拒まれても、なお
翌日。
生徒会室の午後は、穏やかな静けさに包まれていた。
机の上には開かれた参考書と、湯気の立つティーカップ。
窓から差し込む光が、書類の端を柔らかく照らしている。
「はぁ……」
ジャミーラの口から、大きなため息がこぼれた。
視線は教本に落ちている。
けれど、文字はほとんど頭に入ってこない。
昨日の回廊での会話が、何度も胸の奥で反芻される。
「悩み事ですか?」
向かいに座っていたライルが、羽根ペンを置いて顔を上げた。
「え……。ええ」
自分が一人ではないことを思い出し、
ジャミーラは途端に気恥ずかしくなった。
ライルは肩をほぐすように、小さく息を吐いた。
「少し休憩しますか?」
「そうですわね」
ジャミーラもそっと本を置く。
「伺っても?」
「……?」
「シャマル様の、悩み事です」
真っ直ぐな視線。
ジャミーラは一瞬言葉を選び、それから口を開いた。
「他者に心を開いてもらうには、どうすればいいのかと」
「アルテリスのことですか?」
迷いなく言い当てられ、ジャミーラは頷く。
「……ええ」
視線を窓の外へ逃がしながら、続けた。
「アルテリスさんとお話をしていると、時折……距離を感じるのです。
立場ゆえかもしれませんが、それ以上に、線を引かれている気がして」
「あいつと、何かあったのですか?」
「その……」
喉元まで出かかった言葉を、飲み込む。
言えない。
ライルはそれ以上踏み込まず、柔らかく言った。
「無理には聞きません。
ですが——俺も似たように感じることがあります」
「イルハン様も?」
「ええ」
一拍置いて、続ける。
「あいつは時折、身分や立場に固執して壁を作るんです。
特に、心配されたり気遣われたりすると」
横目で、ジャミーラを見る。
「イルハン様は、何でもお見通しですのね」
「似たような経験があっただけです」
軽く肩を竦める。
「イルハン様に対してもそうでしたら、わたくしにはもっと、ですわね」
「まあ、俺もあいつと会ってまだ一年弱ですから」
ジャミーラは目を丸くした。
「そうなのですか?
皆様仲がよろしいので、もっと長いのかと」
「そう見えるなら嬉しいですね。
実は——当初はもっと険悪だったんですよ」
驚くジャミーラに、ライルは小さく笑った。
懐かしむように遠くを見つめてから、
ふと思いついたように言った。
「丁度いい機会です。
——昔話でも、しましょうか」
「昔話?」
「ええ。
俺と殿下、そしてアルテリスの出会いの話です」
「是非、お聞かせくださいませ」
ジャミーラは目を輝かせた。
それに、ライルは微笑みを浮かべる。
カップを持ち上げ、
立ちのぼる湯気の向こうへ、視線を投げた。
⚜️⚜️⚜️
「俺の両親は、ランデュートでは変わり者でしてね」
穏やかな声が、少し遠くなる。
「外国が好きで、仕事以外でも二人で頻繁に旅に出ていました。
口癖はいつも“世界は広い”でしてね」
ライルは苦笑する。
「視野を広げろと、半ば強引にこの学園へ送り込まれたんです」
一拍。
「学園に入ってからは——地獄でした」
穏やかな声の奥に、冷えた記憶が滲む。
「“悪魔”。それが俺の呼び名でした。
陰口は日常茶飯事。
だんだん授業に出るのも嫌になって、
三年ほど腐っていました」
「……それでも進級は」
「ええ。試験だけは受けてましたから」
小さく笑う。
「意地、ですね」
そして、声が少し低くなる。
「四年になった頃。
風の噂で、ランデュートの王子が編入されたと聞きました」
ジャミーラの指先が、わずかに動いた。
「ある日、掲示板で試験結果を見た時です。
上位に殿下の名前があるのを見て、
——お会いしたくなったんです」
ライルはわずかに自嘲を込める。
「正直に言えば、下心です」
「下心?」
「ええ。近づけば、俺の立場も変わるかもしれない」
あっさりと言う。
「同じランデュートの民。
俺なら取り入れるかもしれない、と」
ジャミーラの眉が寄る。
「最低でしょう?」
「……正直ですのね」
ライルは静かに笑う。
「その日から、俺は殿下にしつこく付き纏いました。
ですが、全く相手にされなかった」
そして——
「だから、俺はアルテリスに目を付けたんです」
金色の髪に琥珀色の瞳。
ランデュートの民とは明らかに違う、
どこか異国めいた美しい少年だった。
「殿下の従者、随分と愛らしいですね。
もしや……そのようなご趣味がおありで?」
軽い冗談。
笑いを取るつもりだった。
だが次の瞬間。
背筋が凍った。
「……失せろ」
低く、静かな声。
ムスタファの目は、氷より冷たかった。
あの目を向けられた瞬間。
本気で思った。
(やべぇ、死ぬかと思った)
王族の威圧ではない。
本気で怒った男の目だった。
ムスタファは踵を返す。
アルテリスは一瞬だけライルを見る。
何か言いかけて。
だが、ムスタファが制した。
背中が遠ざかる。
その話を聞いて、ジャミーラは息を呑んだ。
「……あの時、やっと気づきました」
ライルは静かに言った。
「俺は、自分を虐げた連中と同じことをした」
都合よく利用しようとし、
容姿で決めつけた。
——尊厳を踏みにじった。
「最低な奴だ、と」
それからの出来事を、ライルは静かに語る。
二人に付き纏うのをやめたこと。
再び向けられる冷笑。
背後から投げつけられる嘲りの声。
「あの悪魔、媚び売るのやめたんだな」
「静かでせいせいするよ」
「正直、鬱陶しかったよな」
わざと聞こえるように落とされる声に、逃げ場はなかった。
笑い声が混じり、胸の奥がきつく締めつけられる。
視線を上げることもできず、ただ足元を見つめた。
その時だった。
「イルハン様。どうか胸をお張りください」
静かで、柔らかな声だった。
それでも不思議と、その声だけははっきりと耳に届いた。
振り向くと、金色の髪の少年が立っていた。
光を受けて、その髪がふわりと揺れる。
そして——
彼はそっと耳打ちした。
「他者を陥れる言葉を口にする者こそ、
悪魔の一族より余程、悪魔めいて見えるものです」
その瞬間、それまで背中に突き刺さっていた嘲笑が遠のいた気がした。
胸の奥に張りついていた息が、
ようやくゆっくりとほどけていく。
その言葉に、どれだけ救われたか。
「俺は、殿下にもアルテリスにも、深く頭を下げました。
もう近づかないと誓って」
だが——
「そしたら、アルテリスが言いました。
共に殿下にお仕えしませんか、と」
ジャミーラが目を見開く。
「……なぜ」
「俺も、後で同じことを聞きました。
どうして俺に声をかけたんだ、と。
俺はお前に、あんなに酷い言葉を掛けたのに」
ライルはカップを見つめる。
あの時、アルテリスは一瞬だけ困ったように微笑み、それから口を開いた。
『私も、イルハン様と同じです。
殿下には、味方となってくださる方が必要でした。
傷つけられたことのある方は、
他者の痛みを見過ごせないものです。
ですから私は——
そういう方にこそ、
殿下のお傍にいていただきたいと思ったのです』
生徒会室に静寂が落ちる。
「……あいつらしいでしょう?」
小さく笑う。
「全部、殿下のためだ」
一拍。
「でも俺は思いました。
あいつの言い分は、半分は建前だと」
ジャミーラが顔を上げる。
「殿下のためだと言ってましたが——
俺は違うと思っています。
あいつは、傷ついてる人間を放っておけなかったんです」
小さく笑う。
「あいつが居たから、俺は殿下に仕えられることになった。
だから俺は、あいつのためにも——
誠心誠意殿下に務めようと決めたんです」
仕事を手伝い、雑務を引き受けた。
気づけば、三人でいるのが当たり前になっていた。
窓の外で、風が木々を揺らす。
ライルはカップを置いた。
「少し話が逸れましたね。
アルテリスの心を開くにはどうすればいいか、とのことでしたが——
正直、答えは俺にも分かりません」
「ただ、あいつは、他者を全く信じないわけじゃない。
自分がそこに混ざる資格があると、思ってないだけなんです」
カップの縁を指でなぞる。
「アルテリスは……“自己犠牲の塊”みたいなやつです。
自分のことは、後回しどころか、勘定にも入れてない節があります」
ジャミーラは静かに視線を向ける。
「殿下や俺のことは当然のように助けるくせに、
差し出された手を、やんわり押し返す。
“自分は大丈夫です”って」
ジャミーラの指先が、わずかに強くカップを握った。
ライルは静かに続ける。
「俺はアルテリスに助けられた。
あいつ、根はとんでもなく良い奴なんです」
静かな声だった。
「それを分かっているから、俺はあいつを放っておくことができない」
一拍。
「あいつは、自分から人を頼れない。
だから——
誰かが諦めずに声を掛け続けるしかない」
ライルは真っ直ぐにジャミーラを見る。
「だから俺は、あいつに対してだけは決めてるんです。
一度で伝わらなくていい。
あいつが拒んでも、線を引かれても、
それでも言い続ける、と」
少しだけ、口元を緩める。
「あいつは壁を作っても、
人を完全に突き放したりはしません。
だから、しつこいくらいが丁度いい。
諦めずに言い続けること。
それが、あいつにとっての“信頼”になると
俺は思っているんです」
ジャミーラは、静かに息を吸った。
(……それは、なかなか勇気のいることですわね)
けれど同時に、胸の奥で何かが、すとんと腑に落ちた。
「……分かりました」
ジャミーラは、ゆっくりと顔を上げた。
「わたくしも、しつこいくらいに伝え続けてみますわ」
ライルは一瞬目を瞬かせ、すぐに微笑んだ。
「アルテリスにとって災難の始まりですね」
「ふふ……そうかもしれません」
けれど、その笑みは迷いのないものだった。
午後の光が、少しだけ傾く。
カップの中の紅茶は、もう湯気を立てていない。
それでも、ジャミーラの胸の内には、確かな温度が残っていた。
(距離を測るのは、やめましょう)
(拒まれることを恐れて、黙っているより——)
踏み込む。
何度でも言葉を重ねる。
相手が線を引くなら、その線を理解した上で、なお隣に立つ。
(言葉にしなければ、伝わらないこともありますものね)
それが、彼女なりの答えだった。
午後の光の中で、生徒会室は再び穏やかな静けさに包まれる。
それは確かに、束の間の息抜きであり——
同時に、ジャミーラが“覚悟を固めた”時間でもあった。




