至純の毒
長期休暇の間、学園が静寂に包まれる一方で、聖騎士団には変わらない日常が流れている。外部へ任務に出る者、支部内で業務にあたる者、訓練を行う者——。
その日も、アルテリスとムスタファは聖騎士団の訓練に参加していた。
「——これより模擬戦を開始する」
教官の鋭い声が、乾いた空気を震わせた。
向かい合うムスタファとアルテリスは、示し合わせたように同時に一礼を交わす。間合いは十歩。
「実戦を想定せよ。ただし、重傷を負わせる一撃は禁ずる。……始め!」
刹那、両者の足元からマナが立ち昇り、詠唱がほぼ同時に紡がれた。
「《火の精よ。
猛き焔を以て、彼の者を推し潰せ》」
「《火の精霊よ。
束ねし焔を以て、彼の者を貫きたまえ》」
術式の“形成”は、アルテリスの方が僅かに早かった。彼の周囲に幾つもの火の玉が音もなく顕現する。拳大のそれは、陽炎すら立てぬほど極限まで凝縮された熱を宿していた。
(……速い)
ムスタファが目を細めた次の瞬間、空気を裂く鋭い音とともに火球が一斉に放たれた。それは直線ではなく、わずかに軌道を変えながら逃げ道を塞ぐように迫る。回避の先を完全に“読んだ”配置だった。
対するムスタファの術は、まだ完全には形成されていない。彼は躊躇することなく即座に地を蹴り、回避へと転じた。遅れれば直撃という状況下で、火球が彼のいた空間を容赦なく穿っていく。
着地と同時に、ムスタファのマナが一気に膨れ上がった。形成が間に合ったのだ。
「——前へ!」
轟音とともに顕現したのは、圧倒的な質量を誇る炎だった。先ほどの火球とは対照的に、荒々しく空間を押し広げながら巨大な炎がムスタファの周囲に渦巻く。それは単なる塊ではなく、押し潰すような質量と圧力を伴う奔流となって押し寄せた。空気が焼け、熱で視界が歪む。
アルテリスは即座に地を蹴った。一歩、二歩——しかし足を止める暇はない。炎は直線ではなく、“面”で押し潰してくる。このままでは避けきれないと悟り、アルテリスはわずかに視線を細めた。正面で受け止めれば、力で押し負けるのは明白だ。
ならば、と彼は踏み込みを止める。
「《火の精霊よ。彼の焔を導きたまえ》」
静かな声とともに、彼の周囲に薄く炎が立ち上る。流れるように斜めへと傾いた“炎の面”が、迫る奔流と接触した。
次の瞬間、炎と炎がぶつかり合うことなく噛み合う。押し潰すはずだったムスタファの炎は軌道を逸らされ、地面を焼きながら側面へと流れ抜けていった。すさまじい熱風が、アルテリスの外套を激しくはためかせる。
「流石だな」
ムスタファは隠しきれない感嘆の息を漏らした。ここで手加減をすれば、アルテリスなら即座に気づくだろう。それは従者に対する何よりの侮辱であると理解しているからこそ、彼は全力で打ち倒す覚悟を決めた。
「——押し切るぞ」
迷いは術を鈍らせ、アルテリスの献身に対する不誠実となる。そう判断したムスタファは、あえてマナをもう一段階引き上げた。先ほど流されたはずの炎が途切れることなく、層を成してさらに増大していく。
押し寄せる熱の波が、上からもう一段叩きつけられる。受け流したはずの軌道に新たな圧が加わり、アルテリスが傾けた炎の“面”が軋みを上げた。
アルテリスの額をひと筋の汗が伝う。これ以上マナを増幅させれば、この熱波を断つことは叶う。だが、その一線を越えた先に待つ結末を彼は知っていた。だからこそ、彼は決して火力を上げない。
「……っ!」
限界を迎え、アルテリスがわずかに一歩後退した。その隙をムスタファは見逃さず、猛炎が一気にアルテリスを飲み込もうと迫る。
「——止め!」
教官の号令が訓練場に響き渡った。術式の光が消え、溢れ返っていた炎は嘘のように霧散する。
「勝負あり。ムスタファ殿下の優勢とする」
訓練場に再び静寂が戻り、二人は肩で乱れた呼吸を整えた。ムスタファはすぐさまマナを収束させ、視線だけでアルテリスの安否を問う。「障りはないか」と平静を装う声には、確かな真剣さが伴っていた。
「はい。問題ございません」
簡潔な返答を聞き届けた教官が、二人を見比べてゆっくりと口を開く。
「講評を述べる」
場の空気が一段と引き締まった。
「ムスタファ殿下。そのマナ保有量は、他を圧倒しております。この年齢での出力、実に見事でございます。ですが——」
教官は言葉を継ぐ。
「術の構成がやや荒く、出力に意識を奪われて制御が疎かになる場面が見受けられました。今後はマナ制御の精密訓練に重きを置くのがよろしいでしょう」
「……肝に銘じる」
次に、教官の視線がアルテリスへと向く。
「マナの制御、術式の構築、判断の速さ。どれを取っても優秀だ。だが……」
教官は一瞬の躊躇を見せた後、率直な事実を口にした。
「正直に言えば、同世代と比しても貴殿のマナ保有量は少ない。致命的なほどにだ。その薄氷を踏むような精密な技術がなければ、最初の一撃で沈んでいただろう」
アルテリスは、静かに瞼を伏せた。
「マナの器は天性によるものが大きいが、成長と共に増える例もある。諦めるな。訓練を怠らなければ、努力は必ず形となって現れる」
「承知いたしました」
深く一礼するアルテリスの姿には、静かな覚悟が宿っていた。
⚜️⚜️⚜️
訓練場を後にした二人の前に、壁際で待ち構えていたかのように一人の女性が歩み寄ってきた。副団長ジゼル・オリヴィエだった。
「お疲れさまでございました」
落ち着いた、しかしどこか含みのある声。彼女は銀髪を揺らし、真意の見えない柔らかな微笑を浮かべている。
「オリヴィエ副団長。何か用か」
ムスタファの問いに、ジゼルは小さく肩をすくめて見せた。
「わたくしは治療師ですもの。聖騎士たちの訓練後の容態を把握しておくのは、当然の務めですわ」
その視線が一瞬だけアルテリスに向けられる。品定めするように、そして慈しむように。
「……なんとも、麗しき主従関係ですこと」
甘い声の響きには、明らかな棘が含まれていた。ムスタファが不快げに眉をひそめる。
「お二人とも、実に見事にお互いを尊重し合っていらっしゃる。——ですが、本当に相手を想うのであれば、“見て見ぬふり”をすることは決して優しさとは呼べませんわ」
アルテリスは表情ひとつ変えず、静かにジゼルの言葉を受け止めた。ムスタファは沈黙を守ったまま彼女を射貫くように見つめ返した。
「治療師として、率直に申し上げます」
ジゼルは、ムスタファを正面から見据えて声の温度を消していった。
「主を思い、健気に己を殺し続ける従者。それを承知の上で、彼の沈黙を盾に手元に留め続ける主。美しい構図ではありますが、決して健全とは言えません。早急に、その関係性を見直されるべきですわ」
重苦しい沈黙が場を支配する。
「副団長、ご心配には及びません」
主の沈黙を遮るようにアルテリスが静かに制するが、ジゼルは引かなかった。
「分かっているわ。あなたが望んでその役割に投じていることも。誰にも打ち明けず、誰にも迷惑をかけまいと独りで抱え込んでいることも」
ジゼルの瞳に、一瞬だけ柔らかな光が宿る。
「けれどね、アルテリスさん。力を抑え込み、痛みを隠して平然と振る舞うこと……それは本当に“強さ”かしら?」
そして、彼女の視線は再びムスタファへと向けられた。
「殿下。アルテリスさんのその“沈黙”を、安易に忠誠と受け取ってはなりません」
深い沈黙の後、ムスタファはやがて低く答えた。
「……分かっている」
それは否定ではなく、苦渋を含んだ事実の肯定だった。ジゼルは満足げに、あるいは悲しげに目を細める。
「でしたら——」
さらにもう一歩踏み込もうとしたジゼルを、ムスタファの峻厳な眼差しが押し止めた。
「だが、貴殿が口を挟む領域ではない」
その明確な拒絶に対し、ジゼルは静かに、宣告するように言い放った。
「……いつか、取り返しのつかないことになりますわよ」
彼女はそれ以上は語らず、優雅に踵を返してその場を去っていった。
残された二人の間には、重く冷たい静寂だけが横たわっていた。
誰よりもその危うさを理解しているのは、他ならぬ自分たちだ。それでも——二人はまだ、これ以外の道を探し出すことができずにいた。




