穏やかな朝の影
出立の刻。
王都の通りには祝祭の名残が色濃く残り、
飾り付けられた旗や灯りが、朝の光の中で静かに揺れている。
人々のざわめきも絶えてはいない。
余韻は、なお街の隅々に息づいていた。
——だが。
その賑わいから切り離されたように、
シャマル邸の朝は、ひどく静かだった。
門の内側に一歩足を踏み入れれば、
外の喧騒はやわらかく遠のく。
そこにあるのは張り詰めた沈黙ではなく、
一夜を越えたあとの、穏やかな落ち着きだった。
門前には馬車が用意され、
御者が静かに手綱を整えている。
革の擦れる控えめな音が、
この静かな朝によく馴染んでいた。
見送りに立っているのは、
シャマル侯爵夫妻と、ファリス。
そして——ジャミーラの姿もある。
「短いご滞在ではございましたが……」
侯爵が穏やかに口を開く。
「お越しいただき、誠にありがとうございました。
殿下、そして皆さま。どうか道中、お気を付けて」
侯爵の背筋は、寸分の乱れもなく伸びている。
王宮での聖誕祭を終えたばかりとは思えぬほど、
その立ち姿は変わらず端正だった。
「お世話になりました」
ムスタファは簡潔に答え、
形式通りに一礼した。
続けて、夫人がライルに向き直る。
「イルハン様」
柔らかな微笑み。
「何かとお心配りをいただき、ありがとうございました」
「とんでもないことでございます」
ライルは、深く頭を下げた。
「こちらこそ、温かく迎えていただき、感謝しております」
そのやり取りを、
少し後ろで眺めていたファリスが、ふっと息を吐いた。
肩の力が抜けたような、
自然な仕草だった。
「ライル」
呼び捨てだった。
「またな」
「ああ。また」
ライルも、肩の力を抜いた笑みを返す。
「今度、ダウサリーに来ることがあれば、案内するぞ」
「お前が?」
ファリスは、口元を歪めて笑う。
「不満か?」
だが、その声音に棘はない。
むしろ、どこか楽しげだった。
軽口の応酬は、
この場に残るわずかな名残を、
さらにやわらかくほどいていく。
「いや。楽しみにしている」
二人は、それ以上言葉を交わさない。
だが、
必要なことはすでに伝わっている——
そんな空気があった。
「では」
ムスタファが、馬車へと足を向ける。
アルテリスとライルも、それに続く。
ジャミーラが、静かに一歩前に出た。
「皆様……」
言葉を選び、
それから、はっきりと。
「どうか、お気をつけて。
また学園でお会いできますことを、楽しみにしております」
その声音は穏やかで、
送り出す者としてのまっすぐな願いが込められている。
馬車の扉が閉まり、
ゆっくりと動き出す。
車輪が石畳を転がる音が、
静かな朝に規則正しく響いた。
シャマル邸の門が遠ざかっていく。
見送りの人影が、次第に小さくなっていく。
穏やかな朝だった。
⚜️⚜️⚜️
馬車が走り出して、しばらく。
窓の外の景色がゆっくりと後ろへ流れていく中、
ムスタファが何気なく口を開いた。
「シャマル侯爵令息と、随分親しくなったようだな」
淡々とした言葉だったが、咎める響きはない。
向かいの席に座るライルが、小さく笑った。
「おふたりがいらっしゃらない間に、意気投合しまして」
どこか楽しげな声音だった。
「お前の社交性には感心するな」
「恐れ入ります」
ライルは照れ臭そうに頬をかいた。
「そういえば」
ふと、ライルは表情を改める。
「ファリスから、少し気になる話を聞きました」
ムスタファは視線を上げ、先を促す。
「ダウサリーで——
学園の生徒が数名、行方不明になっているそうです」
「……行方不明?」
「はい。長期休暇に入る少し前から、姿を消した者がいるらしく。
家に戻りたくないため逃げたのでは、と噂されているようです」
ムスタファが、わずかに眉を寄せる。
「長期休暇前であれば、起こり得る話だな」
「ええ。
ダウサリーでも“よくある話”として片付けられているようです」
ライルはそう言って、肩をすくめた。
「ただ、ファリスは気にしていました。
消えた生徒で、家庭環境に問題があった者はほとんどいないらしい。
件数としても、やや多いのではないかと」
ムスタファは、しばらく黙って考え込む。
馬車の揺れだけが、静かに続く。
「……なるほど」
それだけ言って、視線を窓の外へ向けた。
今は、まだ判断材料が足りない。
ただの偶然かもしれない。
あるいは、どこにでも起こりうる不幸の連なりかもしれない。
だが——
「覚えておこう」
低く、静かな声。
「些細な違和感ほど、後になって牙を剥く」
ライルは小さく頷いた。
アルテリスは、黙ってその話に耳を傾けていた。
馬車は、変わらぬ速度で進み続ける。
窓の外の景色だけが、静かに流れていた。




