心の傷 人生の一部品 貴女が与えてくれたもの 口づけの嵐
「…あの2年のことは全て覚えています。
僕は記憶を司る神鼠ですから、基本的に物事を忘れません。
僕自身に神通力をかけて忘れることはできますが、
絶対に思い出せなくなります。
あの誘拐戦争と独立運動は大きな動きです。
あの2年の中に、重要な出来事や証拠がある可能性がある。
だから、意図的に忘れることはできない。」
リヒトさんは、繋いだ手に力を込める。
「感情を失っていた間は、あの出来事は、僕にとって、ただの事実でした。
よく自分が苦しむ悪夢を見ましたが、
目覚めれば『夢を見た』と思うだけです。」
リヒトさんは黙っている。
「でも、その代わり、僕の日常は、
何も書いていない白紙のページを一枚一枚めくるような日々でした。
そのときに、貴女が来た。」
リヒトさんの手がピクリと動いた。
「貴女が心配しているように、
感情が戻って来ると同時に、例の2年の記憶は、ただの事実ではなくて、
不快な記憶として蘇りました。
でも、貴女によって再生されたものは、それだけじゃない。」
僕たちは人通りのない狭い路地に入った。
坂になっている路地の突き当りには、日光が広がって、猫が昼寝をしている。
「お腹はすくし、食べ物はおいしい。
難しい問題の解を見つけて興奮する。
風呂に入ったときは気持ちいい。
ぐっすり眠って晴れた朝には伸びをする。
そういう、当たり前の感覚が、感情を伴って戻って来たんです。」
僕は、坂道を上りながら、リヒトさんの手をしっかり握った。
「貴女が大暴れして、皆が大慌てするのはおかしかった。
貴女に会う時間が来るとき、ソワソワする。
貴女が僕を見ると、もっと見てほしいと思う。
貴女の顔を見たら心が浮き立って、
貴女に会えなかったらがっかりして、
次に会える予定をそっと確認する。」
リヒトさんは立ち止まってそっとつないだ手を離した。
肩を震わして、顔を覆っている。
僕は、路地の突き当りまで数歩進んで日光を浴びると、
リヒトさんを振り返った。
「リヒトさん。
貴女が再生してくれた感情は、数えきれない。
僕の人生のページは、
貴女が僕に襲い掛かったあの日から、
たくさんの色彩で溢れている。
あの2年は、今はもう、僕という人間の、一つの部品に過ぎないんです。」
リヒトさんは顔を上げて、僕が浴びる日光を眩しそうにした。
「もちろん…貴女に触れようと思うたび、
こんな穢れている自分でいいのかと考えます。
貴女への触れ方が、あの連中の動きをなぞっている気がするのは、
特に僕を苦しめる。」
リヒトさんは顔を歪めて、小さく顔を横に振ってくれる。
「もしかすると一生逃れられないのかもしれない。
でも、それでも、色とりどりの僕のページの一部品なんだ。
僕は、貴女が僕に命懸けで与えてくれた感情を、
その一部品だけで無駄にしたりしない。
絶対に!」
リヒトさんの夕日色の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「だから、リヒトさん…気持ちはとても嬉しいけど、
あなたがそんな…
自分の身を売ってまで、僕とフェアになろうとする必要は、もうないんだ。」
僕はリヒトさんに手を差し伸べた。
「こっちに来てください。」
リヒトさんは鼻をすすりながら涙を拭っている。
「こっちに来て?」
リヒトさんはうつむいている。
きっと考えているのだ。
僕は、リヒトさんの後ろから、こちらに向かって来る猫を見つけると、
思いついて、そっと呼び掛けた。
「リヒトさん、猫さん、こっちに「こい」…」
リヒトさんは、自分を通り越していく猫にハッと目をやると、
その猫と同じように、ソロソロと滑らかに僕の方に向かってきた。
僕は膝をついて手を広げた。
リヒトさんは崩れ落ちるように僕に抱きついて、
何かを言おうと、僕の顔を見上げたが、
僕は、その震える唇に、思い切り僕の唇を押し当てた。
「フェア計画は絶対にしないと、僕に誓ってください。」
僕は、唇をつけたままリヒトさんに言う。
「し…ない…」
リヒトさんは少し喘ぎながら言う。
僕も息を荒くしながら、それでも唇は離さないまま、話し続ける。
「もっとはっきり…僕に誓ってください…リヒトさん…」
「絶対に…しま…せん…」
リヒトさんの言葉に、僕はもう一度、今度はもっと長く唇を押し当てる。
呼吸が苦しくなるほど押し当てて、そっと唇を離すと、
リヒトさんが、耳まで真っ赤にしながら、目を逸らして囁いた。
「馬鹿リヒトだ、私…」
僕は大きく首を横に振った。
「これを言ってくれたから、
僕は、心のしこりになっていた虐待に向き合って、
さっきの言葉を言うことができました。」
僕はリヒトさんに口づけを繰り返す。
「貴女の優しいフェア計画は、僕の人生の彩になりました。
今度は僕の番だ。
リヒトさんがロベルトのことで苦しむときは、いつでも僕がフェア計画を立てます。」
リヒトさんは、僕の唇から逃れて、
「エェ?嫌だよ、君が身売りするなんて…」
と言いかけたが、賢いリヒトさんは、ちょっと自分を指差してクスリと笑う。
「君の気持が分かった」と言うように。
そんなリヒトさんを見て、僕は勇気を出して、ちょっと咳払いしてから話し始めた。
「リ、リヒトさん…前からずっと聞きたかったんですけど、
リヒトさんは、僕のことを…」
【グ―――――ッッ】
リヒトさんはパッと自分のお腹を押さえて、「私だ…」と照れ笑いする。
「乾パンとソーセージ半分しか食べてないから…」
「そうでした…僕が食べちゃいましたから。
お祭りに戻って、たくさん食べましょう。」
僕はリヒトさんを抱き上げて、坂道を下り始めた。
路地の先に、いよいよ賑わう祭りが垣間見えた。




