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Jardin miniature 神々の箱庭で、少年少女は軌跡を紡ぐ  作者: kitty
第2章 変わりゆく繋がりの中で
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噂は風のように

ジャミーラを女子寮の入り口まで送り届けた帰り道。アルテリスは一人、夕暮れの回廊を歩いていた。


寮へ戻る生徒たちの流れはすでに途切れはじめ、広い回廊には彼自身の規則正しい足音だけがまばらに響いている。窓から差し込む斜陽が、冷たい石造りの床を長く赤く染め上げていた。


淡々とした歩みで角を曲がろうとした、その時。ひそやかな声が、ふとアルテリスの耳を打った。


「……あの方、本当に堂々としていらっしゃるわよね」


「ええ。聖騎士団見習いに選ばれて、ムスタファ殿下のご婚約者で——それでいて、あのお綺麗さでしょう?」


「羨ましいわ。あんな風に振る舞えたら素敵ですわね」


感嘆の声が、廊下の静けさに溶けていく。

柱の向こうに、立ち話をする数人の女子生徒の姿が見えた。おそらく下級生だろう。話題の対象が誰か——名前が出るまでもなかった。


「何をおっしゃっているの」


一人の声が、ふっと温度を失い、冷ややかな響きを帯びた。


「所詮、“悪魔の民”でしょう?」


普段のアルテリスなら、ただの取るに足らない噂話として、表情一つ変えずに通り過ぎただろう。

——けれど。


「赤い瞳は血のようだし、黒髪だって闇のよう」


その無思慮な言葉に、アルテリスの足がわずかに緩んだ。

彼女の高潔さを、優しさを何も知らないくせに。胸の奥で、静かな不快感がさざ波のように広がる。


「いくら取り繕っても、本質は変わらないのではなくて?」


ささやきが重なり、空気がわずかに濁る。


アルテリスは何も言わなかった。自分がここで顔を出せば、かえってジャミーラの立場を悪くする。感情を押し殺し、ただ静かに通り過ぎようとした。

その時だった。


「……そういえば」


別の声が、ふと思い出したように弾んだ。


「ご覧になりました?」


「何をですの?」


「今日もご一緒でしたわよね」


くすくす、と小さな笑い声が漏れる。


「ええ。入学した頃から、ずっとではありません? ほら、あの……」


言葉を探すような間。アルテリスの背筋に、嫌な予感が走った。


「金色の髪の方」


「殿下のお側にいらっしゃる……とても綺麗なお顔立ちの方ですわよね」


声が重なる。


「確かに。あのお二人、よくご一緒ですわね」


「ええ。もちろん、お相手の方は側近としての役目もあるのでしょうけれど」


声が、さらに一段低く潜められる。


「……なんだか、とても親しそうで」


小さな沈黙。それから、誰かがくすりと笑った。


「まさか、とは思いますけれど」


言葉を濁すように、好奇心に満ちた声が揺れる。


「そういうご関係、なのかしら」


含みを帯びた、下世話な笑い声が重なった。


アルテリスの足が、完全に止まった。

指先から急速に温度が失われていくような感覚。胸の奥で、無機質な思考の歯車が回り始める。


(……客観的には)


彼女を護衛し、付き従っている自分の姿が。


(そのように見えている、ということですね)


それ以上は聞かなかった。いや、聞く必要がなかった。

アルテリスは何事もなかったかのように歩き出した。だが、その歩みは先ほどよりも冷たく、張り詰めていた。


王子の婚約者と、その側近。

二人の間に不貞の噂が立つことの恐ろしさを、アルテリスは誰よりも理解している。それはムスタファの顔に泥を塗るだけでなく、ランデュートの民であるジャミーラの学園での立場を完全に孤立させ、破滅へと追いやる致命的なスキャンダルだ。


やがて、生徒会室の重厚な扉が見えてきた。

アルテリスは静かに呼吸を整え、ノックする。


「失礼いたします」


扉を開けると、そこにはライルの姿があった。本棚の隅に寄りかかるようにして、腕を組んで立っている。


「……アル」


ライルが振り向く。漆黒のお下げが、ふわりと揺れた。


「ライル様」


アルテリスはいつものように、感情の読めない顔で軽く一礼した。


「シャマル様の送り、ご苦労だったな」


「いえ。職務ですので」


淡々と答える。


「殿下は奥に?」


「ああ。今、アダンと話をされている」


「そうでしたか」


短いやり取りのあと、生徒会室には夕暮れの静けさが満ちた。

ライルは壁に寄りかかったまま、しばらくアルテリスの横顔をじっと眺めている。何か言おうとして言葉を選ぶように間を置き、それから、呆れたように軽く息を吐いた。


「あまり……シャマル様を悲しませるなよ」


アルテリスは、わずかに目を瞬かせた。

彼女が今日、自分に対して引いた態度。そして置かれた『友達』という言葉。


「……ライル様が、シャマル様にご助言をされたのですね」


「その様子だと、早速何か言われたのか」


ライルは苦笑する。


アルテリスは小さく息をつき、極めて冷静な声で答えた。


「ライル様のお役目は——殿下とシャマル様をお支えすることです」


「……なんだ、突然」


「私とシャマル様の間を、取り持つことではございません」


余計な気遣いは無用だという、冷徹なまでの正論だった。


「……それは、そうだが」


ライルは一瞬言葉に詰まる。


「婚約者殿が過ごしやすい環境を作るのも、俺たちの務めの内だ」


「……そうですね」


反論を予想していたのか、あまりに素直な返答にライルは怪訝そうに眉をひそめた。


「珍しいな。言い返さないなんて」


アルテリスは一瞬だけ視線を伏せた。言い返す理由などない。ライルの言う通り、ジャミーラが過ごしやすい環境を整えることもまた、自分たち側近の重要な職責の一つなのだから。


ライルは少し声を落とし、諭すように言った。


「とにかく——シャマル様に心配をかけるな」


それだけ言うと、ライルは照れ隠しのように肩をすくめた。


「俺から言うのも変な話だけどな」


アルテリスはしばらく黙っていた。

やがて、静かに、深く頭を下げる。


「……ご忠告、ありがとうございます」


感情の欠落した、ひどく礼儀正しい一礼。ライルは少し不服そうだったが、それ以上何も言わなかった。

二人並んで、ムスタファの話が終わるのを待つ。


アルテリスは立ったまま、静かに目を伏せた。

胸の奥で、先ほどの無責任な声がよみがえる。


『とても親しそうで』


『そういうご関係、なのかしら』


そして、ライルの善意の言葉。


『シャマル様に心配をかけるな』


アルテリスは誰にも気づかれないよう、小さく息を吐き出した。

ジャミーラは殿下の婚約者。そして自分は、殿下の影として生きる側近だ。


(このような噂が立つこと自体——)


アルテリスはきつく目を閉じた。


(あってはならないことです。あのお二人の名誉のためにも)


やがて、ゆっくりと目を開く。その琥珀色の瞳には、もう迷いはなかった。

試験の前に不自然な動きを見せるのは得策ではない。だが——試験が終われば。


(……距離を、置くべきですね)


これ以上、彼女の優しさに甘えて傍にいてはならない。自分が隣に立つことが、彼女を傷つける刃になるのなら。

この選択は、きっとまたジャミーラを悲しませるだろう。親身になってくれたライルの善意にも泥を塗ることになる。


胸の奥が冷たく軋むような気がしたが、アルテリスはその痛みを無視した。

それでも、これが最善だ。

これが——殿下の側近として、取るべき唯一の行動だ。


そう固く信じて。

夕暮れの薄暗い生徒会室の中で、アルテリスは一人、冷たく孤独な決意を形にしていた。

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