親心
応接間には、穏やかな空気が流れていた。
茶が運ばれ、形式的な挨拶が交わされる。
当主の言葉も、ムスタファの返答も、いずれも非の打ち所のないものだった。
名門らしい、整いすぎた応対。
——それゆえに、わずかな違和感だけが、静かに浮き上がっていた。
一通りの社交辞令が落ち着いたところで、
ムスタファはゆるやかに視線を上げた。
「シャマル侯爵」
呼びかけは、あくまで穏やかだった。
当主が応じる。
「はい、殿下」
「少々、気になる話を耳にいたしました。
お伺いしてもよろしいでしょうか」
柔らかな物言い。
だが、その一言で空気がわずかに張り詰める。
「……何でございましょう」
当主の返答もまた、丁寧だった。
だがほんのわずかに、慎重さが混じる。
ムスタファは一拍置き、言葉を選ぶように続けた。
「近頃、ご令嬢の外出をお控えさせておられると伺いましたが」
その瞬間。
——空気が、静かに冷えた。
当主の視線が、ほんの一瞬だけ揺れる。
「その理由を、お聞かせ願えますか」
声音は変わらない。
穏やかで、丁寧なまま。
だが——
逃げ道だけが、静かに塞がれていた。
当主は、すぐには答えなかった。
代わりに、隣に座る夫人が静かに口を開く。
ランデュート特有の漆黒の髪は、艶やかに結い上げられている。
深紅の瞳は穏やかに細められていたが、その奥には揺るがぬ強さが宿っていた。
華奢にも見える体躯。
だがその佇まいは、決して弱さを感じさせない。
柔らかな物腰の奥に、
この家を支え続けてきた者だけが持つ、静かな覚悟が滲んでいた。
「……それは」
指先を重ね、祈るように。
「娘を、守るためでございます」
その言葉に、
ムスタファの眉が、わずかに寄る。
その言葉の意味を、すぐには飲み込めない——そんな表情だった。
それは、後ろに控えていたアルテリスも同じだった。
“守る”という言葉が、
あまりにも彼の知るそれと異なっていたからだ。
「社交界で噂になりました。
聖騎士見習い。
それも精霊術だけでなく、神聖術に関わる道を志していると」
夫人の声は、かすかに震えている。
「ランデュートでは、どのように見られるか……
殿下なら、ご存じでしょう」
「知っています」
ムスタファは即答した。
「その上で、伺っております」
声音は低く、硬い。
「娘を守るため——
仮にそれが真実だとしても、
なぜ外出を禁じるというご判断に至るのか——
私には理解しかねます」
室内の温度が、わずかに下がる。
この部屋の誰もが、ムスタファの背景を知っている。
だからこそ、重い沈黙が流れた。
「殿下……」
当主は言葉を選び、やがて口を開いた。
「私どもは、娘を誇りに思っております」
その言葉に、ムスタファの眉に皺が寄る。
アルテリスは目を伏せ、ライルの視線はムスタファに注がれた。
「聡明で、真面目で、誰かのために動ける子です。
本来であれば、どのような道を選ぼうと背を押したい」
——本来であれば。
「ですが」
当主の声が低くなる。
「世間は、それを許さない。
神聖術に関わる者が、どのような目で見られるか。
それが、どのような噂を呼ぶか」
「娘を守るには」
当主が続ける。
「その道を、諦めさせるほかないと判断いたしました」
ムスタファは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「……それは、本当に——ご令嬢のためと言えるのですか」
当主が、目を伏せる。
「もちろんでございます」
即答だった。
そこに偽りはない。
「ご存じかと思いますが、あの子は……」
当主の声が、少しだけ弱くなる。
「あの子は、実の娘ではございません」
空気が、わずかに揺れる。
「亡くなった兄夫婦の、忘れ形見でございます」
ムスタファは、何も言わない。
「だからこそ、です」
当主は続けた。
「二度と、失いたくないのです」
一拍。
「彼女が傷つき、
世間に押し潰され、
取り返しのつかない場所へ行ってしまうことが、
何よりも恐ろしい」
ムスタファは、すぐには答えなかった。
だが——
疑いは、消えていない。
(守る、という言葉で)
(閉じ込める理由を、正当化しているだけではないのか)
アルテリスも、同じ考えだった。
彼らは、
“愛するがゆえに生まれる恐怖”を
知らない。
だから、まだ信じ切れない。
そのとき。
「——お父様、お母様」
静かな声が、応接間に落ちた。
扉の前に立っていたのは、
ジャミーラだった。
誰よりも、
この場に立つ資格を持つ者。
「申し訳ございません。
はしたないこととは存じながら、話を聞いておりました」
夫妻が、息を呑む。
「わたくしを守ろうとしてくださったこと、
分かっております」
「でも」
一歩、前へ。
「わたくしを信じてくださらなければ、
それは“守る”ことにはなりません」
ムスタファは、その背中を見つめていた。
まだ、疑いは消えない。
だが——
これは、
単なる支配ではないかもしれない。
そう思い始めた自分に、
彼自身が戸惑っていた。
——対話は、まだ始まったばかりだった。




