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星写しの町編 95話 北岸反照塔

リシアたちは、夜の水鏡書庫で星観測者の写し記録へ向き合った。

オルマは、答えを探すのではなく、読んではいけない境目を探せと告げる。

記録には、A・R、未唱声保留、星片、本体より離脱、保持者未確定という言葉が残っていた。

さらに、境目標として「返すな」「待て」「読むな」の三語が残されていたことも分かる。

リシアは封書に似た記録を見た時、アイシャの筆跡かもしれない文字へ引き寄せられかける。

だが、シルとルティアが止めた。

読めなかったのではなく、読まないと選ぶ。

その違いを確かめた後、水鏡は北岸反照塔と、外れた境目札を映した。

最後に浮かんだ言葉は、「読ませるな」だった。


 朝の湖は、夜よりもずっと優しい顔をしていた。


 薄い霧が水面を撫で、空の青はまだ浅い。町の屋根に朝日が触れると、窓辺に吊るされた丸鏡が小さく光を返して、ミレネの水路へきらきらと落ちていく。


 けれど、リシアはその光をまっすぐ綺麗だとは思えなかった。


 昨夜、水鏡に映った自分の顔が、まだ胸の奥に残っている。


 知りたい顔。


 誰かの筆跡を、アイシャのものだと思いたがっていた顔。


 あの顔を見てしまった後では、水面に映る光さえ、何かを隠しているように感じてしまう。


 シルはリシアの肩の上で、ネリオからもらった焼き菓子の包みを抱えていた。


 昨日の夜は食べなかった。


 水鏡書庫の中では鳴らさない、と決めたらしい。


 今朝もまだ食べていない。


 湖沿いの朝風を受けながら、彼は包みを何度も確認している。


「今日こそ食べる?」


 リシアが小声で尋ねると、シルは一度だけ湖を見た。


 それから、首を横に振る。


 ちい。


 まだ。


 そう聞こえた。


「鳴る場所を選ぶんだね」


 シルは真剣に頷いた。


 焼き菓子ひとつにも、置く場所と鳴らす場所がある。


 それが今のシルの中では、大事な決まりになっているのだろう。


 水鏡書庫の前には、ルティアとオルマがすでに立っていた。


 ルティアは青い作業着の上から薄手の外套を羽織り、腰に小さな道具袋を下げている。中には境目札を固定する針金、青水耐紙、短い測り糸が入っているらしい。


 オルマは杖を持っていた。


 片眼鏡は昨夜よりも厚いものに替えている。


 反照塔の水鏡を見るためのものだろう。


 その表情は静かだが、心の奥に硬い音がある。


『もう、読み手を水に渡すな』


 リシアは、その心歌を聞き取った。


 けれど、何も言わなかった。


 オルマのそれは、今さら言葉にしなくても彼自身がよく知っている誓いだった。


「行くぞ」


 オルマが短く言う。


 ルティアが頷き、リシアも続いた。


 その時、書庫脇の小道から小さな足音がした。


 ニトだった。


 配達鞄を肩にかけ、息を切らしている。


「待ってください」


「ニト」


 ルティアの声が少し厳しくなる。


「今日は書庫番の手伝いはないはずよ」


「分かってます。でも、北岸へ行くなら……ぼく、道を知ってます」


「湖沿いの道なら私たちも知っている」


 オルマが言うと、ニトは唇を噛んだ。


 リシアの耳に、細い心歌が触れる。


『また置いていかれる』


『見たのは、僕なのに』


『怖いのに、知らないまま待つ方がもっと怖い』


 リシアはニトを見る。


 昨日、彼は言いにくかった目撃を話してくれた。


 薄い青の人影。


 返すな。


 それを見たのはニトだ。


 この件に関わらせない方が安全かもしれない。


 けれど、何も知らせずに遠ざければ、彼の中に「自分が見たもの」を抱えたまま、不安だけが残る。


 リシアは少し考えた。


「ニトくん。反照塔の中には入れません」


 ニトの顔が強張る。


「でも、塔の近くまで案内してもらえますか。そこから先は、危なくなったらすぐ離れること。ルティアさんかオルマさんが止めたら、必ず止まること」


 ルティアがリシアを見る。


「リシアさん」


「何も見なかったことにして待つのは、たぶん余計に怖いと思います」


 ニトは大きく頷いた。


「止まります。走りません。勝手に塔へ入りません」


 早口だった。


 怖いのを隠すような声。


 オルマはしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。


「塔の外までだ」


「はい!」


「そして、見たものをすぐ意味にするな」


「……はい」


 ニトは少し遅れて頷いた。


 その返事に、シルがなぜか満足そうに胸を張る。


 まるで、よく分かっている、と言いたげだった。


 北岸へは、小舟で渡ることになった。


 ミレネの町から北へ伸びる水路を抜け、湖の縁をなぞるように進む。


 櫂が水を押すたび、朝の湖に丸い波紋が広がった。


 舟を漕ぐのはルティアだった。


 手慣れた動きで、ほとんど音を立てない。


 ニトは舟の前方に座り、落ち着きなく水面を見ている。


 彼の心歌が、時々こぼれる。


『また映ったらどうしよう』


『でも、見なかったらもっと怖い』


『あの人影、僕を見ていたのかな』


 リシアは深く聞かないよう、湖面へ視線を移した。


 水は静かだ。


 けれど、その静けさの下には、昨日の言葉が沈んでいる。


 返すな。


 待て。


 読むな。


 読ませるな。


 声に出せば、また水が揺れる気がして、リシアは黙っていた。


 しばらく進むと、北岸の霧の中に小さな白い塔が見えてきた。


 高くはない。


 二階建ての家より少し上に伸びる程度の塔だ。


 けれど、湖へ突き出した白い岩の上に立っているため、実際よりも遠く、孤独に見える。


 塔の上部には丸い水鏡がはめ込まれていた。


 朝日を受けるその鏡は、鏡というより水を固めた窓のようだった。


 近づくにつれて、リシアの歌詞帳がわずかに震え始める。


 強い反応ではない。


 だが、白紙の奥で細い水色の線が揺れているような感覚がある。


 シルは肩の上で身を低くした。


 焼き菓子の包みは、すでにリシアの鞄の奥へ避難させている。


 今朝のシルは、とても用心深い。


「ここからは歩く」


 オルマが言った。


 舟を岩場に寄せ、全員が降りる。


 足元の石は濡れていた。


 湖の水が細かく跳ね、白い岩の表面を薄く濡らしている。滑りやすそうだった。


 シルがリシアの肩で、嫌そうに前足を握る。


「落ちないようにするから」


 ちい。


 絶対に。


 そう言っているようだった。


 ニトは塔の外周を指差した。


「あそこです。昨日、水面に人影が見えたのは」


 塔の足元、湖に面した浅い水たまりのような場所。


 周囲には青水耐紙の破片がいくつか引っかかっていた。


 ルティアがすぐに近づき、膝をつく。


「境目札の欠片です」


 彼女は一枚を拾い、指先で確かめた。


「外れたというより……切られています」


「自然に剥がれたのではないのか」


 オルマの声が低くなる。


「違います。切り口がきれいすぎる」


 リシアは欠片を見た。


 薄青の紙の端が、鋭く斜めに切れている。


 誰かが刃物で切った。


 あるいは、細い術式で裂いた。


 リシアの耳に、塔からかすかな残響のようなものが届いた。


 心歌ではない。


 けれど、人の手が残した意図に近い。


『読ませるな』


『でも、読ませなければ、見つからない』


 矛盾した二つの音。


 リシアは眉を寄せる。


「誰かが、境目札を外した。でも、警告も残した」


 ルティアが言う。


「止めたいのか、進ませたいのか、分かりませんね」


「どちらも、かもしれません」


 リシアは塔を見上げた。


「読ませたくないものがある。でも、読まなければ気づけないこともある。だから、境目だけ残そうとした」


「境目を切っておいて?」


 ルティアの声には少し怒りが混じっていた。


 リシアは頷くことも首を振ることもできなかった。


 そこまで分かるほど、まだ聞こえていない。


 オルマは杖で塔の入口を示す。


「中へ入る。ニトはここで待て」


 ニトは一瞬だけ何か言いかけたが、自分で唇を閉じた。


「はい」


 その声は震えていた。


 リシアの耳に、心歌がかすめる。


『ちゃんと待てたら、悪くないかな』


 リシアはニトの前にしゃがみ、目線を合わせた。


「待つのも、手伝いです」


「……本当に?」


「はい。私たちが戻る場所を持つために、ここにいてください」


 ニトは小さく頷いた。


「分かりました」


 シルが肩の上で、ちい、と鳴く。


 それは、なぜか偉そうな承認に聞こえた。


 塔の中は暗かった。


 外から見たよりも狭い。


 丸い壁に沿って細い階段が上へ続いている。壁には境目札を貼るための浅い溝がいくつもあり、そのうちいくつかが空になっていた。


 青い札の跡だけが、湿った輪郭として残っている。


 空気は水の匂いがした。


 湖に囲まれているから当然なのだろうが、それだけではない。


 呼吸するたび、喉の奥に冷たい水が触れるような感覚がある。


 塔そのものが、何かを映すために息を潜めている。


 ルティアが壁の溝を調べる。


「下層の境目札は三枚欠落。二枚は切断。一枚は裏返しになっています」


「裏返し?」


 リシアが聞き返すと、ルティアは一枚の札を指した。


 青水耐紙が溝に挟まっている。


 だが、文字の面が壁側を向いていた。


「境目札は文字の面を水鏡側へ向けないと働きません」


「誰かが間違えた?」


「写し守なら間違えません」


 ルティアの声は硬かった。


「これは、意図的です」


 オルマは壁に近づき、札の裏側を片眼鏡で見た。


「裏に何か書かれている」


 ルティアが慎重に札を外す。


 表にはいつもの境目の文言。


 読み手の顔が濃く映れば止めよ。


 第三読者の願望混入を認めれば止めよ。


 そして裏には、別の字で短く書かれていた。


 顔を映すな。


 顔を映したら、向こうが読む。


 リシアは息を止めた。


「向こうが読む……?」


 塔の中の空気が、少しだけ重くなる。


 読むのは、自分たちだと思っていた。


 水鏡の記録を読む。


 星観測者の写しを読む。


 封書やA・Rの意味を読む。


 けれど、裏書きは逆を示している。


 こちらが読むのではなく。


 向こうが、こちらを読む。


 ルティアの手が震えた。


『姉さんは、読んでいたんじゃない』


『読まれていたの?』


 その心歌は、リシアの胸にも冷たく広がった。


 エルシアは、水面に会いたい人を見ていた。


 だが、本当に見ていただけだったのか。


 水鏡の向こうにある何かが、彼女の願いを読み取り、顔を返していたのだとしたら。


「決めつけるな」


 オルマが低く言った。


 リシアへではない。


 おそらく、自分にも、ルティアにも言った。


「この裏書きだけで、水鏡の向こうに意思があるとは決められない」


「はい」


 リシアは頷いた。


 それでも、指先が冷えていた。


 塔の上部へ上がるにつれて、水の音が近くなる。


 階段の先には、小さな円形の部屋があった。


 中央には丸い水盤。


 壁には湖へ向いた大きな水鏡。


 昨日、水鏡書庫で見たものよりずっと古い。


 鏡面は硝子ではない。


 薄い水の膜が、丸い枠の中に張っている。


 外の湖と繋がっているのだろうか。


 風もないのに、表面がかすかに揺れていた。


 リシアが一歩入った瞬間、水鏡に三人の姿が映る。


 オルマ。


 ルティア。


 リシア。


 そして。


 リシアは、肩の上を見た。


 シルはそこにいる。


 確かにいる。


 けれど、水鏡の中で、リシアの肩の上は空白だった。


 銀色のリスの姿だけが、映っていない。


 リシアの心臓が大きく跳ねた。


 シルも気づいたらしい。


 水鏡を見つめ、耳を伏せる。


 いつものように胸を張ることも、不満そうに鳴くこともしなかった。


 ただ、黙っていた。


 ルティアが小さく息を呑む。


「シルさんが……映っていない」


 オルマの片眼鏡が水鏡へ向けられる。


「顔を映さないもの」


 低い声だった。


「あるいは、顔として読まれないものか」


「どういう意味ですか」


 リシアの声は少し掠れていた。


「分からない」


 オルマは即答した。


「分からないものを、急いで意味にするな」


 リシアは唇を結ぶ。


 その通りだ。


 シルの正体に近づく気配があった。


 それでも、今ここで決めてはいけない。


 シル自身も、何かを説明するようには鳴かなかった。


 ただ、リシアの髪を小さく掴む。


 いつもより少し強い。


 それが、今は聞くな、という合図に思えた。


「……今は、聞かない」


 リシアが小さく言うと、シルはほんの少しだけ力を緩めた。


 水鏡の部屋の壁には、境目札が八枚並ぶはずだった。


 しかし、そのうち二枚が欠けている。


 一枚は床に落ちていた。


 もう一枚は、水鏡の枠の裏に挟まっている。


 ルティアが落ちた札を拾った。


 文字の面に、黒ではない藍色の染みがある。


「水が入りすぎています。札としては弱っている」


「使えるか」


「補修すれば、一時的には」


 ルティアは道具袋から青い糸を取り出し、札の端を縫うように補強し始めた。


 その手つきは丁寧だった。


 だが、水鏡はじっと彼女を映している。


 映ったルティアの顔が、少しずつ別の顔へ変わりかけた。


 髪が長くなり、目元が柔らかくなる。


 ルティアの姉、エルシア。


 リシアはそう思いかけて、すぐに止めた。


 見たことのない人を、名前で決めてはいけない。


 けれど、ルティアにはそう見えているのだろう。


 彼女の手が止まる。


 心歌が溢れた。


『姉さん』


『今なら、止められる』


『でも、本当は謝りたい』


『読まないでって叫んだだけで、ごめんって言いたい』


 ルティアの唇が震える。


 水鏡の中の顔が、優しく微笑んだ。


 その微笑みは、本物に見えた。


 少なくとも、リシアにはそう見えそうになった。


 いや。


 そう見たいのは、ルティアだ。


 リシアは一歩前に出ようとして、止まる。


 ここで歌ってはいけない。


 歌えば、その歌を水鏡が読むかもしれない。


 リシアの歌に乗った「慰め」を、ルティアの姉の言葉として返すかもしれない。


 それは、一番危険なことだ。


 だから、リシアは歌わなかった。


 代わりに、ルティアの名を呼んだ。


「ルティアさん」


 ルティアの肩が揺れる。


「その顔は、ルティアさんに何を言っていますか」


「……分かりません」


「では、ルティアさんは、その顔に何を言いたいですか」


 ルティアの目から、一筋だけ涙が落ちた。


 水鏡の中の顔が、さらに近づく。


 だが、ルティアは札を握りしめたまま言った。


「謝りたい」


「はい」


「でも、今は謝るために来たんじゃありません」


 声が震える。


 それでも、彼女の指は動き始めた。


 札の端を縫い、青い糸を結ぶ。


「私は、境目札を戻しに来ました」


 水鏡の中の顔が揺れた。


 微笑みがほどける。


 ルティアは涙を拭わなかった。


 そのまま、補修した札を壁の溝へ差し込む。


「姉さんかもしれない顔。今は、読まれません」


 札が収まった瞬間、水鏡の中の顔が薄れた。


 消えたのではない。


 ただ、ルティアの顔へ戻った。


 リシアは息を吐いた。


 歌わなかった。


 それでも、ルティアは止まれた。


 それが、今はとても大事だった。


 オルマは水鏡の枠裏に挟まっていたもう一枚の札を取り出す。


 その札は、切られていなかった。


 だが、文字の一部が削られている。


 読み手の顔が濃く映れば止めよ。


 その「止めよ」の部分だけが、刃物で削られていた。


 残っているのは、


 読み手の顔が濃く映れば――


 そこで終わっている。


 止める指示が消されている。


「誰かが、境目を外しただけではない」


 オルマの声は低かった。


「止める言葉だけを消している」


 リシアの背筋が冷える。


 読ませたい者がいる。


 あるいは、読まれることを望ませたい者がいる。


 水鏡が勝手にそうしたのか。


 誰かが人の手で削ったのか。


 まだ分からない。


 その時、部屋の中央の小さな水盤が、ふいに波立った。


 誰も触れていない。


 水面に文字が浮かぶ。


 第三読者、接近。


 顔混入、開始。


 リシアは息を止めた。


 水鏡の中のリシアの顔が、少しずつ変わっていく。


 今度はアイシャではなかった。


 セレナでも、ノエルでもない。


 リシア自身の顔のまま、目だけが深く沈んでいく。


 その顔は、水面の奥からリシアを見ていた。


 そして、心歌のようなものが聞こえた。


『知りたいんでしょう』


『読んでも、読まなくても、怖いんでしょう』


『なら、私が代わりに読んであげる』


 それは誰の声でもなかった。


 リシア自身の声に似ていた。


 自分の中にある弱い部分。


 答えがほしい部分。


 誰かに読んでほしい部分。


 それを水鏡がなぞっている。


 リシアの指が震える。


 鞄の中で封書が強く震えた。


 小袋の星片も震える。


 歌詞帳の白紙も、胸元で開こうとする。


 三つが同時に反応していた。


 シルが肩の上で鋭く鳴く。


 ちいっ。


 だが、水鏡の中にはシルが映っていない。


 だから、その警告も鏡の向こうへは届かない。


 届かないからこそ、リシアには直接届いた。


 リシアは目を閉じそうになった。


 でも、閉じなかった。


 水鏡から目を逸らさない。


 映っているのは、敵ではない。


 自分の「読まれたい顔」だ。


 それを見ないまま拒むことは、逃げになる。


 リシアはゆっくり息を吸った。


「私は、知りたいです」


 声が震える。


「誰かに代わりに読んでほしいくらい、知りたいです」


 水鏡の顔が、わずかに微笑む。


 リシアは続けた。


「でも、代わりに読ませません」


 その言葉で、顔の微笑みが止まる。


「私が読める時まで、読まない。私が聞ける時まで、聞かない。私が決めつけずにいられる時まで、誰かの顔を答えにしない」


 これは歌ではない。


 ただの言葉だ。


 けれど、リシアの中にある揺れをそのまま置く言葉だった。


 水鏡の中のリシアは、しばらくこちらを見ていた。


 やがて、輪郭が薄くなる。


 完全には消えない。


 それでいい。


 知りたい自分は消えない。


 消す必要もない。


 ただ、読ませない。


 ルティアが削られた札をリシアへ差し出した。


「止める言葉を、書き直します」


「私が?」


「はい。第三読者として来たあなたが、自分の顔に対して書く方がいい」


 リシアは少し迷った。


 それは責任の重い行為に思えた。


 だが、逃げるものでもない。


 セレナからもらった羽ペンを取り出す。


 青い軸の古い羽ペン。


 歌詞ではなく、境目の言葉を書くために。


 リシアは札の削られた箇所へ、短く書いた。


 濃く映るなら、戻れ。


 読ませず、自分の手で閉じよ。


 書き終えた瞬間、札が淡く光った。


 オルマが目を細める。


「歌詞ではないが、よい境目だ」


「命令になっていませんか」


「命令でなければならない時もある。止まれ、は時に必要な言葉だ」


 それは、少しだけセレナに似た言い方だった。


 リシアは小さく頷いた。


 札を壁の溝へ戻す。


 すると、水鏡の揺れが少しだけ収まった。


 湖から吹き込んでいた冷たい気配が弱まり、塔の中に朝の光が戻ってくる。


 ニトの声が外から聞こえた。


「大丈夫ですか!」


「入ってくるな!」


 オルマがすぐに返す。


 ニトは慌てて足を止めたのだろう。


 外で小石を踏む音が止まった。


 その心歌が、塔の入口から微かに届く。


『ちゃんと止まった』


『今、止まれた』


 リシアは思わず少し笑った。


 ニトは約束を守っている。


 そのことも、境目のひとつなのかもしれない。


 すべての札を確認した後、反照塔の水鏡はかなり落ち着いた。


 だが、完全ではない。


 塔の最上部にある丸い水鏡の端には、まだ薄い青の影が残っている。


 顔はない。


 髪なのか、水の反射なのかも分からない。


 その影は、リシアたちが札を戻すのを見届けるように揺れていた。


 ルティアが小さく言う。


「あなたは、外した人ですか。それとも、止めようとした人ですか」


 影は答えない。


 ただ、鏡面に文字が一つだけ浮かんだ。


 下。


「下?」


 リシアが呟いた瞬間、塔の中央水盤の水が、底へ向かって小さく渦を巻いた。


 塔の床。


 水盤の真下。


 白い石の継ぎ目が、わずかに光っている。


 オルマが杖で床を叩く。


 乾いた音ではなく、水を叩いたような音が返った。


「地下か」


「湖の下に、まだ部屋があるんですか」


 リシアが尋ねると、オルマは険しい顔をした。


「ある。だが、封じている」


「何があるんですか」


「古い読記室だ。今の水鏡書庫ができる前、星観測者の写しを初めて読んだ場所」


 ルティアの顔色が変わる。


「旧読記室……でも、そこは閉鎖されたはずです」


「閉鎖した。境目札が機能している限り、開かない」


 オルマは床の光を見る。


「その札が、塔と連動していたのなら」


「反照塔の境目札が外れたことで、旧読記室も揺らいでいる」


 リシアは胸元の歌詞帳へ手を置いた。


 白紙の奥で、水色の線がまた揺れる。


 地下。


 旧読記室。


 星観測者の写しを初めて読んだ場所。


 そこに、A・Rや星片のさらに深い記録があるのかもしれない。


 だが同時に、読んではいけない境目のさらに奥でもある。


 シルが肩の上で低く鳴いた。


 ちい。


 行くな、ではない。


 今すぐではない。


 そう聞こえた。


 リシアも同じだった。


「今は、開けない方がいいと思います」


 オルマがリシアを見る。


「理由は」


「反照塔の境目札を戻したばかりです。ルティアさんも、私も、まだ水鏡に顔を映されやすいと思います」


 リシアは床の光を見下ろす。


「それに、旧読記室へ入るなら、何を読むために行くのかではなく、どこで戻るのかを決めてからでないと危ない」


 オルマはしばらく黙っていた。


 やがて、静かに頷く。


「正しい」


 ルティアも息を吐いた。


「今日は、塔を閉じましょう」


「明日、準備して来る」


 オルマが言った。


「旧読記室へ入るかどうかは、その前に決める。入るなら、戻る合図を三つ作る」


「三つ?」


「人の声。境目札。相棒の判断」


 オルマの視線がシルへ向く。


 シルは胸を張った。


 水鏡には映らないくせに、本人はかなり誇らしそうだった。


 塔を出ると、ニトがすぐに駆け寄ってきた。


 だが、約束を思い出したのか、途中でぴたりと止まる。


「ここまでならいいですか」


 ルティアが少し笑った。


「いいわ」


 ニトはほっとした顔で近づいてくる。


「大丈夫でしたか」


「大丈夫でした」


 リシアは答える。


「ニトくんが外で止まっていてくれたので、戻る場所がありました」


 ニトの顔が明るくなる。


 心歌も、少しだけ弾んだ。


『待つのも、役に立った』


 リシアはその音を聞いて、微笑んだ。


 シルはそこで、ようやく焼き菓子の包みを取り出した。


 リシアの鞄から前足で引っぱり出し、慎重に一枚を取り出す。


「ここで食べるの?」


 リシアが驚いて言うと、シルは周囲を確認した。


 塔の中ではない。


 水鏡の前でもない。


 北岸の岩場。


 朝の光。


 外で待っていたニト。


 戻ってきたリシアたち。


 この場所なら、鳴らしてよいと判断したらしい。


 シルは焼き菓子をかじった。


 ぱり。


 音は、ちゃんと鳴った。


 湖へ吸われず、塔に読まれず、朝の空気の中で軽く響いた。


 ニトが目を丸くする。


「いい音」


 シルはとても満足そうに頷いた。


 リシアも、少しだけ肩の力を抜いた。


 反照塔はまだ白く立っている。


 旧読記室への道も、床の下に残っている。


 薄い青の影も、まだ誰なのか分からない。


 シルが映らなかった理由も、今は問えない。


 けれど、焼き菓子の音は鳴った。


 今のリシアには、その小さな音が、境目のこちら側に戻ってきた合図のように思えた。


 湖の向こうで、ミレネの町が朝日に光っている。


 水は多くを映す。


 けれど、すべてを読ませる必要はない。


 リシアは塔を振り返り、胸の中でそっと確かめた。


 読まないために来たわけではない。


 でも、読ませないために立つこともある。


 その違いを、今は忘れずにいたかった。


今回は、北岸反照塔へ向かう回でした。


反照塔では、境目札が外されているだけでなく、「止めよ」という言葉だけが削られていました。


誰かが読ませようとしているのか。


それとも、読ませないために別の方法を取ろうとしたのか。


まだはっきりとは分かりません。


リシアは、自分の「読まれたい顔」と向き合いました。


知りたい。


誰かに代わりに読んでほしい。


そんな弱さを消すのではなく、抱えたまま「読ませない」と選びます。


ルティアもまた、姉の顔かもしれないものに引き寄せられながら、境目札を戻しました。


そして、水鏡にはシルだけが映りませんでした。


その意味は、まだ分かりません。


けれど、最後にシルの焼き菓子はちゃんと鳴りました。


戻ってこられる音がある。


その小さな安心を残して、旅はもう少し水鏡の奥へ進んでいきます。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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