最終章 DEUS EX MACHINA
1
景色は一変した。
座り込む三つの亡骸に囲まれるように、僕は座り込んでいた。
でも、それ以上に変化したのはこの場所その物だ。
確かに入った筈のあの避難小屋はまるで初めから無かったかのように何もかも綺麗に消え、残っているのは僕と三体の亡骸だけ。
経年によりすでに生前の面影を無くしてしまった三体の木乃伊。
辛うじて残された服装だけが先程までの、そしてかつての面影を感じさせる。
山男。
占い師。
老教授。
今の今まで彼らの話を聞いていたのが幻だったと言うのだろうか。
三体の遺体には、一つ共通点があった。
何かが掴み出されたかのような抉られた胸元。そこに、拳大の水晶のように研磨された黒い縞瑪瑙が埋め込まれている。
大きさは若干差があるが、どれも恐ろしく巨大だ。売られている瑪瑙と言えばせいぜい掌の窪みに収まる程度の大きさなのが普通なのに、それは不気味なほど大きい。
サイズは老教授・占い師・山男の順番で小さくなっている。
その縞瑪瑙に刻まれた、共通の印。溝に金が埋められたかのような工芸品にも見えるけど、同時に縞瑪瑙に金色の触手が絡みついたかのような印象も受ける、そんな記号的ながらも吐き気を催す不気味な石。
「……黄色い……印」
『?』マークを三つ、丸の部分で重ね繋げた、見ようによっては手を広げた人型のようにも見える印。
それは、王の印。おぞましき使者が憐れな子羊に与える生贄の烙印。
まるで心臓の代わりに人の身体に埋められた巨大な瞳が、僕を見つめているようだ。
「Yellow sign……。名状し難きもの……カルコサの縞瑪瑙……仮初の……心臓」
よく見てみると、更に想像を拒否したくなるようなおぞましい事に気付いてしまう。
その縞瑪瑙は、ミイラ化した死骸を内側から盛り上げていた。
つまり、最近嵌め込まれたのではなく、乾燥して縮んで大きさが合わなくなった可能性がある。死後、あるいは生きたまま埋め込まれたのではないだろうか?
……あるいは……あるいは、まさか、この縞瑪瑙が時間と共に大きく膨らんで内側から食い破ろうとしているのか?
頭がくらくらする。気持ち悪くなってそれから目を逸らす。
九つの岩に囲まれただけの平地。
上から見ればVの字に見えるように置かれた立岩が並ぶ。
「……モノリス?」
一目見てそれらが一枚岩である事をなんとなく理解する。
異常はそれだけじゃない。
九つのモノリス岩に囲まれたこの場所は無風だが、その周囲はまるで壁のような嵐が吹き乱れている。
ここはちょうど台風の目。渦を巻く嵐の中心部だ。
……そんな馬鹿な現象があるのか。
肌を撫でる微風すら無いこの空間。
見上げれば夜空が星空を映している。
周囲は嵐なのに、空は晴れているのだ。
そして、それは見えた。
現在の時刻は不明。
しかし、これほどはっきりと、大きく見える筈がない。
知っている。山歩きと星座は縁が深い。
星は大気の影響で見易さが変わるから、排気ガスや排熱で空気が揺らぐ都会よりも山の方が観察しやすいからだ。
昔は山のキャンプでは星座を観るのが定番だったと聞いている。
僕だって黄道十二星座と季節の代表的な星座。北斗七星くらいは知識で押さえている。
しかし、それは余りにも異様な姿だった。
今、この夜空を支配しているのは一つの星座。
冬の星座、牡牛座が、その象徴である巨星アルデバランと共に僕の頭上に輝いている。
それは全天を覆うほど巨大で、遠近感が狂った有り得ない光景だった。
地球が突然太陽系の外に飛び出たとしても、縮尺がここまで変わるなんて起きえない。
冬は一番星の後に出るので『あと星』とも呼ばれるアルデバラン。
メソポタミア文明の時代から、或いはもっと遥か古代から、人々が見上げてきた赤い巨星。
目立つ星だが、ここまで大きく光るわけがない。
これは最早人智を超えた力が関わっているとしか思えない。
人智を超えた力?
否。
否。
断じて否!
そんな漠然とした、不明瞭な代物じゃない。
気の遠くなるような膨大な宇宙的距離を無視して、彼の神が、宇宙に吹き荒ぶ風の旧支配者が地球上に呼ばれようとしている。
九つのモノリス岩を忌むべき祭壇とし、黄衣の王に関わる証たる黄の印を持つ生贄を捧げ。
アルデバランの側にあると言う暗黒星の湖底に沈められた玉座より、邪悪の皇太子が招かれる。
「イア・イア・ハスタア!」
いつの間にか、V字に並べられた九つのモノリス岩の真ん中の岩の上に、人影があった。
その後ろには、まるで手が届くほど巨大なアルデバラン。
周囲に宝石のように散りばめられたヒアデス。
今にも降り堕ちてきそうなプレアデス。
そして、その中心として君臨する支配者の星。
周囲の光すら呑み込む歪みの中枢、名も無き暗黒星。
王の玉座カルコサ。
それは都市であり、
玉座であり、
侵略者であり、
星であり、
渦巻く魔風であり、
そして神そのものである。
2
モノリスの上に立つ者はフードが付いた黄色の衣を纏った人型だった。
だが、そのバランスはおかしい。
遠近感が狂ったこの世界で、尚それは四肢を持ちながらも人間の形ではなかった。
袖から突き出ているのは腕と呼ぶには余りにも滑稽な、細く巨大な五指だった。
五本指なのにまるで甲殻類の鉤爪だ。
白く泡立つ外殻に覆われた指が目いっぱい広げられている。
スイカどころか、軽自動車のタイヤも鷲掴みできそうだ。
裾から覗くのは、脚である。……おそらく、脚だったものである。
確かに二本脚だったであろうそれは、すでに脹脛から大木の根のように六つ股に割れて岩の上に貼り付いている。
腕と同じように白く泡立ちながらも、その泡が吸盤にも見えるせいか、どこか章魚の足のようなイメージが湧き上がる。
「……黄衣の僧」
占い師と老教授の言葉に出ていた存在が頭をよぎる。
確かに。
その姿は彼の神の化身、『黄衣の王』にも似る。
神に仕える神官たる正しき姿である。
「聖典の民は信じている。我らの祖たるアダムは神の似姿であり、我らもまた似姿なのであると。然り。我らは神の似姿である」
呪文は途切れ、人の発する音ならぬどうしようもなく耳障りなしゃがれ声の呟きが聴こえる。
「神? 神と言ったか?」
「然り。神に傅くは命持つ生物の運命。ようやくこの不完全な身を神の加護を受けるに相応しい器へと変える事ができた」
「哀れだな」
自然と口から言葉が零れる。
日本語ではない。どこか遠い国の、古い古い言葉。熱と砂の香りが鼻を刺すようだ。
「哀れと言ったか」
「言ったとも。その姿、『名状し難きもの』の加護を受けたな? 妖しき悪魔よりも狡猾で、慈悲深い天使よりも質が悪い、あの神の加護を受けたな! 最早彼の神の支配に抗う事も出来はしまい。いや、最初から抗う術など無い。お前の意識は『名状し難きもの』にすり替えられてしまったのだからな」
振り返り、身軽に地面に降り立つ黄衣の僧。
フードの下から覗く顔面は、一見蒼白の仮面を着けているかのようだった。
だが、それは間違いである。
それは仮面なのではなく、正しく皮膚そのもの、人の肉だった物だ。
まるで無数の白い蛆虫がごそごそと蠢くように泡立ち、気泡が吹き上がっては消え、吹き上がっては消えている。
見ようによっては白い海老蟹の凹凸ある甲羅のようでもある。
ぶくぶくと弾ける気泡が空ける穴は深淵に穿たれた穴のようであり、どこか苦悶の叫びを上げる人間の表情にも見える。
最早、人としての肉も骨も眼球も内臓も生殖器も、この男には何一つとして残っていないのだ。
髪の毛一本、爪の先まで神の祝福に侵された生贄の成れの果て。
これが、『名状し難きもの』の加護を受けた者が辿る姿の一つである。
「そうだとしても問題は無い。我が望みは真理への到達。それはあの日ダマスカスで君に出会い、千と三百年ほどの齢を重ねた今でも変わらぬ。大いなる神の身許で更なる精進を重ねるのみだ。私は君とは違う。嗚呼そうだ。君とは違うのだ」
「友よ! 君は逃げた! 中天の王、業痴の大神の御坐まで辿り着いた君が!」
「始まりは確かに不手際であった。君の遺した、偉大なる彼の真理の書。それに従い深い智慧を得る中で、幻夢郷に至る術を違えた。それからは逃げ続けなければならなかった。『名状し難きもの』の加護を得たが、それでもあの『番犬』は私を追う事を諦めなかった」
「より強い加護を得る為に、自分の身体を相応しい器に変えようとし続けた、か」
優秀な僧侶だった。
唐の国に生まれ、彼は当時主流である仏教と、古くから伝わる民間宗教である道教と、そして官僚の学問である儒学を若くして並列で修めるほどの俊英だった。
しかも、彼は長安に居ながらにして、多くの外国語に精通し、イスラームの主軸語であるアラビア語まで習得していた。
あの時代の彼の国に、彼ほどの才覚が他に存在しただろうか。
折しも玄奘三蔵法師がインドから大乗仏教に関わる多くの仏典を持ち帰り、漢訳されて唐の仏教は大いに盛り上がっていた。
天台・真言・浄土。多くの宗派が産まれ、中国仏教が最も情熱に沸いた時期だった。
彼はまだ見ぬ仏典に真理を求め唐を出奔し、シルクロードを旅して、ダマスカスまで辿り着く。
何と言う慧眼であっただろう。
すでに仏教始まりの地インドは再編されたヒンドゥー教に呑み込まれていた。
仏陀の聖地も、龍樹の地も、塗り潰されていた。
重要な仏典の殆どが、流通経路に流れていた。
つまり、シルクロードだ。
未知の仏典を求めるなら、この経路を辿るのが確率が高いのだ。
しかしそこで、彼は宇宙の真理を記した書物に出会ってしまった。
彼は、この世に生まれたばかりのそれを母国語である漢語に訳し、それを長安に持ち帰った。
そして、長安で彼は訳した経典の実践を始めた。
しかしその過程でしくじり、彼は神の加護で窮地を凌いだものの一か所に留まる事は出来なくなった。
そこで彼は闇を這いずりながら己の分身となる優秀な留学僧を選び、経典を写して彼の国に持ち帰らせた。彼を操り経典の研究を実践させようとしたのである。
だが、そこで誤算だったのはこの東の果ての島国から来た僧侶が優秀であり過ぎたが故に、経典を結界の中に封じ込めてしまった事だ。
そこから千年を超える時間を、彼は逃走と研究の実践、その繰り返しに費やした。
身体を変えた事で、『名状し難きもの』が支配する、宇宙を越えた場所にある大図書館に渡る事も出来た事も大きい。
そこで多くの叡智に触れ、彼はますます己の道を確信したのだろう。
最近になって企みが功を奏し、結界を弱める事ができたものの、その多くは炎の中に消え果てしまったが、それで終わるわけではなかった。
占い師は彼の使役する黄の者たちに捕まり、こうして人柱の一つに変えられた。
山男は宇宙を吹く風の神格『イタクァ』と縁を持ってしまったが故に。
老教授は禁断の知識を求めた結果、彼に認められてしまった。
本来『仮初の心臓』と言う呪法は、死体を守る為のものである。
しかし、『黄の印』と組み合わせる事により、死体をミイラ化させ、様々な儀式に使えるようになる。
九つのモノリスと、黄の印を埋め込まれたミイラ。
最早儀式の目的は明らかだ。
「然り。人の身体では宇宙には上がれぬ。黄金の蜂蜜酒を口に含まねば神の従僕たるビヤーキーにつかまる事も出来ぬ。人の身では、真理に至れぬのは道理。なるほど、これこそ正道たると腑に落ちたものよ」
哀れな事に、彼は気付かなかった。
自分の目的と、『名状し難きもの』の願いがずれているにも関わらず自らの中で混同混在している事に。
真理を修めるだけなら大図書館に居ればいい。
あそこは知の探究者にとっての最果ての楽園である。
だが、彼は、破滅も同然の儀式に憑りつかれた。
そこに己の自我は無く、ただただ『名状し難きもの』の操り人形として動くだけ。
この地上に降り立つと言う、彼の王の願いを叶えようとする下僕に過ぎない。
イア・イア・ハスタア! ウグ! ウグ! イア・ハスタア! クフアヤク・ブルグトム・ブグトラグルン・ブルグトム! アイ・アイ・ハスタア!
世界が鳴動するかのように、神を呼ぶ呪文が響き渡る。
それはモノリスが、星々が、王を迎える為に放つ言霊だ。
呼び声と共に天上を支配する暗黒星が徐々にその姿を変えていく。
百か、それとも千か。大小無数の触肢を花のように広げ、中央には歪に波打つ不定形の肉塊を備えている。
章魚か、それとも海月か、ヤドカリか、カブトガニか。
いずれのようでも有り、いずれとも異なる生物の物差しから懸け離れた有り得ざる姿。
その頭部の下にある真実の顔は、人の目には耐えられない邪悪な代物。
名状し難きもの、
黄衣の王、
ハスター、
あるいはハストゥール。
存在そのものが絶対的な、旧支配者と呼ばれる中でも最上位に位置する存在である。
「そして、最後の生贄が私か」
動けない僕に、黄衣の僧のおぞましい鉤爪のような五指がかかる。
この首は敢え無く折られてしまうだろう。
あるいは、すぐに死んだ方がずっとマシな思いをする事になるのか。
「そうだとも。君の辿り着いた叡智には未だに至れなかったが、代わりとなる呪法を、彼の大図書館で得た。幾つか試したが、一つ上手くいった。後は覚醒を促すだけであった。君ほど生贄に相応しい者は他にあるまい」
「余計な事をしたものだ」
僕の内なる恐怖とは裏腹に、口は勝手に言葉を続ける。
「……なに?」
「君は『デウス・エクス・マーキナー』を知っているかな?」
「ラテン語ではあるが元は古代ギリシャの演劇技法。麻の糸のように乱れた物語を神の介入によって決着させる。それが、何なのだ?」
「その通り。流石に博学だな。しかし確かに演劇用語だが、大元は『運命に介入する神』を指す古代エジプトの言葉からギリシャ語に訳された。元はとある神を指す言葉が、ギリシャでは演劇用語になり、ローマでその言葉に変わったわけだ。人類史ではよくある話だな。さて、君はその神の名を引き出せるかな?」
首にかかる指から震えを感じた。
怯えか、それとも本能か。
あの神の名を、彼が知らない筈がない。
真理への探究者なら、その名を聞いて身を竦ませない筈がない。
まして幻夢郷へ挑もうとしてしくじった者が、その名に恐怖を感じない筈がない。
「その神とは、遥か太古より闇に君臨する者。『カルネテルの黒き使者』。アトランティスよりエジプトに伝わり、歴史の闇に葬られたネフレン=カ王によってエジプト第三王朝期に崇められた、太陽を喰らう日食を示す暗黒の神!」
「何を言って」
「あれは待ちわびているぞ! 君の積み建てた哀れなバベルの塔を、至天に届く最高のその時に蹴り崩す事を! 君が幻夢郷で、『空を割る焔の舌』ムルボ=ラゼの忌々しい嗅覚に狙われたその時から、あののっぺらぼうの神は君に裁きを与えるその時を計っていたのだからな!」
その時、扉が開いた。
「全く、どうしてそうペラペラと台本をばらすのかしら? この大根役者」
壮絶な笑い顔を浮かべた黒乃ナイが、そこに居た。
3
何も無い筈の場所に扉があった。
いや、そこには確かに扉があったのだ。避難小屋の入口があった場所なのだ。
あった、と言うのも間違いで、今もある、が正しい。
黒乃ナイはそこから入って来たのだ。
いつもと同じ制服姿。
いつもと同じ髪。
いつもと同じ手足。
あの時間も空間も越えた夕暮れの教室からそのまま出てきたかのようだ。
すでにノイズは入らない。
僕の左目は、人ならざる彼女の姿を捉えていた。
それは単純な話ではない。
黄衣の僧によって造りだされた、ハスターを招く祭壇を置く亜空間に乗り込む、と言う事がどれほど大変なのか。
ここはすでに強大なる神ハスターの陣地だ。ここに直接乗り込むと言う事は、奉仕種族、眷属、いいや、生半可な神格ですら不可能だ。招かれざる者は入れない。それがこの場所の真実だ。
もっとも、黒乃ナイは生半可な存在ではない。力もさる事ながら、何よりもその存在が異質過ぎる。
「オオオオオオオオ! カオナシ、カオナシ神! なぜここに! なぜこの場所に! 名状し難きものの力が満ちるこの場所に!」
黄衣の僧が黒乃ナイに向かって吼える。
それは敵意ですらなかった。
超巨大な台風の到来に泣き叫ぶ幼子のようなもの。
天を割る轟雷に身を竦ませる動物の鳴き声。
神と言う規格外の天災を前に、喩え人の身を捨てて異形と成ろうと、所詮、人がどれほどの事ができよう。
獰猛な笑みを浮かべ、黒乃ナイが一歩、また一歩と祭壇に近寄って来る。
「私は幻夢郷の主、タウィル・アト=ウムルの使者にして、全ての人間の影を歩む者。私こそは這い寄る混沌ニャルラトホテプなれば、よ」
左目に映る彼女には貌が無い。
真っ黒の闇で、顔と言う部分が無いのだ。存在しないのだ。
「まして、ここに眼を持つハルキ君が居るのだもの。貴方だけなら無理だった。ルールで、私は入れない。でも、人間である彼がここに居れば、私は介入できる」
だから言った。余計な事をした、と。
「茶番はここで終わりよ。千数百年の逃亡劇も、全て台無しにしてあげるわ」
黒乃ナイが右手を天に掲げると同時に、うねる波動が異空間を消し飛ばす。
僕らは元の世界の宙に居た。眼下には避難小屋があり、僕らが宙に居る以外は異変らしいものを感じない。
天を見れば、あの狂ったアルデバランも無い。
吹き荒れていた筈の嵐は消え、夜空だけが広がっている。
黄衣の僧は何か呪文を唱えようとしている。
全てが御破算になった事を悟り、何処かに逃げようとしているのだろう。
這い寄る混沌がハスターの加護を受けしものに直接手を出す事は無い。
ここで逃げ切れば、まだ再起の目はあった。
だから、ニャルラトホテプは手を下さない。
「ビヤーキーでも呼ぶつもりかしら? でも、勘違いしないで。貴方を裁くのは私ではないわ。さあ、空を見なさい。『幻夢郷の番犬』がお待ちかねよ!」
黒乃ナイが指差した星空に、巨大な『井』の字型に亀裂が入った。
亀裂。空に、亀裂。
冗談のような、常識が砕ける光景。
「……逆さの鳥居」
見ようによっては、それは確かに逆さの鳥居に見える。
そして、中心の『口』の部分の空が抜け、澱んだ虹色がうねる禁忌の空間が空に現れる。
「うばばああああああああああああああああああああああああああああっ!」
そこから飛び出し伸びた、幾つにも分かれた炎形状の舌が、黄衣の僧を寸分違わず捉え、そのまま空の穴に連れ去っていく。
知っている。
あの舌のように見えるのは千か万ある触手の一本に過ぎず、本体は更に巨大な存在なのだ。
その姿は大小の歪な五本足と膨大な数の触手を蠢かせる三次元的な海星。
『一にして全なるもの』ヨグ=ソトースの落とし仔にしてドリームランドの番犬。
空間を超越し、加護無き不届き者に裁きを与えるもの。
黄衣の僧の断末魔は、人の出せる声ではなかった。
獲物を捕らえた舌が穴に引っ込むと、空から亀裂は綺麗に消え、元通りの星空に戻った。
「『空を割る焔の舌』ムルボ=ラゼ」
あれこそ老教授が追いかけていた存在だ。
もっとも、普通の人間では真実に辿り着けず、禁忌の道に踏み込まなくてはならなかった。
「さて、どれほどの年月を次元の狭間で過ごすのかしらね」
ムルボ=ラゼに連れ去られた者は、彼の者の触手に縛り付けられたままゆっくりと焼けるように消化され、幻夢郷の外殻、次元の狭間を漂う事になるのだ。
普通の人間ですら身体よりも先に精神が死ぬ異次元の旅路。
ハスターの加護を受け、半ば不老不死になった彼は、おそらく消化されない。喰われても再生する速度の方が早い筈だ。
すなわちそれは、無限の放浪刑と同義である。
常に喰われ続け、人の理解を越える異次元の中に彷徨い続けるのだ。
運が良ければ、ムルボ=ラゼが現実世界か幻夢郷に姿を現す時に脱出できるかもしれないが、それは果たしてどれほどの確率だろう。
自力で抜け出す事もできず、他力を求める事も不可能に近い。
永遠に、永久に、喰われ続ける。
僕と黒乃ナイは避難小屋の側の地面に降り立つ。
全て、何も起きていないようだった。
あの雨も嵐も、痕跡が無い。樹々には露も降りていない。
或いは、霧が吹いたその時から、僕は黄衣の僧の術中にいたのか。
全ては夢のようであり、しかし目の前の黒乃ナイの存在がそれを否定する。
「全て、デウス・エクス・マーキナーによって一件落着か。何て話だ」
「あら、終わったと思っているの?」
「……」
「終わらないわ。終わらせないわ。喜劇役者が舞台の上から消えたら、観客は飽きてしまうわ」
「ハスターは大丈夫なのか? あそこまで呼び出されて強制的に止めたんだろ?」
「さあ? 怒りでどこかの小惑星が吹き飛んだかもしれないし、その破片でどこかの星が滅びるかもしれないけれど、私は知らないわ」
淡々と黒乃ナイは言葉を紡ぐ。
「また学校で会いましょう」
最早隠す気も無いのか、黒乃ナイは森の中に溶け込むように消えていった。
僕は夜明けまで、そこに居る事にした。
残された亡骸について警察に相談しなければならなかったからだ。
何故なら、これからもこの山を楽しむためにも、この小屋を早く使えるようにして貰わないと困るから、と言うのが理由だったりする。
これから先、どれだけの時間が残されているのかは、考えに入れないのだけれど。