譲歩
夕方の回廊は、まだ人の気配が残っていた。
試験を控えているからか、
行き交う生徒たちの声は低く、足取りには微かな焦りが滲んでいる。
「……アルテリスさん」
「はい」
呼びかけに、彼はいつも通り応じた。
「背中の……傷のことなのだけれど」
一度、言葉を切る。
ほんのわずかに空気が張るのを感じながらも、ジャミーラは視線を逸らさなかった。
「やはり、わたくしは納得していないの」
「……」
「あの傷が、一晩で良くなるとは思えないわ」
歩調を崩さないまま続ける。
「昨日あなたにお話したことは、すべて本心よ。
あなたが“大丈夫”と言っても、わたくしにはそうは思えないの」
一拍おいてから、静かに言葉を重ねた。
「理由があるのなら、話してほしいわ。
そう思っているの」
「シャマル様……」
アルテリスは何か言いかけて——
結局、言葉を選ばなかった。
沈黙が落ちる。
「……やはり、答えてはもらえないのね」
ジャミーラが先に口を開いた。
小さく息を吐く。
「……申し訳ございません」
アルテリスの声は、
静かで、柔らかく、わずかに沈んでいた。
ジャミーラの指先が、ぎゅっと握られる。
「あなたが話したくないのなら——」
わずかに言葉を探し、
「今回は、これ以上聞かないわ」
その言葉に、アルテリスの視線がわずかに揺れた。
「ただ」
穏やかな声で、静かに続ける。
「わたくしが気にかけていることは、覚えておいて」
歩みを止めないまま、並んで進む。
「それから——」
ほんの少しだけ声音が柔らぐ。
「わたくしが、あなたを友達だと思っていることも」
それだけだった。
「この話は、これでお終いにするわ」
そう言って、ジャミーラはわずかに微笑む。
「試験前ですもの。
気を散らすのは、あまり良くないでしょう?」
ジャミーラは歩きながら、胸の奥で静かに息を整えた。
本当は、まだ言いたいことはあった。
聞きたいことも、確かめたいことも。
——けれど、今日はここまで。
それが“諦めた”わけではないことを、
ジャミーラ自身がよく分かっていた。
『一度で、わかってもらおうとしなくていい』
ライルの言葉が、ふと胸をよぎる。
『拒まれても、線を引かれても……
それでも、声をかけ続けることが、信頼になる』
だから今日は、答えを強要しなかった。
代わりに——
“気にかけている”という事実と、
“友達だと思っている”という気持ちだけを、
彼の手の届く場所に置いてきた。
(焦る必要はないわ)
今日伝えなかった分は、
また次に、静かに重ねればいい。
ジャミーラは背筋を伸ばし、前を向いた。
(……諦めない、ということは)
(追い詰めることではなく)
(そばに居続けることなのだと、
教えてもらったのだから)
⚜️⚜️⚜️
アルテリスは、彼女の背中を見送りながら歩調を整えた。
夕暮れの回廊に、長い影が伸びている。
並んで歩いていたはずなのに、
いつの間にか、ほんの半歩ほど距離が開いていた。
ジャミーラは前を向いたまま歩いている。
振り返ることも、言葉を探すこともない。
ただ、静かに歩いていた。
それが——
かえって胸に残る。
先ほどの会話は、穏やかに終わった。
責められることも、問い詰められることもなかった。
それで十分なはずだった。
それなのに。
胸の奥が、妙に落ち着かない。
『……試験前ですもの』
もっともらしい理由だ。
相手を責めることなく、
思いやりすら感じさせる身の引き方。
(……気を遣わせてしまいましたね)
胸の奥に、わずかな痛みが走る。
分かっている。
彼女が身を引いたのは、
自分が何も話さなかったからだ。
そして——
その沈黙が、彼女を苦しめていることも。
『覚えておいて』
その言葉が、思いの外強く残っている。
『わたくしが気にかけていることは』
『わたくしが、あなたを友達だと思っていることも』
胸の奥で、静かに反芻される。
アルテリスは小さく息を吐いた。
彼女は引いた。
これ以上踏み込まないと示した。
それなのに——
その距離が、なぜか以前より近く感じる。
追及される方が、まだ楽だった。
問い詰められれば、かわすことができる。
責められれば、距離を取ればいい。
けれど、あの言い方ではそうもいかない。
答えを求めず、ただ置いていく。
「覚えておいて」と。
そうされることで、
すべて話してしまおうかと、迷いさえ生まれる。
まるで、逃げ場を塞がれたような気分だ。
アルテリスの視線が、前を行くジャミーラの背中を捉える。
艶やかな黒い髪が、夕暮れの光の中で静かに揺れていた。
彼女は正義感が強く、優しい人だ。
事情を説明すれば、きっと——
今よりずっと心配させるだろう。
そして、もっと強く止めるだろう。
無理をするなと言う。
危険だと諭す。
——だからこそ、言えない。
止められたとしても、
自分は止められないから。
視線を落とす。
もし止めれば——
それはムスタファに迷惑をかけることになる。
あの人の進む道を、鈍らせることになる。
(それだけは)
それだけは、許せなかった。
アルテリスは静かに目を閉じる。
ムスタファは、自分に居場所をくれた人だ。
何も持たなかった自分に。
存在していい場所を与えてくれた。
だから——
止めるわけにはいかない。
(私のせいで、
あの方の行く末に影が差すようなことはあってはならない)
そのためなら。
(シャマル様には、申し訳ありませんが)
これが、最善の選択だ。
だから彼女を苦しめていても、話すわけにはいかない。
胸の奥に残る罪悪感を、そっと押し込める。
アルテリスは静かに息を吐いた。
胸の奥に残る違和感は、まだ消えない。
『友達だと思っていることも』
その言葉が、ふと蘇る。
けれど——
彼は、それ以上考えないようにした。
今、優先すべきことは別にある。
分かっている。
これは、ただの自己満足だ。
誰のためでもない、自分勝手な願いだ。
それでも。
——せめて。
せめて、殿下だけは。
自分のせいで苦しませたくないのだから。




