第一章 ①
「来た」と思うと同時にやっぱりと二重に思う。
自分で見た事がないからわからないけど、恐らくこういう時の僕はきっと引き笑いになっているのだろう。
だって右の口角と左の頬が微かにピリついているのだから。
その大学生風な女性は僕に向かって何度も頭を下げ、「本当にありがとうございました」
といい、点滅し始めた横断歩道をポニテにしている髪の毛を大きく揺らしながら駆けていった。
僕と言えば、その人が横断歩道を渡り切るまで揺れる髪の毛やその背を目で追う事はしなかった。いや正確には出来なかった。何故なら、今、僕は最大限に「来た」が来ていたからだ。
その女性が急いでいたのは僕にお礼を伝える言葉の早さから感じ取れたし、それに女性が走り出した時、信号はまだ点滅などしていなかった。
つまり青信号でもその女性は駆け出していたいう事になる。寝坊して遅刻しそうで駆けていたのか、それとも別な理由がその人にはあったのか。
それは僕にはわからないし、知る必要も興味もない。
それにいつまでも駆けている人を目で追ったりしていたら、不審者扱いをされかねない。
ま、けれど実際は僕もその人が駆け出すとほぼ同時に僕は今来た道を引き返すように、その場から駆け出していた。
ここまでの道のりで、唯一、[来た]を誰にも見られずに済む場所は1つしかなかった。
でも現実的にそこまで辿り着くには無理があった。
コンビニ?いや朝のこの時間だと借りている人がいる可能性の方が高い。それだと僕が「来た」を堪えられる時間がより短くなってくるだけだ。
コンビニに寄り道したせいで……なんて事になったら、2度とそのコンビニに入れなくなってしまう。それだけは避けなければならなかった。
家の近所にある唯一のコンビニを自ら出禁などにはしたくなかった。
利用頻度が高い故、この選択肢はなかった。
時間帯によって店員が代わるのだから平気じゃね?という人もいるだろう。
うん。僕もそう思う。でも、この付近で「来た」が起こる度、どうしてもその選択をする事は出来なかった。
店員が代わってもその噂は語られる。
朝のシフトの人が昼から夜、夜から朝へと変更されないと誰が言えるだろう?
そうなってしまった後では遅すぎるのだ。
後の祭りってやつ。僕はコンビニに来る度、そこの店員からクスクスと笑われて、僕の見えない所で指を指し「アイツが例の奴だ」とかギリで聞こえるように言われるのはごめんだ。
だからコンビニという選択肢は無い。
絶対に無い。けれど今の状況で唯一の場所まで行ける自信も、当然、自宅へ戻る選択肢もなかった。いや出来なかった。
こうなったら仕方がない。僕は、先程、僕の目の前で財布を落とした人からアイデアを頂戴しようと考えた。
「来た」の最中に良くそんな事まで考えられるなと自分でも驚きだけど、こればかりは幼少期から長年、「来た」を経験して来た僕だからこそ、出来る能力でもある。
断言するけど、もし仮に普通の人に「来た」が起きたとしたなら、僕みたいに考える余裕なんてある筈がない。そんな事をする前に直ぐに終わりだ。
だけど僕は違っていた。こなして来た数やあらゆるシュチュエーションでの経験値の差がある。言うなればレベルの違いだ。
なので僕はそのレベルの差を見せる事でこの場を乗り切る。
[来た」をスマートに片付けるにはそれしかないように思えた。
そう。僕は朝の通勤で賑わう歩道を駅とは逆方向へ人々を避けながら走った。
歩道の街路樹を越して、その先に植えてある植え込みへ向けて、スーツの後ろポケットから抜き取った自分の財布を下手投げで植え込みの中へと投げ入れた。
僕の姿を見た人はきっとこう思った事だろう。駆けながら財布を取り出そうとして、それを思わず落としてしまい、あろう事か落とした財布を蹴飛ばしてしまい、あげくに財布が植え込みの中へ入ってしまったせいで、両手両膝をついて植え込みの中へ頭を突っ込んでいるのだろうと。
実際、周りの人に聞いて確かめた訳じゃないから周りの人がどう思ったかという事はわからない。
でもこれは自画自賛してもいい。今回の僕の「来た」に対する一連の行為の処理の仕方はとてもスマートだった。そう見えた筈だ。「来た」と対峙しながらそれが出来るなんて、中々のものの筈だ。
そして僕は財布を探す振りをしながら植え込みの中に頭を突っ込み音もあげず「来た」を処理した。
音を立てないように処理出来るようになるまで、かなりの年数がかかったけれど、そのお陰で侮蔑な眼差しを受ける事もなくなった。
いや、僕のこの状況もいたってそのような眼差しを受けるに充分なシュチュエーションには違いないが、それでもそんなシュチュエーションに「来た」が加われば瞬く間に最悪という2文字の言葉が人々の頭の上に浮かぶに違いない。
僕は「来た」を処理し終えると、一息ついた。植え込みの中に頭を突っ込んだまま処理をした「来た」を数秒の間、眺める。そしてその体勢のまま財布を後ろポケットへしまった。
よし。そろそろ立ちあがろう。そう思った矢先にそれは起こった。
四つん這いで植え込みの中へ頭を突っ込んでいる20歳を過ぎた変な姿の男の背に手を置く者があったのだ。
「平気です?」
声からしてその人が女性だというのは直ぐに理解出来た。ひょっとしたら、つい数分前に僕が拾った財布の持ち主だろうか?なんて事が脳裏に浮かんだ。
だがあの人は口早にお礼を言って直ぐに駆けて行った。でも急にその事が失礼だったと感じ戻って来たのだろうか?あり得るなと思った僕はやはりどうかしている。
「来た」が起きてしまうと、どうしてもやましい気持ちが僕の中で芽吹いてしまうのだ。それが縁で付き合ったりして。相手が今朝みたいな女性だったらそんな事を思ったりもする。
でも一度としてそのような事はなかった。その場では感謝こそされるが、連絡先を交換したりするまでは至った事はなかった。まぁ、あったらあったで、それはそれで困るのだけど。どうしてか?って?
それは勿論、「来た」となった状態だからだ。そうなると既にご存知と思うけど、僕からは余裕が無くなるわけだ。そんな「来た」の処理を終えそれを眺めている僕に、その手の主人は言ってのけたのだ。
「平気です?」
と。
先ずここで腑に落ちない事が一点あった。それが何かは大体の人は気づくだろう。だから言わせて貰うけど、腑に落ちない点とは声を掛けられた事ではなく、僕の背中に置かれた手の事だった。
明らかに変質者としか思えない見ず知らずの僕の姿勢を見て、背中に手なんて置けるだろうか。
置けない。置ける筈がない。知り合いでも嫌がるだろう。なのにどうしてか声の主である女性は平気です?と言ってのけた。
平気ですか?ではなく平気です?と。誤解があったら困るから付け足して置くけど、?マークを付けたのは僕自身の仕様だ。実際には当の本人である女性が、自分のことを平気ですと言ってるだけかも知れなかった。
これもあり得ない話しだけど、実はこの女性は僕の
「来た」を見てしまい、それについて平気ですと返しただけなのかも知れない。それなら平気ですと言った説明がつく。
まぁそれでも実際は僕の事を心配しての事だろう。
そうでなけれは誰が背中に手を置いたりするものか。
僕はお尻の方から下がり植え込みから頭を引き抜いた。立ちあがろうとする僕をその女性は呼び止めた。
「ちょ、そのまま動かないで」
呼び止められた理由は簡単に想像出来た。どうせ植え込みの中へ頭を突っ込んだせいで髪の毛に枯葉やゴミが絡み付いただけだろう。それを見つけたその女性が取ろうとして、動かないよう指示して来たと思った。だから僕は歩道の隅で四つん這いのまま、その女性がしてくれるだろう事を待った。




