表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Jardin miniature 神々の箱庭で、少女たちは軌跡を紡ぐ  作者: kitty
第2章 変わりゆく繋がりの中で
51/90

譲歩

夕方の回廊は、まだ人の気配が残っていた。


試験を控えているからか、

行き交う生徒たちの声は低く、足取りには微かな焦りが滲んでいる。


「……アルテリスさん」


「はい」


呼びかけに、彼はいつも通り応じた。


「背中の……傷のことなのだけれど」


一度、言葉を切る。


ほんのわずかに空気が張るのを感じながらも、ジャミーラは視線を逸らさなかった。


「やはり、わたくしは納得していないの」


「……」


「あの傷が、一晩で良くなるとは思えないわ」


歩調を崩さないまま続ける。


「昨日あなたにお話したことは、すべて本心よ。

あなたが“大丈夫”と言っても、わたくしにはそうは思えないの」


一拍おいてから、静かに言葉を重ねた。


「理由があるのなら、話してほしいわ。

そう思っているの」


「シャマル様……」


アルテリスは何か言いかけて——

結局、言葉を選ばなかった。


沈黙が落ちる。


「……やはり、答えてはもらえないのね」


ジャミーラが先に口を開いた。


小さく息を吐く。


「……申し訳ございません」


アルテリスの声は、

静かで、柔らかく、わずかに沈んでいた。


ジャミーラの指先が、ぎゅっと握られる。


「あなたが話したくないのなら——」


わずかに言葉を探し、


「今回は、これ以上聞かないわ」


その言葉に、アルテリスの視線がわずかに揺れた。


「ただ」


穏やかな声で、静かに続ける。


「わたくしが気にかけていることは、覚えておいて」


歩みを止めないまま、並んで進む。


「それから——」


ほんの少しだけ声音が柔らぐ。


「わたくしが、あなたを友達だと思っていることも」


それだけだった。


「この話は、これでお終いにするわ」


そう言って、ジャミーラはわずかに微笑む。


「試験前ですもの。

気を散らすのは、あまり良くないでしょう?」


ジャミーラは歩きながら、胸の奥で静かに息を整えた。


本当は、まだ言いたいことはあった。

聞きたいことも、確かめたいことも。


——けれど、今日はここまで。


それが“諦めた”わけではないことを、

ジャミーラ自身がよく分かっていた。


『一度で、わかってもらおうとしなくていい』


ライルの言葉が、ふと胸をよぎる。


『拒まれても、線を引かれても……

それでも、声をかけ続けることが、信頼になる』


だから今日は、答えを強要しなかった。


代わりに——


“気にかけている”という事実と、

“友達だと思っている”という気持ちだけを、

彼の手の届く場所に置いてきた。


(焦る必要はないわ)


今日伝えなかった分は、

また次に、静かに重ねればいい。


ジャミーラは背筋を伸ばし、前を向いた。


(……諦めない、ということは)


(追い詰めることではなく)


(そばに居続けることなのだと、

教えてもらったのだから)


⚜️⚜️⚜️


アルテリスは、彼女の背中を見送りながら歩調を整えた。


夕暮れの回廊に、長い影が伸びている。


並んで歩いていたはずなのに、

いつの間にか、ほんの半歩ほど距離が開いていた。


ジャミーラは前を向いたまま歩いている。

振り返ることも、言葉を探すこともない。


ただ、静かに歩いていた。


それが——

かえって胸に残る。


先ほどの会話は、穏やかに終わった。


責められることも、問い詰められることもなかった。


それで十分なはずだった。


それなのに。


胸の奥が、妙に落ち着かない。


『……試験前ですもの』


もっともらしい理由だ。

相手を責めることなく、

思いやりすら感じさせる身の引き方。


(……気を遣わせてしまいましたね)


胸の奥に、わずかな痛みが走る。


分かっている。


彼女が身を引いたのは、

自分が何も話さなかったからだ。


そして——


その沈黙が、彼女を苦しめていることも。


『覚えておいて』


その言葉が、思いの外強く残っている。


『わたくしが気にかけていることは』


『わたくしが、あなたを友達だと思っていることも』


胸の奥で、静かに反芻される。


アルテリスは小さく息を吐いた。


彼女は引いた。

これ以上踏み込まないと示した。


それなのに——


その距離が、なぜか以前より近く感じる。


追及される方が、まだ楽だった。


問い詰められれば、かわすことができる。

責められれば、距離を取ればいい。


けれど、あの言い方ではそうもいかない。


答えを求めず、ただ置いていく。


「覚えておいて」と。


そうされることで、

すべて話してしまおうかと、迷いさえ生まれる。


まるで、逃げ場を塞がれたような気分だ。


アルテリスの視線が、前を行くジャミーラの背中を捉える。


艶やかな黒い髪が、夕暮れの光の中で静かに揺れていた。


彼女は正義感が強く、優しい人だ。


事情を説明すれば、きっと——

今よりずっと心配させるだろう。


そして、もっと強く止めるだろう。


無理をするなと言う。

危険だと諭す。


——だからこそ、言えない。


止められたとしても、

自分は止められないから。


視線を落とす。


もし止めれば——

それはムスタファに迷惑をかけることになる。


あの人の進む道を、鈍らせることになる。


(それだけは)


それだけは、許せなかった。


アルテリスは静かに目を閉じる。


ムスタファは、自分に居場所をくれた人だ。


何も持たなかった自分に。

存在していい場所を与えてくれた。


だから——


止めるわけにはいかない。


(私のせいで、

あの方の行く末に影が差すようなことはあってはならない)


そのためなら。


(シャマル様には、申し訳ありませんが)


これが、最善の選択だ。


だから彼女を苦しめていても、話すわけにはいかない。


胸の奥に残る罪悪感を、そっと押し込める。


アルテリスは静かに息を吐いた。


胸の奥に残る違和感は、まだ消えない。


『友達だと思っていることも』


その言葉が、ふと蘇る。


けれど——


彼は、それ以上考えないようにした。


今、優先すべきことは別にある。


分かっている。


これは、ただの自己満足だ。


誰のためでもない、自分勝手な願いだ。


それでも。


——せめて。


せめて、殿下だけは。


自分のせいで苦しませたくないのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ