●第8話「知らぬ間に夜は更けて」
心穏やかではいられない言葉を残して、イヌはいなくなってしまった。
(毎回毎回、最後に嫌なこと言うのはあの人の趣味なの?)
苦々しい思いを抱えながら、一人で歩き出す。
「……お礼、言いそびれちゃったじゃない」
廊下に響く足音が一人分なことが、ほんの少しだけ寂しく感じたのはきっと気のせい。
ここは東館二階の廊下。見覚えのある並びだ。前にはウイの部屋と温室、背後には先ほど迷い込んだ回廊があるはずだが、振り向く気にはなれない。
窓の外に目をやったとき、思わず息を呑んだ。
迷いの回廊にいたのは長くても一、二時間だと思っていたのに、外はすっかり夜に沈んでいたのだ。
(今、何時……?)
この場所は色々とおかしいが、不思議なことに時間だけは正確に進んでいるようだった。けれど私は時計を持っていない。時間を知るには、誰かの部屋に入るしかない。
少し考えた末、私はウイの部屋に向かうことにした。
「──なに、これ?」
部屋の前一帯がびしゃびしゃに濡れていた。敷かれたカーペットが水をたっぷり含み、じわじわと広がっている。
原因を探すと、廊下に一本のホースが投げ出されていた。
先は温室へと繋がっており、今もなお、水が絶え間なく流れ出している。
「コハクはこんなことやらないだろうから……トウマのイタズラ?」
うん、十分あり得る。呆れながら私は水を出しっぱなしのホースの先を持って温室へ向かった。
濡れたカーペットは足音を吸収して私の靴を濡らす。 歩くたびに水が跳ねて足首やふくらはぎを濡らし、不快だった。
しかも水は赤茶色に濁っていて、綺麗な水ではないようだった。
温室のドアは開きっぱなしで、私はホースの先を辿る。案の定ホースは温室の水道に繋がっていて、蛇口を締めるとようやく静かになった。
「よく分からないイタズラね」
トウマはたまにこんな悪戯を仕掛ける。隠れて突然驚かせたり、サンドイッチの中身をすり替えたりと些細なものばかりだ。
だが、今回はちょっと違う。こんなイタズラは初めてだ。
(ここを誰も通らなかったらどうするつもりだったのかな)
考えても答えは本人に聞かなければ分からない。私はホースを蛇口の横に置き、温室を後にした。
ウイの部屋へ戻るにはまた水浸しの廊下を歩かなければならないのが面倒だが、仕方ない。
戻ってみると、ウイの部屋は既に他の閉ざされた部屋と同じで、扉は壁と一体化してしまっていた。
ウイの部屋に入れなかった私は落胆したまま、今度は一階にある広間へと向かった。
廊下を濡れたまま進むと、やがて広間の明かりが見えた。昼間とは違って薄暗く、人の気配が濃く漂っている。足音は吸われ、湿ったカーペットが靴底をじっと受け止める。
扉を開けると、中では小さな騒ぎが起こっていた。人々が散らばるように立ち、その中心には長椅子が一つ。そこにはシュウが肘掛けに寄りかかって眠っている。周囲は大声で話しているが、一向に起きないところを見ると、深い眠りに落ちているのが分かった。
「またやったんじゃねえのか?」
「寝てるだけよ。色々あったんだから疲れてるだけでしょ。すぐ疑うのは良くないわ」
「うーん、これ以上何を証明したらいいやら……」
雰囲気はよくない。中に入ることをためらったが、どこにも行けないので意を決して輪の中へ踏み込む。
「何の話をしているの?」
中にいた面々が一斉にこちらへ視線を向ける。その視線が、ここに来た当初の記憶を微かに呼び戻した。今いるのはエンジュ、コハク、トウマ、イブキ、そして眠るシュウの五人だ。
「大したことじゃないの。またイブキがコハクに突っかかってただけ」
「大したことじゃないだと? 明らかにおかしいだろうが」
イブキは食ってかかるように言い、鋭い眼光でコハクを睨んでいた。敵意は隠そうとしていない。
「困ったな……本当に何もしてないんだけど」
「コハクくん、イブキにとことん嫌われてるよねー」
トウマは軽口を叩き、コハクは困ったように苦笑いした。
「イブキ、何がおかしいの」
「あ?」
不機嫌そうな返事。だが、声をかけた私だと気づくと、イブキはこっちを向いて眉間にさらに深い皺を刻んだ。数秒の沈黙のあと、重く口を開す。
「このチビがさ、お茶飲んだら急に寝ちまったんだよ」
「……それだけ?」
「それだけじゃねぇ。それだけじゃねぇ、が……」
私は次の言葉を待ったが、イブキはそれ以上は喋らず、コハクを睨みつけたまま口元をへの字にした。長椅子の前の小さな丸テーブルには、シュウが飲んでいたであろうカップがひとつ置かれている。
「飲んでそんなにすぐ寝ちゃったの?」
「そうね……十分くらい話してて、うとうとし始めたかと思ったら、あっという間に眠っちゃったわ」
「そういえば、ミヤに呼ばれたって言ってたけど、結局何の用だったの?」
「え?」
身に覚えのない話に、私は思わず目を瞬いた。
「私、呼んでないけど……」
その言葉が、広間の空気を一瞬だけ凍らせた。




