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「茜? どうした?」
小首をかしげて顔を覗き込んでくる遼平は眉を寄せている。
染めているわけではない天然の少し薄い色素をした髪が視界に入り、茜ははっとした。
「な、なんでもないよ」
「休み時間になるたびにぼーっとしてるけど」
「なんでもないから、本当」
ますます眉を寄せていく遼平に慌てて首を振る。
幼なじみである彼は、物心ついたときからすでに一緒だった菊乃ほどではないにしろ、小さなころから一緒だった。それゆえか、茜のちいさな反応ですら見逃さない。
否定してもまだ納得しきれていないのか、遼平はふっと息を吐く。
「悩み事ならいつでも聞くから。遠慮なく言えよ」
「……うん、ありがとう」
茜が頷いたのと同時に、六限目の授業始まりのチャイムが鳴る。自分の席に向かう遼平の後姿を見つめて、茜は視線を落とした。
教室のドアを開けた教師はいまだざわついている生徒に声を張り上げる。
「席に着けー!」
「先生ー。今日は自習がいいでーす!」
「だめだ。テスト範囲まだ終ってないんだ」
「テストまでまだ一ヶ月もあるじゃないですかー!!」
「そうだな、あるんだ。だからまだ終ってないって言ってるだろ」
「じゃあそれ縮めてください!!」
「却下」
男子生徒らの言葉をばっさり切った、おそらく三十代であろう社会科の男教師はさっそく教科書をめくっている。不満の声が上がる中、またもや彼がそれらを一蹴した。
社会は覚えることがたくさんある暗記の科目である。どうせ覚えるのならその数を減らして欲しいと切に願う生徒とは違い、教師はなんとか定められた範囲のものをテストまでにどう終らすかに奮起しているのだ。
一学期の中間テストで悪い結果が残れば、それは後々に大きく影響される。採点され渡された答案用紙を見て青ざめる――そんな未来が簡単に予想され、生徒らはなんとかテスト範囲だけでも縮めてくれと教師に懇願するも跳ね除けられていた。
茜はそんな教室の光景をぼんやりと見渡して、平和だなと思う。
鬼が存在する世界なのだと思えないほど、ごくありふれた平穏な毎日。
守られた空間に収まっているだけであると知らない生徒たちはそのことに疑問すら覚えておらず、そのほうがいいのだと茜は感じた。
「鬼なんて、言われても本気にしないしね」
蒼羽は今も茜の部屋にいる。行く所がないのだと言った蒼羽に、余っているもうひとつの部屋をあてがったのだ。
一緒に朝食をとり、見送られて学校へ行く。そして寮へ帰り夕食を共に食べる。どこかおかしな毎日はあれから一週間が経ち、一つ屋根の下で男の子と一緒に寝起きを共にしているのは抵抗があったが少しずつ慣れ始めていた。
しかしそれよりも女子寮で、それも同じ部屋に住んでいることはまだ知られていないが、もし知られれば間違いなく寮長がすっ飛んでくる。個室があるとはいえ女子寮に男子がいること自体が問題なのだ。
だから茜は決してばれないように注意しながら日々を送っている。
少しの間だけだったが、広々とした寮の部屋をどこか寂しく感じながら暮らしていたそこに加わったもう一人の存在は、ここに来る前までの生活を思い出させた。
「……おばあちゃん」
一緒に暮らしていたただ一人の肉親が脳裏を過ぎる。
茜は幼い頃両親に先立たれ、その後は母方の祖母と暮らしていた。父は元々この村出身ではなく、実家もここからはかなり遠い場所にあるのだ。
母の父であり茜の祖父は両親が亡くなる数年前に他界していた。
祖母の家で暮らす毎日は温かく、よく面倒を見てくれていた祖母と寮に住むことで離れ離れになることに茜は躊躇した。それでも祖母は笑顔で見送ってくれ、茜は心配しつつ寮から定期的に連絡は取っている。
「おばあちゃんも、隠してたのかな」
鬼のことも、半鬼のことも――そしておそらく、知っていたであろう自分の鬼に関わることも。
蒼羽に話を聞いた時は混乱していたが、鬼が出てくる時点でもう常識は通用しないのだ。今更何があったとしても、驚くことではないのだろう。
「……それはそれで、あんまりいいことじゃないけど」
ぽつりと呟いて、茜はため息をついた。
そしてゆっくりと雲が流れていく空を見つめ、今日の晩ご飯は何にしようかと思いをはせた。
すべての授業が終わった後突入したHRで、即席で作られた代表者の男子生徒が黒板の前で声を張りあげた。
「今から各委員を決めます」
黒板に向かっているもう一人の男子生徒が白いチョークで各委員会の名前を書き連ねていく。クラスの代表である委員長から始まり副委員長、図書委員や美化委員と続く。
「ひとり一回だけ手を挙げてください。複数いた場合はじゃんけんで!」
男子生徒が次々と委員会の名をあげていく。その中には文化祭実行委員などの期間限定の委員などもあり、お祭りごとや目立ちたがり屋の人らが揃って手をあげた。
こういった行事は進んでやってくれる人の方がありがたく、教室の隅で行われるじゃんけん大会を横目に他の生徒は比較的やることが少ないのを選ぶ。
すべてのことを即席で作った代表者に丸投げした担任教師は余った椅子に腰掛けている。仕事をする気がないのかと、さわぐ生徒らから視線を外した男子生徒は恨むように教師を睨みつけていた。
茜はなんとか図書委員を死守し、教室のあちこちで白熱なじゃんけんが繰り広げられているのを見てほっと胸を撫で下ろす。
負ければ確実に弾き出され、残っている委員――特に誰も手の挙がらなかった学級委員長の座を決める争いに加わらなければならない。
学生にかかればこんな些細なことでもかなり重要な争いとなるのだ。
「もー、なんとか勝てたよ~。ここで負けて学級委員長になるなんて嫌だもん」
人の輪から出てきたぐったりとした菊乃に苦笑する。
「お疲れ。やっぱり人気あるよね、教科担当」
「本当。何人抜きしたかわかんないくらい」
委員には限りがあり、クラス全員に役割を与えるとなると当然足りなくなる。そこで教科担当で各ひとりから二人分の枠を増やすのだ。
基本担当の教師が何も行ってこない限り仕事のない楽な係りである。それゆえ人気もあり、菊乃は苑中でなんとか勝ち上がった。
「よ、どうだった? 二人とも」
「あたしは教科担当――国語担当で、茜は図書委員。あんたは?」
男子の群がる輪から遼平が近づいてくる。今もまだじゃんけんのかけ声は聞こえて来、時々悲鳴のような叫び声や思わずガッツポーズをしたのであろう声まで聞こえてきた。
遼平は菊乃の問いに苦く笑う。
「俺は保健委員。人気少ないかと思ってたけど、意外といてびびった」
「保健委員? あんた、そういうの好きだよねー」
「細かい作業は別に得意じゃないけど、好きだからいいんだよ」
中学の頃から保健委員などの委員を積極的にやっていた遼平である。普通なら皆が嫌がるだろう細かな仕事も、得意ではないものの不器用でもないが遼平はやってのけるのだ。
「それより茜、放課後委員会あるってさ」
「……え、今日?」
まさか今日集まるなどとは思ってもみなかった茜は目を瞬いた。
それにできれば今日は早く帰りたかったのだ。寮の自室にいる蒼羽のことが気がかりで、一応スペアキーは渡してあるもののあそこは女子寮である。
寮に住む女子生徒に思わず見られてしまったら――そっちの方向でも心配だった。
男子寮にでも入れさせてもらえればいいのだろうが、そうはいかない。遼平に頼むとしても事情を話さなくてはならず、それに彼には同室の子もいるのだ。
「終る時間わかる?」
「いや、そこまでは。たぶん委員会によって違うと思うし……なんか用事か? 昨日も様子変だったし、やっぱりなんかあんのか? おばあさんのこととか」
「う、ううん。……おばあちゃんは結構連絡取ってるし大丈夫だよ。帰ろうと思えば帰れるから」
いきなり祖母と離れて暮らすことになった茜が、ひとり残してきた祖母のことを心配していると思っていたのだろう。
もちろんそのことも心配だったが、茜はそろりと教室の壁にかけてある時計を見る。
今から委員会が始まったとしても、最低三十分から一時間はかかるだろう。そうなれば帰るのはすっかり空が赤く染まる時間だ。
特に学校に長居せず、部活にも入っていない茜は学校が終ればほとんどすぐに帰っていた。その帰りが突然一時間以上も遅れれば、蒼羽は心配するだろうか。
祖母と暮らしていたときも心配をかけまいと寄り道をせずに帰るのが習慣となっていたのである。それは自分の住む部屋に加わった同居人も然り。
「……電話、しとこうかな」
寮の部屋には各固定電話がある。リビングに置かれたそれは使ったことがなかったが、一応にと携帯電話に番号は登録してあった。
蒼羽は外に出ることはなく、常に部屋の中で過ごしているので電話には出るだろう。
そう思って茜は時計から視線を外すと、いつのかにかざわついていた教室は静かになりつつあった。あちことで行われていたじゃんけん大会もなくなり、黒板にはそれぞれの名前が書き連ねてある。
「茜! 私も図書委員だから、よろしくね」
すべての役員が決まったところで解散という声が響く。
茜は軽く肩を叩かれ、肩越しに振り返ると見知った女子生徒がいた。
もうすぐ委員会が始まるという少女の言葉に頷くと、菊乃はすでににこやかに手を振っているがその隣に佇む遼平は軽く眉を寄せているのが視界に映る。
心配してくれていたのに何も言うことができなかった。
全部を話せれば楽なのだろうが、そういうわけにもいかない。
ごめんと心の中で謝罪し、すでに教室を出て茜の名を呼ぶ少女に駆け寄った。
――図書委員会が行われたのは、案の定図書室であった。
独特の本の匂いが漂い、それでいて綺麗な内装の図書室で図書館司書の女性が各コーナーを説明しながら歩く。
図書委員の仕事は昼休みや放課後、カウンターに座って本の貸し借りをするだけである。後は返却された本を元の場所に戻すだけ。
カウンターにいさえすれば、貸し借りをする時以外は本を読んでいてもいいという比較的楽な仕事だった。
茜は本棚に並べてある背表紙を眺め、思わずちいさな声を漏らす。
「これ……」
中学校にいたとき、好きだった本があった。卒業間近に図書室に入れられたそれは最後まで読めず、茜は肩を落としたのを覚えている。
それがこんなところで出会うとは。
一番最初はこれを借りよう、と茜は頷き再び司書の声に耳を傾けた。




