●◆第2話「知らなければいけない」
「その水筒、僕が調べようか」
静かにそう申し出たのはチハヤだった。
いつの間にか傍らに来ていた彼は白手袋を静かにはめながら、コハクが差し出した水筒に視線を向けている。
「先生、そんなことも出来んの? マジで万能かよ~」
トウマが驚いたように目を見開いて、半分冗談のように感嘆の声を漏らす。
「伊達に長く生きてないからね。流石に専門的なことは無理だけど、簡単な確認くらいなら出来るよ」
チハヤはそう返しながら、淡々とした手付きで手袋の指を整える。その所作には迷いがなく、なんだか本当に慣れた調査官みたいに見えた。
「毒を扱えるってことは、単純に容疑者が一人増えたってことじゃねーの?」
不意にイブキがぼそりと呟くと、エンジュが小さく眉をひそめる。
「ちょっと。調べてくれるって言ってる人にそんな言い方はないでしょう?」
だが、チハヤはその非難に対しても穏やかに首を振った。
「いえ、それは別に……本当のことですから構いません。ただ──」
チハヤは手元の水筒に目を落とし、さらりと言葉を継ぐ。
「調べた結果そのものまで疑われてしまうと、少し困ってしまいますね。調査をする意味合いが薄れてしまいますから」
「だったら、最初から僕が調べる意味もないよね」──そんな風に、チハヤは遠回しに伝えていた。
「完全に信じることは出来ねぇ。だが──参考くらいにはなるだろ」
イブキは肩をすくめてそう言うと、コハクが差し出していた水筒を荒い動作で受け取りそのまま無造作にチハヤへと渡した。
「ええ、ではイブキさんの参考になるように精々頑張ってみますよ」
チハヤは差し出された水筒を丁寧に手に取ると、一呼吸おいてからキャップに指をかけ、慎重な手付きでくるりと回した。
その動きには一切の無駄がなく、まるで繊細なガラス細工でも扱うかのような慎重さがあった。
キャップが外れる微かな音のあと、彼は水筒の中を静かに覗き込む。その横顔はどこまでも真剣で、普段の淡々とした“先生”の顔とはまるで別人のように見えた。
しばしの沈黙ののち、チハヤが静かに口を開く。
「……中に、何か沈殿物が見えますが……これは?」
眉をひそめつつ、水筒の底に視線を落とす彼の声には、かすかな疑念がにじんでいた。
「あ、それは……茶こしが壊れてたせいで、茶葉が混ざってしまったんだよ」
少しだけ間を置いて、コハクが苦笑まじりに答える。
昨日の夜、確かにそんなことを言っていた気がする。茶葉がざらつくお茶。あの舌触りを思い出すと、なんとも言えない不安が胸にじわりと広がる。
「それの中に毒草でも混じってたんじゃねーのか?」
と、明らかに疑っている口調で口を挟んだのはやはりイブキだった。
鋭く水筒を見つめるその視線は少しでも異変を見逃さないと確かに語っていた。
「アンタ、すぐ疑うのやめなさいよ!」
すかさずエンジュが眉を吊り上げて言い返す。
だが、その声にもどこか焦りのような、私と同じで現実を直視したくないという感情が滲んでいた。
この場にいる誰もが、少しずつ“本当にあり得るかもしれない可能性”に足を踏み入れ始めていた。
「……流石にこの場では確認できませんので、少し時間をいただけますか」
静かに告げられたその声には、焦りも迷いもなかった。
むしろ、それが“本業”かと錯覚するほどの落ち着きがあった。
「こっちもそんなすぐ分かるとは思ってねーよ」
すぐさま応じたのはイブキだった。
荒い口調とは裏腹に、なんだかんだ言っていても彼の声音にはどこか信頼のような響きが混ざっているように思えた。
そんな空気をやや軽くするように、トウマが割って入る。
「でも、これで毒が検出されなかったら……やっぱ仮面が割れたせいってことになるのかなー?」
彼なりの不安を隠そうとした軽口だったのかもしれない。
しかしその問いにイブキはすぐに首を横に振る。
「いや、それは断定できねぇ」
と、そのまま言葉を継ぐ。
「毒ってのはな、食器とかスプーンとか、カップの内側に塗っときゃ水に全部は溶けきらねぇこともあるらしいぜ。昔、そういう話を読んだことがある。だったら残ってんのは水筒じゃなくて、使った食器のほうかもしれねぇだろ」
「そんな……推理小説じゃないのよ?」
思わずエンジュが困惑したように声を漏らす。
けれどその小さな言葉もイブキは即座に打ち消した。
「可能性が少しでもあるなら、一個ずつ潰してくべきだろーが」
「俺もそう思うよ。だから、全部調べてもらおう」
そう言って同意を示したのは、他でもない疑われているコハクだった。
静かだが迷いのないその言葉に、皆が顔を見合わせる。
やがて、ウイや私たちが昨夜使用した食器を確認するため、一同は食堂へ向かうこととなった。
私もそれに続こうとしたが、ふと、足を止めて振り返る。
ちょうど、エンジュが部屋の扉に手をかけたところだった。
──視線の先には、まだベッドの上で眠るように横たわるウイの姿。
(ウイ……)
本当に死んでしまったのか。
その現実がじわじわと胸に沁み込んでくるにつれ、耐え難いものとなってくる。
(なんで……どうしてウイは死んでしまったの?
私は隣にいたのに。すぐ傍にいたのに。どうして気づけなかったの……?)
問いは、責めるように何度も頭の中を巡った。
けれど、その中でふいに一つの思いが浮かぶ。
(……知りたい。違う。私は──“知らなければいけない”んだ)
どうしてウイが、こんな悲しい形で失われてしまったのか。
理由も分からないまま、ただ時間だけが過ぎていくなんてそんなのは耐えられない。
「行きましょう、ミヤ」
そっと背に手を添えたエンジュの声に、私はようやく目を逸らし、小さく頷いた。
「……うん」
そのままエンジュに肩を支えられながら、ゆっくりと歩き出す。
後ろ髪は引かれるけれど、今度は振り返らなかった。
最後に閉ざされた扉が、静かな音を立てて私達とウイとの空間を完全に分断した。




