夫だよ。報酬欲しさに危ない場所へ突っ込むつもりはない」
「本当に?」
ネリナが聞く。
「本当だ」
答えてから、ふと足元へ目がいった。ネリナの革靴には、つま先に新しい糸が走り、底にも革片が重ねて縫いつけられていた。
「その靴、また直したのか」
「これ?」
ネリナが片足を持ち上げる。
「母さんが直してくれた」
「底、剥がれてなかったか?」
「ちゃんとくっついたよ」
ミレサも笑う。
「まだ履けるからね」
レイグはその靴を見つめ、次にまとまった金が入ったら、雨の日にも水が染みない丈夫な新しい靴を買おうと思った。屋根の修理もそろそろ必要だし、母の上着も何年着ているだろう。
「兄さん?」
「ん?」
「何見てるの?」
「別に」
「変なの」
「お前に言われたくないな」
「私のどこが変なの」
「朝飯を二人分食おうとするところ」
「まだ言う?」
「はいはい、そこまで」
ミレサが笑いながら二人を止めた。
レイグも笑い、残っていたスープを飲み干した。
「ごちそうさま」
壁際の荷物を取り、水筒、包帯、薬が揃っているかを見る。それから腰のロングソードを確かめ、左腕へ小型盾のバックラーを通した。
荷袋の口を閉じる前に、ミレサが椅子を離れた。包帯の巻きを指で押し、薬瓶を一本ずつ傾け、栓の周りが濡れていないことを確かめる。治療師ではないが、探索から戻った息子の服を何度も洗ってきた手だった。
「薬は底へ入れないの。片手が動かなくても取れる場所にして」
「分けてある。右の小袋が薬、左が包帯だ」
「水は?」
「上。ダルクとフィエラの分も少し余計に持つ」
ネリナは卓の端へ寄り、バックラーを留める革帯を見た。レイグが腕を曲げ伸ばしすると、金具がわずかに鳴る。
「それ、本当に剣を止められるの?」
「全部は無理だ。受けるんじゃなくて、横へ逃がす」
「じゃあ大きいのはダルクに任せて」
「本人が聞いたら、盾扱いするなって怒るぞ」
「盾を持ってるのに?」
「そこが面倒なんだよ」
ミレサが外套の肩を平らに直し、最後に荷袋の口紐を強く引いた。三人で行くと聞いた時だけ、母の指から少し力が抜けた。
荷袋を肩に掛けたレイグを見ながら、ミレサが言う。
「奥まで行きすぎないでね」
「兵舎か市場跡までだ。王城には近づかない」
「前にもそう言ったわ」
「昼鐘を聞いたら帰り道を確かめる。霧が出てから走ることはしないよ」
レイグは母を見る。
「早めに帰る」
ネリナが口を挟んだ。
「じゃあ帰りに何か買ってきて」
「何を?」
「甘いやつ」
「ずいぶん曖昧だな」
「甘ければ何でもいい」
「余裕があったらな」
「約束ね」
「余裕があったら、だぞ」
「けち」
「新しい靴とどっちがいい?」
ネリナは足元の擦れた靴を見て、片方のつま先をもう片方に重ねた。
それから、少しだけ悩んだ。
「……靴」
「即答しろよ」
「甘い物も大事だから」
レイグは笑い、扉へ向かった。
「行ってくる」
「気をつけてね」
ミレサが言った。
ネリナも続く。
「ちゃんと帰ってきてよ」
「ああ」
レイグは片手を上げた。
「行ってくる」
扉を開けると、朝の光と町のざわめきが家の中へ流れ込んできた。
*
通りには、まだ王家の布告を囲む人だかりが残っていたが、レイグは足を止めず、掲示板の紙を横目に見た。
王家の紋章、多額の報酬、そして末尾に記された今日の日付を確かめ、そのまま通り過ぎた。
乗合馬車の発着所へ向かう途中、道端に大きな盾を背負って腕を組んで待つダルク・セヴェルと、もう一人の姿が見えた。ダルクはレイグを見つけるなり、眉を寄せた。
「遅え」
「時間には間に合ってるだろ」
「俺が待った」
「勝手に早く来たんだろ」
隣で、弓を背負ったフィエラ・カレスが笑った。
「ちなみに私は今来たところ」
ダルクが横を見る。
「嘘つけ。お前も一緒に待ってただろうが」
「細かい男は嫌われるよ」
「誰にだよ」
「いろんな人に」
「具体的に言え」
「朝から元気だな、お前ら」
レイグが言うと、フィエラが肩をすくめた。
「私は普通だよ」
「お前が一番うるせえ」
「ほら、また怒った」
「お前が怒らせてんだ」
レイグは思わず笑った。
ダルクが苛立ったように顎をしゃくる。
「行くぞ。馬車に置いてかれたら歩きだからな」
「それだけは嫌」
フィエラがすぐに歩き出した。
「カレグノスに着く前に疲れちゃう」
「お前、途中で絶対荷物持てって言うだろ」
「ダルク、力持ちだから」
「褒めても持たねえぞ」
二人が先を行き、レイグもその後を追いかけようとして、一度だけ振り返った。
通りの向こうに家の屋根が少し見え、ネリナの繕われた靴を思い出す。
今日は少し多く稼ぐ。それで、早めに帰る。
「レイグ」
フィエラの声が飛んでくる。
「置いてくよ」
「今行く」
レイグは家に背を向けた。
朝の人波を抜け、待っている二人へ追いついた。




