【第Ⅱ章開幕】別れから3年後…羊の国にいる19歳の『シーリン』は、猫リヒト
「シーリンさん!こちらの帳簿です!」
「納品確認済みです!シーリンさん!」
ここは神羊コルデール州随一の大商家、ジェイコブ・ハードウィック家。
近々、コルデール王宮で開催されるオスカー王就任10周年記念祝賀会のため、最近は特に活気づいている。
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「シーリン?シーリン?
ねえ、シーリンがどこにいるか知ってる?」
ジェイコブの娘…もうすぐ、羊族の名家に嫁ぐ17歳のメアリが、誰かに尋ねている。
「シーリンさんなら、あちらの机ですよ。」
しかし、メアリがそこに行くまでもなく、ひょっこりと一人の女性が顔を出した。
「ここよ!」
空色のリボンで一つに束ねた黒い髪、
夕日のようなオレンジの瞳、
知性の溢れる顔立ち…
それは、3年前、神鼠シリウスのもとを自ら去った猫族リヒトだった。
「働き過ぎよ!シーリン!私とお茶をしなさいな?」
「私はこの家の使用人ですから、働くのが…」
「ハイハイ、休むことも仕事のうちよ……ちょっと、シーリン借りていくわよ!」
メアリが、ここではシーリンと呼ばれている、リヒトの腕を取って歩き出す。
「ねえ、祝賀会のドレス、どれがいいか選んで!」
「フフフ…『休むお仕事』じゃなかったの?」
メアリの部屋に入ると、メイドがお茶の準備をしている。
リヒトは、並べられた3着のドレスを見比べて、「そうね…」と真剣に悩み始めた。
メイドが部屋を出たことを確認すると、メアリはリヒトに近寄った。
「ねえ、こっそり聞いちゃったんだけど…
今度の祝賀会に…シリウス大王がいらっしゃるんですって!」
「えっ!?」
その瞬間、リヒトは並べられたドレスの裾につまずいて盛大に転び、3着のドレスに埋もれてしまった。
「シーリンったら、驚き過ぎよ!!!」
メアリは楽しそうに笑うと、ドレスの山から顔だけ出しているリヒトを助け起こし、
メイドを呼んで3着のドレスを別室に片づけさせる。
お茶の並んだ席に座ると、メアリは再び話し始めた。
「分かるわ!!私も、聞いたときはもう、夜も眠れないくらい興奮したもの!!
…でも、このことは、まだ内緒ね!」
「わ、私は、ドレスの裾につまずいただけ…よ…」
リヒトは慌ててカップをとる。
メアリは、夢を見るように小さなマカロンを口に放り込んだ。
「同じクラスのイザベルが、先月の、春の十二支会議の晩餐会に出たの!
その子、オスカー様の親戚で、私と同じ17歳だから…大王様の花嫁候補として連れていかれたのよ。
ああ!私も婚約してなければ…!」
「は、花嫁…候補…」
リヒトは何とかお茶をこぼさずに、カップを置いた。
「もうね、シリウス様、まともに見られないくらい美しい方なんですって!!
噂なんかと比べ物にならないって!
背も高くて、男らしくて…ダンスをしていただいたときは、イザベル、空を舞っているようだったって…」
リヒトは、襟元を握りしめた。
胸が錐で抉られるようで、呼吸も苦しくなってきたのだ。
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神羊コルデール州は、神の山ゴテスベルクを中心とした国土の南南西に位置し、
神馬エクウス州の次に、北の首都ディモイゼから離れた州である。
3年前、大神殿を去ったとき、リヒトは、とにかく遠い場所に行こうとした。
自分がその肉を食べた、シリウスを…この国の少年大王シリウスを殺さないと確信できるくらいに、
遠い場所へ。
しかし、エクウス州は故郷。知り合いに会う可能性がある。
もう、知り合いになど会いたくない。
一方、コルデール州は、ディモイゼから離れている上、繊維業が盛んで、仕事も見つけやすく、
羊の群れのように人口が多い。
残りの人生のページを堅実に、静かにめくっていける…そう考えたのだ。
…リヒトは、何日も飲まず食わずで歩き、
ボロ布のような心と体を引きずって、この州に到着した。
そして、名前も素性も隠して職を探し、今は、「シーリン」として、
この館で大番頭ロムニーの補佐として働いている。
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「は…花嫁候補…って、大王様は…もう婚約している…んじゃないの?」
「えっ!?そうなの!?シーリン、それほんと!?」
「や、あ、あの、大王様だから、早いうちに…お姫様と婚約しているのかなって…思っただけ…」
リヒトは口ごもり、どんどん声が小さくなっていく。
「なんだ、びっくりした!イザベルが聞いたらひっくり返るわよ。
婚約していたら、イザベル、花嫁候補として晩餐会なんか行かないでしょ?」
「…そう…そうよね…」
リヒトは、自分の胸の鼓動がメアリの耳にも届いている気がした。
シリウスはもう16歳…
3年前、自分が再生計画のために大神殿にいたときは、
竜族の姫君マリア様との婚約の「予定」が「婚約」に確定するのは、
シリウスが15歳になったとき、とされていた。
それが、延期に…?
もしかすると、破談…?
リヒトが、マカロンを一口かじることもできない中、
メアリは浮かれた様子で次々とマカロンを口に放り込んで会話を続ける。
「でも、その晩餐会は、イザベルと同じくらいの女の子だけじゃなくて、
かなり年上の方だったり、小さい女の子だったり、
とにかく、シリウス様を狙う花嫁候補で溢れかえっていたらしいわよ。」
メアリは自分で言って吹き出している。
「私も一度でいいから、シリウス様とダンスしてみたかったわ…
公務をこなしながら、13歳でツヴェルフェト大学…
その後は、ハバリー体技学院、トロス騎士学校…
…全部首席で卒業よ?
それに、若くて美しいなんて…
晩餐会では、シリウス様があんまりにも美貌で、美しい声でお話しになるもんだから、
気を失った令嬢もいたらしいわよ!」
リヒトの頭を、ワルツを歌いながらダンスをリードし、
鼻先が付く距離で自分を見つめる、
輝くアクアマリンの瞳がよぎっていった。
全てを背負い、
全てに立ち向かい、
全て得られない、
気品と威厳に満ちた君。
「そうそう、口元にすごく大きな傷がおありで…
北方民族が攻めて来たとき、シリウス様自ら剣をとって戦った時にできたって話でしょ?」
リヒトの顔からサッと血の気が引いた。
気付かず、メアリは続ける。
「イザベル、ダンスの時に『もう痛くないのですか?』って聞いちゃったんだって!」
リヒトは紙のように青ざめている。
「そしたらね、『これは、名誉の傷跡です。』ですって!
イザベル、もう、溶けちゃいそうだったって!
なんて素敵な大王様なのかしら…」
リヒトの方は、息も絶え絶えに、自分の指で自分の指を、皮が破れるほど力一杯引っ張っている。
しかし、メアリは、リヒトの分のマカロンも口に放り込みながら、
あっさりと現実的な口調に戻った。
「まあ、でも、夢は夢のままがいいのかもね。」
そのメアリの言葉に、目が覚めたようにリヒトは顔を上げた。
「夢は…夢のまま…」
「…まあ、シーリン、どうしたの?顔が青いわよ?」
リヒトはハッとして、それから、メアリに優しく笑った。
「何でもないわ。
ほら…メアリの…ブライアン様だって、普通の人から見たら夢のような殿方よ?」
「フフ、ありがとう!知ってるわ!…なんてね。
…ねえねえ…それより…」
メアリは、リヒトにいたずらっぽく微笑み返した。
「シーリン、ジェイクの求婚はどうするの?」
「ジェイクさんの?…あれは最初からお断りしてる。どうして?」
「だって、ジェイク、全然諦めてないじゃない…
毎日のように手紙をもらってるの、知ってるわよ!」
「…でも、私は…興味がないから…」
「うちの大番頭ロムニーの息子よ?
自己陶酔なところはあるけど、頭はいいし、何より貴女に夢中じゃない。
ロムニーだって乗り気だし…」
(ジェイク?あの人から抱き締められるなど、想像すらできない。)
リヒトは、「僕も会いたかった、リヒトさん」と耳もとでささやいたシリウスの、
喘ぐような熱い吐息を思い出して、
胸が張り裂けそうになった。
「今日は忙しいから、もう行くわ…ドレスはまた今度選ぶから!」
リヒトはメアリの方を見ずに、急ぎ足で部屋を出た。
メアリは、後ろから見てもはっきり分かるほど紅潮した頬と耳に唖然としながら、
リヒトを見送った。
「シーリン…そんなに、ジェイクのことが好きなの…?」




