噂は風のように
ジャミーラを女子寮の入り口まで送り届けた帰り道。アルテリスは一人、夕暮れの回廊を歩いていた。
寮へ戻る生徒たちの流れはすでに途切れはじめ、広い回廊には彼自身の規則正しい足音だけがまばらに響いている。窓から差し込む斜陽が、冷たい石造りの床を長く赤く染め上げていた。
淡々とした歩みで角を曲がろうとした、その時。ひそやかな声が、ふとアルテリスの耳を打った。
「……あの方、本当に堂々としていらっしゃるわよね」
「ええ。聖騎士団見習いに選ばれて、ムスタファ殿下のご婚約者で——それでいて、あのお綺麗さでしょう?」
「羨ましいわ。あんな風に振る舞えたら素敵ですわね」
感嘆の声が、廊下の静けさに溶けていく。
柱の向こうに、立ち話をする数人の女子生徒の姿が見えた。おそらく下級生だろう。話題の対象が誰か——名前が出るまでもなかった。
「何をおっしゃっているの」
一人の声が、ふっと温度を失い、冷ややかな響きを帯びた。
「所詮、“悪魔の民”でしょう?」
普段のアルテリスなら、ただの取るに足らない噂話として、表情一つ変えずに通り過ぎただろう。
——けれど。
「赤い瞳は血のようだし、黒髪だって闇のよう」
その無思慮な言葉に、アルテリスの足がわずかに緩んだ。
彼女の高潔さを、優しさを何も知らないくせに。胸の奥で、静かな不快感がさざ波のように広がる。
「いくら取り繕っても、本質は変わらないのではなくて?」
ささやきが重なり、空気がわずかに濁る。
アルテリスは何も言わなかった。自分がここで顔を出せば、かえってジャミーラの立場を悪くする。感情を押し殺し、ただ静かに通り過ぎようとした。
その時だった。
「……そういえば」
別の声が、ふと思い出したように弾んだ。
「ご覧になりました?」
「何をですの?」
「今日もご一緒でしたわよね」
くすくす、と小さな笑い声が漏れる。
「ええ。入学した頃から、ずっとではありません? ほら、あの……」
言葉を探すような間。アルテリスの背筋に、嫌な予感が走った。
「金色の髪の方」
「殿下のお側にいらっしゃる……とても綺麗なお顔立ちの方ですわよね」
声が重なる。
「確かに。あのお二人、よくご一緒ですわね」
「ええ。もちろん、お相手の方は側近としての役目もあるのでしょうけれど」
声が、さらに一段低く潜められる。
「……なんだか、とても親しそうで」
小さな沈黙。それから、誰かがくすりと笑った。
「まさか、とは思いますけれど」
言葉を濁すように、好奇心に満ちた声が揺れる。
「そういうご関係、なのかしら」
含みを帯びた、下世話な笑い声が重なった。
アルテリスの足が、完全に止まった。
指先から急速に温度が失われていくような感覚。胸の奥で、無機質な思考の歯車が回り始める。
(……客観的には)
彼女を護衛し、付き従っている自分の姿が。
(そのように見えている、ということですね)
それ以上は聞かなかった。いや、聞く必要がなかった。
アルテリスは何事もなかったかのように歩き出した。だが、その歩みは先ほどよりも冷たく、張り詰めていた。
王子の婚約者と、その側近。
二人の間に不貞の噂が立つことの恐ろしさを、アルテリスは誰よりも理解している。それはムスタファの顔に泥を塗るだけでなく、ランデュートの民であるジャミーラの学園での立場を完全に孤立させ、破滅へと追いやる致命的なスキャンダルだ。
やがて、生徒会室の重厚な扉が見えてきた。
アルテリスは静かに呼吸を整え、ノックする。
「失礼いたします」
扉を開けると、そこにはライルの姿があった。本棚の隅に寄りかかるようにして、腕を組んで立っている。
「……アル」
ライルが振り向く。漆黒のお下げが、ふわりと揺れた。
「ライル様」
アルテリスはいつものように、感情の読めない顔で軽く一礼した。
「シャマル様の送り、ご苦労だったな」
「いえ。職務ですので」
淡々と答える。
「殿下は奥に?」
「ああ。今、アダンと話をされている」
「そうでしたか」
短いやり取りのあと、生徒会室には夕暮れの静けさが満ちた。
ライルは壁に寄りかかったまま、しばらくアルテリスの横顔をじっと眺めている。何か言おうとして言葉を選ぶように間を置き、それから、呆れたように軽く息を吐いた。
「あまり……シャマル様を悲しませるなよ」
アルテリスは、わずかに目を瞬かせた。
彼女が今日、自分に対して引いた態度。そして置かれた『友達』という言葉。
「……ライル様が、シャマル様にご助言をされたのですね」
「その様子だと、早速何か言われたのか」
ライルは苦笑する。
アルテリスは小さく息をつき、極めて冷静な声で答えた。
「ライル様のお役目は——殿下とシャマル様をお支えすることです」
「……なんだ、突然」
「私とシャマル様の間を、取り持つことではございません」
余計な気遣いは無用だという、冷徹なまでの正論だった。
「……それは、そうだが」
ライルは一瞬言葉に詰まる。
「婚約者殿が過ごしやすい環境を作るのも、俺たちの務めの内だ」
「……そうですね」
反論を予想していたのか、あまりに素直な返答にライルは怪訝そうに眉をひそめた。
「珍しいな。言い返さないなんて」
アルテリスは一瞬だけ視線を伏せた。言い返す理由などない。ライルの言う通り、ジャミーラが過ごしやすい環境を整えることもまた、自分たち側近の重要な職責の一つなのだから。
ライルは少し声を落とし、諭すように言った。
「とにかく——シャマル様に心配をかけるな」
それだけ言うと、ライルは照れ隠しのように肩をすくめた。
「俺から言うのも変な話だけどな」
アルテリスはしばらく黙っていた。
やがて、静かに、深く頭を下げる。
「……ご忠告、ありがとうございます」
感情の欠落した、ひどく礼儀正しい一礼。ライルは少し不服そうだったが、それ以上何も言わなかった。
二人並んで、ムスタファの話が終わるのを待つ。
アルテリスは立ったまま、静かに目を伏せた。
胸の奥で、先ほどの無責任な声がよみがえる。
『とても親しそうで』
『そういうご関係、なのかしら』
そして、ライルの善意の言葉。
『シャマル様に心配をかけるな』
アルテリスは誰にも気づかれないよう、小さく息を吐き出した。
ジャミーラは殿下の婚約者。そして自分は、殿下の影として生きる側近だ。
(このような噂が立つこと自体——)
アルテリスはきつく目を閉じた。
(あってはならないことです。あのお二人の名誉のためにも)
やがて、ゆっくりと目を開く。その琥珀色の瞳には、もう迷いはなかった。
試験の前に不自然な動きを見せるのは得策ではない。だが——試験が終われば。
(……距離を、置くべきですね)
これ以上、彼女の優しさに甘えて傍にいてはならない。自分が隣に立つことが、彼女を傷つける刃になるのなら。
この選択は、きっとまたジャミーラを悲しませるだろう。親身になってくれたライルの善意にも泥を塗ることになる。
胸の奥が冷たく軋むような気がしたが、アルテリスはその痛みを無視した。
それでも、これが最善だ。
これが——殿下の側近として、取るべき唯一の行動だ。
そう固く信じて。
夕暮れの薄暗い生徒会室の中で、アルテリスは一人、冷たく孤独な決意を形にしていた。




