星写しの町編 95話 北岸反照塔
リシアたちは、夜の水鏡書庫で星観測者の写し記録へ向き合った。
オルマは、答えを探すのではなく、読んではいけない境目を探せと告げる。
記録には、A・R、未唱声保留、星片、本体より離脱、保持者未確定という言葉が残っていた。
さらに、境目標として「返すな」「待て」「読むな」の三語が残されていたことも分かる。
リシアは封書に似た記録を見た時、アイシャの筆跡かもしれない文字へ引き寄せられかける。
だが、シルとルティアが止めた。
読めなかったのではなく、読まないと選ぶ。
その違いを確かめた後、水鏡は北岸反照塔と、外れた境目札を映した。
最後に浮かんだ言葉は、「読ませるな」だった。
朝の湖は、夜よりもずっと優しい顔をしていた。
薄い霧が水面を撫で、空の青はまだ浅い。町の屋根に朝日が触れると、窓辺に吊るされた丸鏡が小さく光を返して、ミレネの水路へきらきらと落ちていく。
けれど、リシアはその光をまっすぐ綺麗だとは思えなかった。
昨夜、水鏡に映った自分の顔が、まだ胸の奥に残っている。
知りたい顔。
誰かの筆跡を、アイシャのものだと思いたがっていた顔。
あの顔を見てしまった後では、水面に映る光さえ、何かを隠しているように感じてしまう。
シルはリシアの肩の上で、ネリオからもらった焼き菓子の包みを抱えていた。
昨日の夜は食べなかった。
水鏡書庫の中では鳴らさない、と決めたらしい。
今朝もまだ食べていない。
湖沿いの朝風を受けながら、彼は包みを何度も確認している。
「今日こそ食べる?」
リシアが小声で尋ねると、シルは一度だけ湖を見た。
それから、首を横に振る。
ちい。
まだ。
そう聞こえた。
「鳴る場所を選ぶんだね」
シルは真剣に頷いた。
焼き菓子ひとつにも、置く場所と鳴らす場所がある。
それが今のシルの中では、大事な決まりになっているのだろう。
水鏡書庫の前には、ルティアとオルマがすでに立っていた。
ルティアは青い作業着の上から薄手の外套を羽織り、腰に小さな道具袋を下げている。中には境目札を固定する針金、青水耐紙、短い測り糸が入っているらしい。
オルマは杖を持っていた。
片眼鏡は昨夜よりも厚いものに替えている。
反照塔の水鏡を見るためのものだろう。
その表情は静かだが、心の奥に硬い音がある。
『もう、読み手を水に渡すな』
リシアは、その心歌を聞き取った。
けれど、何も言わなかった。
オルマのそれは、今さら言葉にしなくても彼自身がよく知っている誓いだった。
「行くぞ」
オルマが短く言う。
ルティアが頷き、リシアも続いた。
その時、書庫脇の小道から小さな足音がした。
ニトだった。
配達鞄を肩にかけ、息を切らしている。
「待ってください」
「ニト」
ルティアの声が少し厳しくなる。
「今日は書庫番の手伝いはないはずよ」
「分かってます。でも、北岸へ行くなら……ぼく、道を知ってます」
「湖沿いの道なら私たちも知っている」
オルマが言うと、ニトは唇を噛んだ。
リシアの耳に、細い心歌が触れる。
『また置いていかれる』
『見たのは、僕なのに』
『怖いのに、知らないまま待つ方がもっと怖い』
リシアはニトを見る。
昨日、彼は言いにくかった目撃を話してくれた。
薄い青の人影。
返すな。
それを見たのはニトだ。
この件に関わらせない方が安全かもしれない。
けれど、何も知らせずに遠ざければ、彼の中に「自分が見たもの」を抱えたまま、不安だけが残る。
リシアは少し考えた。
「ニトくん。反照塔の中には入れません」
ニトの顔が強張る。
「でも、塔の近くまで案内してもらえますか。そこから先は、危なくなったらすぐ離れること。ルティアさんかオルマさんが止めたら、必ず止まること」
ルティアがリシアを見る。
「リシアさん」
「何も見なかったことにして待つのは、たぶん余計に怖いと思います」
ニトは大きく頷いた。
「止まります。走りません。勝手に塔へ入りません」
早口だった。
怖いのを隠すような声。
オルマはしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。
「塔の外までだ」
「はい!」
「そして、見たものをすぐ意味にするな」
「……はい」
ニトは少し遅れて頷いた。
その返事に、シルがなぜか満足そうに胸を張る。
まるで、よく分かっている、と言いたげだった。
北岸へは、小舟で渡ることになった。
ミレネの町から北へ伸びる水路を抜け、湖の縁をなぞるように進む。
櫂が水を押すたび、朝の湖に丸い波紋が広がった。
舟を漕ぐのはルティアだった。
手慣れた動きで、ほとんど音を立てない。
ニトは舟の前方に座り、落ち着きなく水面を見ている。
彼の心歌が、時々こぼれる。
『また映ったらどうしよう』
『でも、見なかったらもっと怖い』
『あの人影、僕を見ていたのかな』
リシアは深く聞かないよう、湖面へ視線を移した。
水は静かだ。
けれど、その静けさの下には、昨日の言葉が沈んでいる。
返すな。
待て。
読むな。
読ませるな。
声に出せば、また水が揺れる気がして、リシアは黙っていた。
しばらく進むと、北岸の霧の中に小さな白い塔が見えてきた。
高くはない。
二階建ての家より少し上に伸びる程度の塔だ。
けれど、湖へ突き出した白い岩の上に立っているため、実際よりも遠く、孤独に見える。
塔の上部には丸い水鏡がはめ込まれていた。
朝日を受けるその鏡は、鏡というより水を固めた窓のようだった。
近づくにつれて、リシアの歌詞帳がわずかに震え始める。
強い反応ではない。
だが、白紙の奥で細い水色の線が揺れているような感覚がある。
シルは肩の上で身を低くした。
焼き菓子の包みは、すでにリシアの鞄の奥へ避難させている。
今朝のシルは、とても用心深い。
「ここからは歩く」
オルマが言った。
舟を岩場に寄せ、全員が降りる。
足元の石は濡れていた。
湖の水が細かく跳ね、白い岩の表面を薄く濡らしている。滑りやすそうだった。
シルがリシアの肩で、嫌そうに前足を握る。
「落ちないようにするから」
ちい。
絶対に。
そう言っているようだった。
ニトは塔の外周を指差した。
「あそこです。昨日、水面に人影が見えたのは」
塔の足元、湖に面した浅い水たまりのような場所。
周囲には青水耐紙の破片がいくつか引っかかっていた。
ルティアがすぐに近づき、膝をつく。
「境目札の欠片です」
彼女は一枚を拾い、指先で確かめた。
「外れたというより……切られています」
「自然に剥がれたのではないのか」
オルマの声が低くなる。
「違います。切り口がきれいすぎる」
リシアは欠片を見た。
薄青の紙の端が、鋭く斜めに切れている。
誰かが刃物で切った。
あるいは、細い術式で裂いた。
リシアの耳に、塔からかすかな残響のようなものが届いた。
心歌ではない。
けれど、人の手が残した意図に近い。
『読ませるな』
『でも、読ませなければ、見つからない』
矛盾した二つの音。
リシアは眉を寄せる。
「誰かが、境目札を外した。でも、警告も残した」
ルティアが言う。
「止めたいのか、進ませたいのか、分かりませんね」
「どちらも、かもしれません」
リシアは塔を見上げた。
「読ませたくないものがある。でも、読まなければ気づけないこともある。だから、境目だけ残そうとした」
「境目を切っておいて?」
ルティアの声には少し怒りが混じっていた。
リシアは頷くことも首を振ることもできなかった。
そこまで分かるほど、まだ聞こえていない。
オルマは杖で塔の入口を示す。
「中へ入る。ニトはここで待て」
ニトは一瞬だけ何か言いかけたが、自分で唇を閉じた。
「はい」
その声は震えていた。
リシアの耳に、心歌がかすめる。
『ちゃんと待てたら、悪くないかな』
リシアはニトの前にしゃがみ、目線を合わせた。
「待つのも、手伝いです」
「……本当に?」
「はい。私たちが戻る場所を持つために、ここにいてください」
ニトは小さく頷いた。
「分かりました」
シルが肩の上で、ちい、と鳴く。
それは、なぜか偉そうな承認に聞こえた。
塔の中は暗かった。
外から見たよりも狭い。
丸い壁に沿って細い階段が上へ続いている。壁には境目札を貼るための浅い溝がいくつもあり、そのうちいくつかが空になっていた。
青い札の跡だけが、湿った輪郭として残っている。
空気は水の匂いがした。
湖に囲まれているから当然なのだろうが、それだけではない。
呼吸するたび、喉の奥に冷たい水が触れるような感覚がある。
塔そのものが、何かを映すために息を潜めている。
ルティアが壁の溝を調べる。
「下層の境目札は三枚欠落。二枚は切断。一枚は裏返しになっています」
「裏返し?」
リシアが聞き返すと、ルティアは一枚の札を指した。
青水耐紙が溝に挟まっている。
だが、文字の面が壁側を向いていた。
「境目札は文字の面を水鏡側へ向けないと働きません」
「誰かが間違えた?」
「写し守なら間違えません」
ルティアの声は硬かった。
「これは、意図的です」
オルマは壁に近づき、札の裏側を片眼鏡で見た。
「裏に何か書かれている」
ルティアが慎重に札を外す。
表にはいつもの境目の文言。
読み手の顔が濃く映れば止めよ。
第三読者の願望混入を認めれば止めよ。
そして裏には、別の字で短く書かれていた。
顔を映すな。
顔を映したら、向こうが読む。
リシアは息を止めた。
「向こうが読む……?」
塔の中の空気が、少しだけ重くなる。
読むのは、自分たちだと思っていた。
水鏡の記録を読む。
星観測者の写しを読む。
封書やA・Rの意味を読む。
けれど、裏書きは逆を示している。
こちらが読むのではなく。
向こうが、こちらを読む。
ルティアの手が震えた。
『姉さんは、読んでいたんじゃない』
『読まれていたの?』
その心歌は、リシアの胸にも冷たく広がった。
エルシアは、水面に会いたい人を見ていた。
だが、本当に見ていただけだったのか。
水鏡の向こうにある何かが、彼女の願いを読み取り、顔を返していたのだとしたら。
「決めつけるな」
オルマが低く言った。
リシアへではない。
おそらく、自分にも、ルティアにも言った。
「この裏書きだけで、水鏡の向こうに意思があるとは決められない」
「はい」
リシアは頷いた。
それでも、指先が冷えていた。
塔の上部へ上がるにつれて、水の音が近くなる。
階段の先には、小さな円形の部屋があった。
中央には丸い水盤。
壁には湖へ向いた大きな水鏡。
昨日、水鏡書庫で見たものよりずっと古い。
鏡面は硝子ではない。
薄い水の膜が、丸い枠の中に張っている。
外の湖と繋がっているのだろうか。
風もないのに、表面がかすかに揺れていた。
リシアが一歩入った瞬間、水鏡に三人の姿が映る。
オルマ。
ルティア。
リシア。
そして。
リシアは、肩の上を見た。
シルはそこにいる。
確かにいる。
けれど、水鏡の中で、リシアの肩の上は空白だった。
銀色のリスの姿だけが、映っていない。
リシアの心臓が大きく跳ねた。
シルも気づいたらしい。
水鏡を見つめ、耳を伏せる。
いつものように胸を張ることも、不満そうに鳴くこともしなかった。
ただ、黙っていた。
ルティアが小さく息を呑む。
「シルさんが……映っていない」
オルマの片眼鏡が水鏡へ向けられる。
「顔を映さないもの」
低い声だった。
「あるいは、顔として読まれないものか」
「どういう意味ですか」
リシアの声は少し掠れていた。
「分からない」
オルマは即答した。
「分からないものを、急いで意味にするな」
リシアは唇を結ぶ。
その通りだ。
シルの正体に近づく気配があった。
それでも、今ここで決めてはいけない。
シル自身も、何かを説明するようには鳴かなかった。
ただ、リシアの髪を小さく掴む。
いつもより少し強い。
それが、今は聞くな、という合図に思えた。
「……今は、聞かない」
リシアが小さく言うと、シルはほんの少しだけ力を緩めた。
水鏡の部屋の壁には、境目札が八枚並ぶはずだった。
しかし、そのうち二枚が欠けている。
一枚は床に落ちていた。
もう一枚は、水鏡の枠の裏に挟まっている。
ルティアが落ちた札を拾った。
文字の面に、黒ではない藍色の染みがある。
「水が入りすぎています。札としては弱っている」
「使えるか」
「補修すれば、一時的には」
ルティアは道具袋から青い糸を取り出し、札の端を縫うように補強し始めた。
その手つきは丁寧だった。
だが、水鏡はじっと彼女を映している。
映ったルティアの顔が、少しずつ別の顔へ変わりかけた。
髪が長くなり、目元が柔らかくなる。
ルティアの姉、エルシア。
リシアはそう思いかけて、すぐに止めた。
見たことのない人を、名前で決めてはいけない。
けれど、ルティアにはそう見えているのだろう。
彼女の手が止まる。
心歌が溢れた。
『姉さん』
『今なら、止められる』
『でも、本当は謝りたい』
『読まないでって叫んだだけで、ごめんって言いたい』
ルティアの唇が震える。
水鏡の中の顔が、優しく微笑んだ。
その微笑みは、本物に見えた。
少なくとも、リシアにはそう見えそうになった。
いや。
そう見たいのは、ルティアだ。
リシアは一歩前に出ようとして、止まる。
ここで歌ってはいけない。
歌えば、その歌を水鏡が読むかもしれない。
リシアの歌に乗った「慰め」を、ルティアの姉の言葉として返すかもしれない。
それは、一番危険なことだ。
だから、リシアは歌わなかった。
代わりに、ルティアの名を呼んだ。
「ルティアさん」
ルティアの肩が揺れる。
「その顔は、ルティアさんに何を言っていますか」
「……分かりません」
「では、ルティアさんは、その顔に何を言いたいですか」
ルティアの目から、一筋だけ涙が落ちた。
水鏡の中の顔が、さらに近づく。
だが、ルティアは札を握りしめたまま言った。
「謝りたい」
「はい」
「でも、今は謝るために来たんじゃありません」
声が震える。
それでも、彼女の指は動き始めた。
札の端を縫い、青い糸を結ぶ。
「私は、境目札を戻しに来ました」
水鏡の中の顔が揺れた。
微笑みがほどける。
ルティアは涙を拭わなかった。
そのまま、補修した札を壁の溝へ差し込む。
「姉さんかもしれない顔。今は、読まれません」
札が収まった瞬間、水鏡の中の顔が薄れた。
消えたのではない。
ただ、ルティアの顔へ戻った。
リシアは息を吐いた。
歌わなかった。
それでも、ルティアは止まれた。
それが、今はとても大事だった。
オルマは水鏡の枠裏に挟まっていたもう一枚の札を取り出す。
その札は、切られていなかった。
だが、文字の一部が削られている。
読み手の顔が濃く映れば止めよ。
その「止めよ」の部分だけが、刃物で削られていた。
残っているのは、
読み手の顔が濃く映れば――
そこで終わっている。
止める指示が消されている。
「誰かが、境目を外しただけではない」
オルマの声は低かった。
「止める言葉だけを消している」
リシアの背筋が冷える。
読ませたい者がいる。
あるいは、読まれることを望ませたい者がいる。
水鏡が勝手にそうしたのか。
誰かが人の手で削ったのか。
まだ分からない。
その時、部屋の中央の小さな水盤が、ふいに波立った。
誰も触れていない。
水面に文字が浮かぶ。
第三読者、接近。
顔混入、開始。
リシアは息を止めた。
水鏡の中のリシアの顔が、少しずつ変わっていく。
今度はアイシャではなかった。
セレナでも、ノエルでもない。
リシア自身の顔のまま、目だけが深く沈んでいく。
その顔は、水面の奥からリシアを見ていた。
そして、心歌のようなものが聞こえた。
『知りたいんでしょう』
『読んでも、読まなくても、怖いんでしょう』
『なら、私が代わりに読んであげる』
それは誰の声でもなかった。
リシア自身の声に似ていた。
自分の中にある弱い部分。
答えがほしい部分。
誰かに読んでほしい部分。
それを水鏡がなぞっている。
リシアの指が震える。
鞄の中で封書が強く震えた。
小袋の星片も震える。
歌詞帳の白紙も、胸元で開こうとする。
三つが同時に反応していた。
シルが肩の上で鋭く鳴く。
ちいっ。
だが、水鏡の中にはシルが映っていない。
だから、その警告も鏡の向こうへは届かない。
届かないからこそ、リシアには直接届いた。
リシアは目を閉じそうになった。
でも、閉じなかった。
水鏡から目を逸らさない。
映っているのは、敵ではない。
自分の「読まれたい顔」だ。
それを見ないまま拒むことは、逃げになる。
リシアはゆっくり息を吸った。
「私は、知りたいです」
声が震える。
「誰かに代わりに読んでほしいくらい、知りたいです」
水鏡の顔が、わずかに微笑む。
リシアは続けた。
「でも、代わりに読ませません」
その言葉で、顔の微笑みが止まる。
「私が読める時まで、読まない。私が聞ける時まで、聞かない。私が決めつけずにいられる時まで、誰かの顔を答えにしない」
これは歌ではない。
ただの言葉だ。
けれど、リシアの中にある揺れをそのまま置く言葉だった。
水鏡の中のリシアは、しばらくこちらを見ていた。
やがて、輪郭が薄くなる。
完全には消えない。
それでいい。
知りたい自分は消えない。
消す必要もない。
ただ、読ませない。
ルティアが削られた札をリシアへ差し出した。
「止める言葉を、書き直します」
「私が?」
「はい。第三読者として来たあなたが、自分の顔に対して書く方がいい」
リシアは少し迷った。
それは責任の重い行為に思えた。
だが、逃げるものでもない。
セレナからもらった羽ペンを取り出す。
青い軸の古い羽ペン。
歌詞ではなく、境目の言葉を書くために。
リシアは札の削られた箇所へ、短く書いた。
濃く映るなら、戻れ。
読ませず、自分の手で閉じよ。
書き終えた瞬間、札が淡く光った。
オルマが目を細める。
「歌詞ではないが、よい境目だ」
「命令になっていませんか」
「命令でなければならない時もある。止まれ、は時に必要な言葉だ」
それは、少しだけセレナに似た言い方だった。
リシアは小さく頷いた。
札を壁の溝へ戻す。
すると、水鏡の揺れが少しだけ収まった。
湖から吹き込んでいた冷たい気配が弱まり、塔の中に朝の光が戻ってくる。
ニトの声が外から聞こえた。
「大丈夫ですか!」
「入ってくるな!」
オルマがすぐに返す。
ニトは慌てて足を止めたのだろう。
外で小石を踏む音が止まった。
その心歌が、塔の入口から微かに届く。
『ちゃんと止まった』
『今、止まれた』
リシアは思わず少し笑った。
ニトは約束を守っている。
そのことも、境目のひとつなのかもしれない。
すべての札を確認した後、反照塔の水鏡はかなり落ち着いた。
だが、完全ではない。
塔の最上部にある丸い水鏡の端には、まだ薄い青の影が残っている。
顔はない。
髪なのか、水の反射なのかも分からない。
その影は、リシアたちが札を戻すのを見届けるように揺れていた。
ルティアが小さく言う。
「あなたは、外した人ですか。それとも、止めようとした人ですか」
影は答えない。
ただ、鏡面に文字が一つだけ浮かんだ。
下。
「下?」
リシアが呟いた瞬間、塔の中央水盤の水が、底へ向かって小さく渦を巻いた。
塔の床。
水盤の真下。
白い石の継ぎ目が、わずかに光っている。
オルマが杖で床を叩く。
乾いた音ではなく、水を叩いたような音が返った。
「地下か」
「湖の下に、まだ部屋があるんですか」
リシアが尋ねると、オルマは険しい顔をした。
「ある。だが、封じている」
「何があるんですか」
「古い読記室だ。今の水鏡書庫ができる前、星観測者の写しを初めて読んだ場所」
ルティアの顔色が変わる。
「旧読記室……でも、そこは閉鎖されたはずです」
「閉鎖した。境目札が機能している限り、開かない」
オルマは床の光を見る。
「その札が、塔と連動していたのなら」
「反照塔の境目札が外れたことで、旧読記室も揺らいでいる」
リシアは胸元の歌詞帳へ手を置いた。
白紙の奥で、水色の線がまた揺れる。
地下。
旧読記室。
星観測者の写しを初めて読んだ場所。
そこに、A・Rや星片のさらに深い記録があるのかもしれない。
だが同時に、読んではいけない境目のさらに奥でもある。
シルが肩の上で低く鳴いた。
ちい。
行くな、ではない。
今すぐではない。
そう聞こえた。
リシアも同じだった。
「今は、開けない方がいいと思います」
オルマがリシアを見る。
「理由は」
「反照塔の境目札を戻したばかりです。ルティアさんも、私も、まだ水鏡に顔を映されやすいと思います」
リシアは床の光を見下ろす。
「それに、旧読記室へ入るなら、何を読むために行くのかではなく、どこで戻るのかを決めてからでないと危ない」
オルマはしばらく黙っていた。
やがて、静かに頷く。
「正しい」
ルティアも息を吐いた。
「今日は、塔を閉じましょう」
「明日、準備して来る」
オルマが言った。
「旧読記室へ入るかどうかは、その前に決める。入るなら、戻る合図を三つ作る」
「三つ?」
「人の声。境目札。相棒の判断」
オルマの視線がシルへ向く。
シルは胸を張った。
水鏡には映らないくせに、本人はかなり誇らしそうだった。
塔を出ると、ニトがすぐに駆け寄ってきた。
だが、約束を思い出したのか、途中でぴたりと止まる。
「ここまでならいいですか」
ルティアが少し笑った。
「いいわ」
ニトはほっとした顔で近づいてくる。
「大丈夫でしたか」
「大丈夫でした」
リシアは答える。
「ニトくんが外で止まっていてくれたので、戻る場所がありました」
ニトの顔が明るくなる。
心歌も、少しだけ弾んだ。
『待つのも、役に立った』
リシアはその音を聞いて、微笑んだ。
シルはそこで、ようやく焼き菓子の包みを取り出した。
リシアの鞄から前足で引っぱり出し、慎重に一枚を取り出す。
「ここで食べるの?」
リシアが驚いて言うと、シルは周囲を確認した。
塔の中ではない。
水鏡の前でもない。
北岸の岩場。
朝の光。
外で待っていたニト。
戻ってきたリシアたち。
この場所なら、鳴らしてよいと判断したらしい。
シルは焼き菓子をかじった。
ぱり。
音は、ちゃんと鳴った。
湖へ吸われず、塔に読まれず、朝の空気の中で軽く響いた。
ニトが目を丸くする。
「いい音」
シルはとても満足そうに頷いた。
リシアも、少しだけ肩の力を抜いた。
反照塔はまだ白く立っている。
旧読記室への道も、床の下に残っている。
薄い青の影も、まだ誰なのか分からない。
シルが映らなかった理由も、今は問えない。
けれど、焼き菓子の音は鳴った。
今のリシアには、その小さな音が、境目のこちら側に戻ってきた合図のように思えた。
湖の向こうで、ミレネの町が朝日に光っている。
水は多くを映す。
けれど、すべてを読ませる必要はない。
リシアは塔を振り返り、胸の中でそっと確かめた。
読まないために来たわけではない。
でも、読ませないために立つこともある。
その違いを、今は忘れずにいたかった。
今回は、北岸反照塔へ向かう回でした。
反照塔では、境目札が外されているだけでなく、「止めよ」という言葉だけが削られていました。
誰かが読ませようとしているのか。
それとも、読ませないために別の方法を取ろうとしたのか。
まだはっきりとは分かりません。
リシアは、自分の「読まれたい顔」と向き合いました。
知りたい。
誰かに代わりに読んでほしい。
そんな弱さを消すのではなく、抱えたまま「読ませない」と選びます。
ルティアもまた、姉の顔かもしれないものに引き寄せられながら、境目札を戻しました。
そして、水鏡にはシルだけが映りませんでした。
その意味は、まだ分かりません。
けれど、最後にシルの焼き菓子はちゃんと鳴りました。
戻ってこられる音がある。
その小さな安心を残して、旅はもう少し水鏡の奥へ進んでいきます。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




