少女の夢
あれからジャミーラは、毎日のように放課後の図書館へ通い、アルテリスを見つけては共に勉強をするようになっていた。
図書館以外で顔を合わせることは、ほとんどない。言葉を交わす時間も、ほんのわずかだ。
それでも——周囲からの冷たい視線に晒される学園生活の中で、彼と過ごす静かなひとときだけは、ジャミーラにとって唯一、心から息をつける心地のよい場所だった。
ある日の帰り道。夕日が高窓から差し込む廊下で、ジャミーラは歩みを緩めた。
「ねえ、アルテリスさん。今度……よろしければ、一緒にお茶でもいかがかしら?」
ふと思い立ち、ほんの少しの勇気と、彼ともっと話してみたいという下心を振り絞って誘ってみる。
だが、返ってきたアルテリスの表情は、予想に反してどこか硬かった。
「私と……ふたりで、でございますか?」
「ええ、そうよ」
「シャマル様には、ご婚約者がおられます。
これ以上、異性とふたりきりで過ごされるのは……周囲の目も含め、相応しくないかと存じます」
淡々と、けれど真剣な眼差しで告げられ、ジャミーラは思わず足を止めた。心臓が嫌な音を立てる。
「……知っていらしたのね?」
「この学園においては、周知の事実かと……」
ランデュート王国侯爵令嬢、ジャミーラ・シャマル。そして、同国の第二王子の婚約者——
それは確かに、彼女を遠巻きにする生徒たちの間で、格好の噂の種だった。
けれど、アルテリスは図書館での時間を、いつも何の迷いもなく受け入れてくれていた。だからジャミーラは、彼はその事実を知らないのだと、勝手に思い込んで安心していたのだ。
(知っていたのなら……どうして、何も言わなかったのかしら)
拒絶されたような寂しさと、彼の意図が見えない不安で、胸の奥がわずかにざわつく。それでも、ここで引き下がりたくはなかった。
「わたくしは……もう噂なんて気にしないわ。それに、お誘いしたのは“友人として”よ。……迷惑かしら?」
傷ついたような顔をして見せる自分を、少しずるいと思った。
けれど、アルテリスはそんな彼女を見て、困ったように小さく首を横に振った。
「……いえ。そのようなことは、決して。
明日の放課後、裏庭にてお待ちしております」
彼の見せた複雑そうな表情とは裏腹に、紡がれた承諾の言葉。それだけで、ジャミーラの視界はぱっと世界が色づくように明るくなった。
⚜️⚜️⚜️
「風が気持ちいいわね」
学舎から離れた裏庭の一角。
色とりどりの瑞々しい花々に囲まれたガゼボで、ジャミーラは香り高い茶を味わい、深く息を吐き出した。
「こんなに素敵な場所なのに……どうして誰もいないのかしら」
「こちらは本来、生徒会役員のみ利用を許されている場所でございます」
ぽつりとこぼした言葉に、対面に座るアルテリスが控えめに答える。
ジャミーラは、思わずカップを持ったまま目を見開いた。
——そういえば、ここへ来る途中、生垣の門で門番がアルテリスに恭しく頭を下げていた。あれはただの挨拶ではなく、身分の確認だったのだ。
「わたくしたちが使っても……本当に大丈夫なの?」
「生徒会長よりご許可をいただいております。
どうぞ、ご安心くださいませ」
いつもと変わらない落ち着いた声が、ジャミーラのささやかな不安を静かにほどいていく。
ほっと胸をなでおろした彼女の視線は、自然とアルテリスの身なりへと向いた。
彼が纏うのは、生徒たちの基本形である漆黒の制服。けれどその肩には、椅子の背へ流れるように、役員である証の特別な外套が優雅に羽織られている。この学園で限られた者しか身につけることを許されない、格式高い意匠だ。
「そういえば……アルテリスさんも、生徒会の役員なのよね」
「はい。特別生徒は、入学と同時に役員となりますので」
静かに茶を口に含むアルテリス。その指先や背筋の美しさは、生まれながらの気高い貴族のように洗練されていて、見惚れてしまうほどだった。
「ねえ、アルテリスさん。どうして、この学園に入学しようと思ったの?」
聖エリュシア学園は、各国の王侯貴族の子女が集う最高峰の学び舎だ。平民である彼がここに立つには、特別な推薦と超難関試験への合格——それに値する、強い理由があるはずだった。
「私には、生涯お仕えしたいと心に決めたお方がおります。その方がこの学園へ入学なさり、私も試験を受けさせていただきました」
それは、ジャミーラにとって全く意外な答えだった。いつも孤独を纏って独りでいる彼が、誰かの影として膝を折っている姿など、想像もつかなかったからだ。
「……どなた?」
「それは……今はまだ、申し上げられません」
わずかに声音に混ざった迷い。けれど、“まだ”という言葉の響きに、ジャミーラの胸の奥がほんのりと熱くなる。いつか、自分を信頼して教えてくれる日が来るのだろうか、と。
だからそれ以上は、彼の秘密に踏み込まなかった。
しばらくの沈黙の後、アルテリスがすっと背筋を正し、琥珀色の瞳をまっすぐに向けた。
「シャマル様。私からも、ひとつ……お尋ねしてよろしいでしょうか」
「何かしら?」
「“神聖術”に、ご興味がおありなのですか?」
心臓が、きゅっと跳ねた。
驚いて理由を尋ねると、アルテリスは静かに答える。
「図書館で、神聖術に関する古い書物を、熱心にご覧になっておられましたので」
「……」
思い当たる節がありすぎて、ジャミーラはきまり悪そうに頬を染めた。
「……少し、ね。でも、大きな声では言えないわ。わたくしは“ランデュート王国の民”で、“王子の婚約者”でもあるもの」
神々を信仰する聖教会から、最も距離を置かれている国——ランデュート王国。その出身者であり、王室に連なる自分が、聖教会の秘術である神聖術に憧れていると知れたら、どんな火種になるか分からない。
けれど、目の前の少年になら、本当のことを話してもいいような気がした。
ジャミーラは遠い空を見つめ、ぽつり、ぽつりと、心の奥底に沈めていた記憶を紡ぎ始めた。
「……三年前の“大厄災”。世界を覆っていた大結界が破られて、魔族がジャルダンへなだれ込んだ、あの日——。わたくしの家も、魔族に襲われたの。父も、母も、兄も弟も……皆、わたくしの目の前で命を落としたわ」
ジャミーラは、辛い記憶から逃れるように手元のカップへ視線を落とした。そのため、対面に座るアルテリスの指先が、ほんの僅かにカップを握りしめたことにも、すぐに何事もなかったかのようにその力を抜いたことにも——彼女が気づくことはなかった。
「あの時、わたくしも死ぬはずだった。けれど、聖騎士団の方が来てくださって……わたくしだけ、助け出されたの」
脳裏に蘇るのは、赤く染まった床。動かなくなった大好きな家族。迫る魔族の刃。恐怖で、足がすくんで動かなかった幼い自分。
「何が起きたのかも分からないまま連れて行かれて……気がついたら、教会にいたわ。
家族を失って……しばらくは水も喉を通らなかった。泣き方も忘れて、涙も出なくて……ただ、真っ暗で……」
押し殺していた声が、かすかに震えを帯びる。
「死んでしまいたいとさえ……思っていたわ」
——そのときだった。絶望の底にいたジャミーラの前に、一人の神聖術師が現れた。
「……その神聖術師の方が、優しく歌を歌ってくださったの。
とても綺麗で、温かくて……。その歌を聴いているうちに、心に無理やり押し込んでいた痛みが全部溢れて……その日は、何年ぶりか分からないくらい、声をあげて大泣きしたわ」
当時の光景を思い出すジャミーラの瞳に、微かな光が灯る。
「まるで、その歌が……闇の中にいた私の手を引いて、外へ連れ出してくれたみたいだった」
純白の制服に身を包んだ、優しくも凛とした姿。民を救う力と、傷ついた心に寄り添う優しさを併せ持つ、本物の神聖術師。
「だから思うの。わたくしも、あの方のように……誰かの深い絶望を救える、そんな神聖術師になりたいって」
——けれど。
「でも……叶わない夢なのよね」
自嘲気味に、ジャミーラは力なく小さく首を振った。国の立場、自分の義務。それらが彼女の翼を縛っている。
「それでも——シャマル様はその夢を追うために、この学園をお選びになられたのですね」
「そうね……。
自分の立場を考えればいけないと分かっているのに……本国から遠く離れたこの学園なら、隠れて学べるかもしれないなんて、心のどこかでどうしても諦めきれなくて……。
わたくし、淡い期待を抱いてしまっているのね」
それきり、アルテリスは何も言わなかった。
けれど、彼の沈黙は、突き放すような冷たさでは決してなかった。否定も肯定もしないその静けさは、ただ深く、ジャミーラの抱える大きな傷と痛みを、そのままそっと受け止めてくれているかのように、彼女の心に優しく染み渡っていった。




