夜を分かつ者
夕食の席は、静謐な調和のもとに整えられていた。
銀の食器や磨き上げられたカトラリーが、柔らかな燭光に淡く反射している。皿の上には、丁寧に盛り付けられた料理が並ぶが、その華やかさは控えめで、主張しすぎることはない。
豪奢さは確かにある。だが、華美に過ぎず、威圧するような派手さもない。
すべてが慎重に選ばれ、シャマル家らしい品格と落ち着きが、空気に自然に溶け込んでいる。椅子やテーブルの配置、布の質感、燭台の高さや光の陰影に至るまで、計算された静けさがそこにはあった。
「長男のファリスでございます。
現在、ダウサリーに在学しております」
紹介された青年は、立ち上がって深く頭を下げた。
ランデュート特有の漆黒の髪に、深紅の瞳。
その面差しには、侯爵とよく似た面影があった。
だが——
よく整えられた父とは対照的に、
髪はやや無造作で、どこか肩の力が抜けている。
体格はしっかりとしているが、
それは侯爵のような“揺るがぬ重み”ではなく、
まだ若さゆえの勢いを感じさせるものだった。
そして何より——
その瞳には、隠しきれない優しさが宿っている。
「お会いできて光栄に存じます、殿下」
礼儀正しく、穏やかな声。
だがその表情には、どこか疲労の色が滲んでいた。
食事は、淡々と、しかし着実に皿の上で進んでいく。
会話は慎み深く、当たり障りのない話題に終始した。
誰も昼間の出来事には触れようとせず、その沈黙の選択が、かえって場の緊張を控えめに膨らませている。
微かな間合いの取り方や視線の動きが、言葉の裏に隠れた感情を暗示していた。
やがて、夫人が言葉を選ぶように口を開いた。
「今は、何かと落ち着かない時期でございますから」
一瞬の間。
「差し支えなければ——
皆さまも、しばらくこちらにご滞在くださいませ」
ムスタファは一拍置いて、頷いた。
「感謝いたします」
こうして、食事の時間は表向きには穏やかに閉じられた。
言葉少なで、笑顔や微笑みはあるものの、その裏側では誰の胸の奥にも、微かな緊張が残っている。
手元のカトラリーを置く指先のわずかな硬さや、時折交わされる目線の一瞬の揺れが、それを静かに物語っていた。
夜は静かに進むが、室内に漂う空気は、決して完全な安らぎにはほど遠く、表面上の穏やかさの下で、緊張はまだ耐えずに息づいていた。
⚜️⚜️⚜️
夜。
灯りの落とされた廊下を歩くライルの視線が、ふと窓の外に留まった。
静まり返った庭園の中、月明かりに銀色の影が浮かび上がる。
人影はゆっくりと歩みを進め、柔らかい月光が漆黒の長髪を艶めかしく照らす。
赤い瞳だけが暗闇の中でひときわ鮮烈に光り、静かな夜の空気を切り裂くようだった。
(……シャマル様)
確認するより早く、
身体が動いていた。
音を立てぬよう外へ出ると、
夜露を含んだ空気が、肌を撫でる。
庭園の奥、
ジャミーラは、噴水の縁に腰を掛けていた。
長く流れる布地は静かに足元に広がり、深い色合いが夜の影に溶け込む。
肩や腕を覆う繊細な生地が柔らかく光を反射し、彼女に品格を添えていた。
気配に気づいた瞬間、彼女はふと振り返る。
「……イルハン様」
その声は夜の空気に溶けるように柔らかく、赤い瞳がわずかに揺れた。
「眠れなくて」
それだけ告げると、視線はそっと水面の方へ戻る。余計な言葉はなく、静けさの中に自然と落ち着きが宿る。
ライルは軽く一礼し、距離を保ったまま立つ。
互いの存在を確かめるような短い沈黙。
だが、不思議と重苦しさはなく、夜の庭園に静かな余韻が広がっていた。
「……不思議ですわよね」
ジャミーラが、ぽつりと呟く。
「昼間はあれほど胸が詰まって、息も詰まるようでしたのに……
夜になると、少しだけ、楽になりますの」
その横顔に、言葉にしきれない揺らぎが映る。
「家族は……とても、優しいのです」
ライルはただ、耳を傾ける。
「熱を出せば夜通し付き添ってくれて、
怪我をすれば、ひどく心配して」
微笑む。
だが、その笑みはどこか脆い。
「父と母と血の繋がりはありません。
それでも——
わたくしを“娘”として愛してくれていることは、
一度も疑ったことはありませんでした」
指先が、無意識にスカートを握る。
「でも……」
言葉が、少し詰まる。
「だからこそ——
わたくしは、わたくしの夢を応援して欲しかった。
心配して閉じ込めるのではなく、
信じて、背を押して欲しかったのです」
視線が落ちる。
「このようなことを思うわたくしは……
我儘、なのでしょうか」
静かな夜風が髪をそっと揺らし、沈黙の中に零れる彼女の声が、夜の空気に溶けていった。
ライルは、すぐには答えなかった。
同情は、容易い。
だが、それは彼女が求めているものではない。
「……俺は」
やがて、ゆっくりと口を開く。
「シャマル様のお気持ちも、
侯爵ご夫妻のお気持ちも——
どちらも、理解できるつもりです」
ジャミーラが顔を上げる。
「両親というものは、
子が傷つく可能性を、
自分が傷つく以上に恐れるものです。
それが、過保護であっても。
行き過ぎていたとしても」
一拍、間を置いて。
「ですが——
シャマル様が、ご両親に信じて欲しいと願うことは、
決して我儘ではありません」
はっきりと、言葉を選ぶように。
「子としての、当然の権利です」
ジャミーラの瞳が、わずかに見開かれる。
ライルは、月明かりに照らされた庭を見つめたまま、続けた。
「……俺も、自分の両親に信じてもらえないと感じた時は、
正直、苦しかった」
多くは語らない。
それでも、その一言には確かな重みがあった。
月光の下で、
ジャミーラの表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
「……ありがとうございます」
小さな声。
「そう仰っていただけて……救われました」
ライルは、静かに首を振った。
「ここからですよ」
責めるでも、急かすでもない声音。
「ただ“やりたい”という気持ちだけでは、
きっとご両親には届きません」
一つひとつ、指折り数えるように。
「シャマル様は、何を目指しているのか。
神聖術師とは、どのような存在なのか。
そして——なぜ、そこまで憧れたのか」
視線を、彼女に戻す。
「順を追って、正直に話しましょう。
ご両親は……きっと、耳を傾けてくださいます」
夜風が、二人の間を静かに通り抜ける。
噴水の水音は、いつも通り穏やかに響き、庭園の静寂を優しく満たしていた。
だが、その夜は確かに——
彼女にとって、これまでの迷いをそっと手放すような、ひとつの区切りとなった。




