どうしてわかってくれないの?
猫の足跡の付いた学ランを手で払いながら君彦は足早に学校へと向かっていた。そんな君彦の後を追いかけるように猫又はコンクリートの塀の上を小走りに駆けながら必死になって君彦に弁解している。
『だから聞けって言ってんだろ、君彦!
あれはお前の勘違いなんだって! このオレ様が涼子みたいな娘っ子に手ぇ出すと思ってんのか!?
涼子のヤツが頭からマタタビかぶって、酔っ払っちまったから介抱してただけだって!
おい、ちゃんと聞いてんのかよ君彦!』
しかし君彦は少々迷惑そうに猫又を一瞥すると、足早だった速度を更に早めて殆ど駆け足状態になっていた。
それはまるで自分を追い掛けて来る猫又から距離を離すような、このまま出来ることなら撒いてしまおうという考えがはっきりと見て取れたので、猫又もまたムッとした表情になるとだらしなく垂れ下がったお腹を左右に揺らしながら追いかける。
一向に自分から離れようとしない猫又に対し、君彦は堪らずその場で足を止めると塀の上にいる猫又を睨みつけるように見上げながら、声を荒らげた。
「お前何でオレについて来るんだよ!?
発情したメス猫達を追っ払うことが出来たんだから、もういいだろ!
いつもなら猫の発情期が来たら家で大人しくしてるクセに、どうして今日に限って一緒に学校に行こうとするんだよ?
普段より早く家を出たのに、お前を狙って追い掛けてきたメス猫にもみくちゃにされて、この通りだ。
お陰で遅刻しないように走ってでも学校に行かなくちゃいけないわ、お前を追い掛けて来るメス猫達に怯えなくちゃいけないわでこっちは迷惑してんだぞ!? お前こそそれわかってんのかよ!?
わかってんならさっき涼子さんにかくまってもらったように、猫目石に隠れているか家で大人しくしてろって!」
君彦の言うことはもっともであった、確かに今まで通りで行くならばメス猫達に追い掛け回されないように君彦のアパートに立て篭もって大人しくしていたか、涼子の居酒屋で時間を潰したりしていた所であった。
しかし今回に限ってはそうはいかない猫又なりの事情がある。
猫又も全く予想だにしなかった自身の猫神化、咄嗟のこととはいえそれで猫又が今まで蓄積していた神通力を殆ど使い果たしてしまったことが原因で、猫又の力はかなり弱っていたのだ。
それを教えたのは君彦の実の祖父である猫又征四郎、そして少しでも早く神通力を通常の段階まで戻すには君彦の側に居続けることが必要だと教えたのもまた征四郎であった。
猫又はその言葉に従い、こうして出来る限り君彦の側に付き添っていようとしていたのだ。
しかし普段から自由奔放、自由気儘、我儘放題で過ごしていた猫又が、今になって君彦の行く場所行く場所ぴったりとついて来ることに君彦は違和感を感じていたのである。
だが慶尚との一件があってから、猫又のことを邪険にしているわけではない。
それ所か普段気に留めることのなかった猫又のことを、あの一件以来気に掛けるようになった君彦はむしろ猫又がどこで何をしているのか、自分の目の届く所で確認することが出来るから逆に有り難く思っていた。
しかしこれまで互いに一定の距離感を保って過ごしてきたせいもあってか、いきなりべったりとした生活にすぐ慣れるはずもなく、君彦は猫又のだらしない行動の数々、そして目に余る怠惰な生活態度に少々苛立ちを感じ始めていたのである。
手のかかる子供を叱りつけるような日々、しかしそれで素直に言うことを聞いてくれるならまだしも相手はあの猫又だ。
口の達者な猫又は君彦が注意する度にのらりくらりとした返答をしたり、屁理屈で返したり、とにかくその度に今まで以上に喧嘩が絶えなかったのである。
そんな日々が毎日続けば、さすがに君彦にも限界が来る。
しかしそんな君彦の苦労など露知らず、猫又は反省するでもなく鼻歌を歌って上機嫌だったり、偉そうに命令してきたり、全くもって普段の猫又の態度とそう変わりなかったことに、君彦のストレスは更に溜まっていったのだ。
当然今も君彦は猫又に対して多少なりとも苛立ちを感じている、せっかく余裕を持って行動しているのにそれを崩すのが決まって猫又の不可解な行動であったり、はた迷惑なトラブルに君彦を巻き込んだりするせいだった。
今もこうして理由をつけて自分から遠ざけようと、猫又の自由にさせようと口出ししているのに猫又は言う事を聞いてくれない。
どうして自分にまとわりついてくるのか、どうして自分の苛立ちをわかってくれないのか。
そんな思いが何度も君彦の脳裏を巡っては消え巡っては消え、延々と繰り返しているのである。
なぜか自分に対してイライラしている君彦の態度に、猫又もまた苛立ちを隠せなかった。
どうして君彦はこんなにも口うるさいのだろう。自分は自分のペースで生活しているだけだ、それを君彦に指図されるいわれはない。ましてや自分は他の猫とは違う異質の存在、猫又だ。人間の言う事をはいはい聞く妖怪がいるわけがない。
(……ま、中には下僕みてぇにへーこらしてるワンコロもいるけどな)
ふと猫又は隣の部屋に越してきた犬神のことを思い出すが、自分に対して無利益な敵対心をむき出しにする犬神の顔を思い出すと胸が悪くなってきたのですぐに犬神の存在をまるごと削除しようと務める。
君彦の言う事もわからないではないが、何も事情を知らないくせに偉そうに言うなと言いたい自分の身にもなれと猫又は思っているが、それを決して口に出すことはなかった。
自分の力が弱まってると聞いたら、君彦は一体どうするだろうか?
そもそもあの猫又征四郎の孫とは言っても、霊媒の類には一切と言っていい程に関わりを持たなかった。
……否、猫又征四郎が君彦を悪霊と関わらせようとしなかったのだ。
そのせいもあって君彦は霊に関する知識はおろか、除霊や浄霊といった行為も一切経験したことがなかったのである。
だからこそ猫又の力が弱まってると聞いた君彦が一体どうするのか、知識がないだけに過剰な心配をさせてしまうだろうか。
それとも全く関係ないのに自分のせいだと罪悪感を抱いてしまうのか。
お人好しな君彦の思考を完全に把握することが出来ない猫又は、そんな面倒臭いことになる位なら君彦は何も知らない状態の方が幾分マシだとそう判断したので、未だに真実を打ち明けていなかったのである。
ましてや説明の中でボロを出して猫又征四郎の霊魂の存在を君彦に知られでもしたら大変なことになる、それだけは絶対に避けなければならないという思いもあったので、猫又はそれらを一括して「面倒臭い」と判断したのだ。
憎まれ口を叩くように猫又について来るなと、そう訴えてくる君彦に猫又は気怠そうな表情をわざと作って言葉を返した。
『オレがどこで何しようとお前に関係ねぇだろー。
大体君彦、お前ってばちょっと自意識過剰じゃねぇか?
オレは別にお前の後を追いかけてるわけじゃねぇ、こっちの方向に行きたいだけなんだよ!
なーんでこのオレ様がお前にベタベタしなくちゃなんねぇんだ、うぇ~~キモ! 気持ち悪っ!』
そう言って猫又は君彦の目の前でわざとらしく吐き気をもよおす仕草をする、それが演技だということは見てすぐにわかったからこそ猫又の憎たらしい言動の数々が余計君彦の神経を逆撫でしたようだ。
「はっ! お前、それでこのオレを騙し通せると思ってんのか!?
今の言葉が取ってつけたような嘘だなんて、とっくにわかってるんだぞ」
指をさし、塀の上の猫又を睨みつけながら不敵な笑みを作る君彦。
先程の猫又の言葉が白々しい嘘であることを見抜いた君彦は相当自信があるのか、それ以上怒鳴りつけるようなことはせずあくまで自分の方が上なんだと示すように、威厳ある態度で仁王立ちしていた。
そんな君彦の自信たっぷりな態度が気に食わなかったのか、猫又もまたムッとした表情に逆戻りすると威嚇するように両前足の爪を剥き出しにして、見上げる君彦に見せつけるような状態で鉤爪をちらつかせた。
君彦は猫又の鋭い爪に怯えることなく、低い笑い声をあげると猫又の言葉が嘘である理由を説明する。
「ふっふっふっ……、どうやらお前自身は全く気付いていないようだな。
お前があからさまな嘘を付く時、――――お前の二又の尻尾はくねくねと互いを螺旋状に絡ませる癖があるんだよ!」
そう、先程君彦が指さしていたのは猫又の二又の尻尾めがけてであった。
君彦に指摘され、猫又が自分の尻尾を確認すると猫又自身も無意識だったのか……。
言われたように二又の尻尾は螺旋状に巻き付いた状態で左右に揺れていたのだ、そうとは知らず猫又は君彦の指摘にそのまま動揺し、背中の毛が全て逆立つ程に驚いている様子であった。
正直なところ、君彦にそう指摘されたからと言ってそのまましらばっくれることも出来たはずだ。君彦がそう勘違いしているだけで、二又の尾を絡ませるのは自分のいつもの癖なんだと言い換えることも可能だったはず。
しかし普段からぼうっとしている君彦に指摘された驚きでしらを切ることを天然で忘れてしまった猫又の態度に、もはや修正はきかなかった。あまりの驚きように君彦の指摘が正確なものであると裏付けされてしまった為、君彦は勝利を確信した笑みを浮かべて猫又を睨めつける。そんな君彦の勝ち誇った顔を見て、猫又のはらわたは更に煮えくり返る思いであった。
完全に言い換える機会を失った猫又は悔しそうにあうあうと言葉に詰まった状態になっている、普段君彦よりも饒舌であった猫又にしてはとても珍しい光景だった。それ程今の自分の失敗は相当に恥ずかしかったことなのだろう。
しかしそんな猫又に追い打ちをかけることなく、君彦は勝ち誇った笑みから苦笑気味な笑みへと変わると肩を竦め、静かな口調で猫又に告げた。
「もういいよ、お前が行きたい所に行けばいいことなんだ。
それがたまたま学校方面だったとしても、お前の自由だもんな。
だったらこのまま一緒に行こう、さっきのメス猫達が戻って来ない内にさ」
それだけ言うと君彦は猫又の返事を聞かずにそのまま学校がある方向へと駆け足になった、そんな君彦を見て猫又は「あっ」と短く声を上げると憎まれ口を叩く暇すらなく、塀の上をとてとてと走って行った。