知らぬふり
時は少し遡る。
夜明けの寮室には、まだ静かな空気が残っていた。
カーテンの隙間から差し込む陽の光が、机の上を淡く照らしている。
部屋には人の気配がなく、聞こえるのは遠くの鳥の声だけだった。
ムスタファはベッドから起き上がり、部屋を見渡した。
向かいのベッドは、すでに整えられている。
皺一つなく、眠った形跡すら残さない。
——あいつらしい。
アルテリスは、昔からそうだ。
誰より早く起きて、
誰より先に動き始める。
ムスタファは小さく息を吐き、机へ向かった。
机の上には、昨夜置かれたままの書類があった。
任務報告書。
昨日アルテリスがまとめたものだ。
すでに一度読んだはずなのに、
ムスタファはまたそれを手に取っていた。
紙の上に並ぶ整然とした文字。
簡潔で、正確で、文句のつけようもない内容。
完璧な報告書。
——だからこそ、分かった。
(……無理をしている)
昨夜、報告を聞いた時から分かっていた。
声の調子も。
立ち姿も。
言葉遣いも。
何一つ乱れていなかった。
だが——
ムスタファが気づかないはずがなかった。
——あれは、隠している時の顔だ。
“平気なふりをしている時のアルテリス”だった。
ムスタファはゆっくり書類を閉じた。
革張りの表紙が机の上でかすかな音を立てる。
椅子に腰をかける。
額に手を当て、
思考を押し殺すように、深く、深く息を吐いた。
(言っても無駄だ)
無理をするな。
そう言えば、あいつは必ずこう答える。
大丈夫です。
心配には及びません。
そう言って。
何でもないように笑うのだ。
⚜️⚜️⚜️
学園に来る前——
アルテリスが初めて、ムスタファの目の前でマナを使用した時のことを思い出す。
その時の症状は、今よりずっと酷かった。
目も当てられないほどに。
ほんの少しのマナの使用。
それだけで、一瞬にして息が荒くなった。
細い肩が震え、呼吸が乱れ、やがて高熱を出した。
見ていることしか出来なかった。
助かったのは、幸い対処できる者が近くにいたからだ。
もしそうでなければ、どうなっていたか分からない。
アルテリスは、精霊術や神聖術を扱える身体ではない。
だからムスタファは、マナの使用を禁じた。
それが当然だった。
それが変わったのは——
聖騎士団から正式に声がかかった日だった。
王族という身分。
学問の成績。
精霊術の才能。
ムスタファの入団は、自然な流れだった。
だが——
ムスタファは、その誘いを断ろうとしていた。
学園に留学した目的は、
味方を増やし、魔族の知識を得ること。
それを考えれば、聖騎士団への入団はむしろ望ましい話だった。
それでも。
ムスタファが信じられるのは、アルテリスだけだった。
任務に出れば、長く学園を離れることもある。
聖騎士団の一員ではない者を連れていくことはできない。
隣にアルテリスがいない場所へ——
一人で行く気など、最初からなかった。
そして何より。
当時のムスタファは、
アルテリスが聖騎士団に入る未来など
一度も想像したことがなかった。
だが。
「殿下」
あの日。
アルテリスはいつものように、静かに言った。
「私も入団試験を受けさせていただけないでしょうか」
「……何を言っている」
思わず呆れた声が出た。
「お前、術を使うと倒れるだろ」
あの時の光景が脳裏に浮かぶ。
地面に崩れ落ちた身体。
浅くなる呼吸。
震える肩。
高熱に浮かされ、朦朧とした顔。
——あれを。
もう一度見ろというのか。
ムスタファは思わず眉をひそめた。
「無理に決まっている」
断言した声は、思ったより強くなっていた。
だがアルテリスは、ほんのわずかに微笑んだ。
アルテリスの視線が掌に落ちる。
次の瞬間——
空気が、わずかに震えた。
詠唱はない。
ただ、静かに。
アルテリスの掌の上に、
青白い光がふわりと灯った。
小さな火の玉だった。
揺らめきながらも、柔らかく、どこか透き通るような光を帯びている。
——あまりにも静かで、
あまりにも“整いすぎていた”。
「馬鹿!やめろ!」
ムスタファの制止も空しく、
光は静かに燃え続ける。
だが。
あの時のような異変は、何一つ起こらなかった。
マナの暴走も、揺らぎもない。
静かで、穏やかで——
不自然なほど安定している。
肩の震えもなく、呼吸も乱れていない。
ムスタファは言葉を失った。
「お前……どうやって」
アルテリスは、掌の炎を見つめたまま穏やかに答えた。
「制御可能なマナで、暴走するマナを抑え込みました」
そして、指先をわずかに動かすと
青白い炎は、音もなく空気に溶けて消えた。
「この方法であれば、少しですが精霊術を扱えます」
そんな芸当、見たことも聞いたこともない。
「……いつの間に」
思わず呟くと、
アルテリスは、いつものように微笑んだ。
「鍛錬を重ねれば、より高度な精霊術も扱えるようになるでしょう」
そう言ってから、わずかに視線を伏せる。
「足手まといにならないよう、精進いたします」
そして静かに続けた。
「ですから——私を理由に聖騎士団の誘いを、お断りしないでください」
アルテリスは懇願した。
だが。
その額には、うっすらと汗が浮かんでいた。
ムスタファはその時——すでに気づいていた。
アルテリスは、そういう人間だ。
誰にも見せず。
誰にも頼らず。
知らないところで、
他の誰よりも努力する。
特に——側近としての姿が、それを物語っていた。
当初ムスタファが教えたのは、最低限の礼儀作法だけだった。
それだけで十分なはずだった。
それなのに——
気づけば動きは無駄がなくなり、
所作は洗練され、
指示がなくても主人の望むことをやり遂げる。
誰が見ても“完璧な側近”になっていた。
だから分かる。
アルテリスは——
求められている以上のことを、必ずやる。
自分を後回しにしても。
きっと限界まで耐え続ける。
そうして。
誰にも気づかれないように苦しむのだ。
その時、ムスタファは初めて想像した。
アルテリスが、
聖騎士団として戦場に立つ未来を。
任務に出れば危険も多い。
制御できるようにしたとはいえ、
根本的な問題は何も解決していない。
ただ取り繕っているだけだ。
あの身体で戦場に立てば——
命に関わる。
それなのに。
「……俺のためか」
喉の奥で押し殺すように、低く呟くと、
アルテリスは一瞬だけ目を伏せた。
否定はしなかった。
代わりに、静かに言った。
「私は、殿下の選ぶ道の妨げになりたくはございません」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。
——そして。
ムスタファは結局、その言葉を受け入れた。
渋々、納得した。
そして今——
後悔している。
(やはり……)
机に置いた手に力が入る。
(聖騎士団に入るのを、反対すべきだった)
——分かっていたはずなのに。
あの時。
主人としてではなく、
ただの一人の人間として。
——許可できないと。
もっと強く止めていればよかった。
だが——
結局ムスタファは、昨日も何も言わなかった。
気づいていないふりをした。
ムスタファはゆっくり立ち上がる。
窓の外を見る。
まだ朝霧の残る静かな裏庭に、人影が見えた。
石畳の脇に設けられた洗濯場で、誰かが桶に水を汲んでいる。
金色の髪。
細い背中。
朝日に照らされ、糸のように光を弾いている。
アルテリスだった。
——やはり、あいつだ。
袖をまくり、無言で布を水に沈める。
濡れた布を持ち上げ、丁寧に揉み、また水に沈める。
無駄のない動きだった。
まるでそれが当然であるかのように。
(……もう起きているのか)
いや。
起きている、ではない。
おそらく——
ほとんど眠っていない。
思わず舌打ちが漏れた。
まったく。
「あいつは本当に……」
小さく呟く。
洗い終えた布を絞り、
アルテリスは静かに物干しへ広げていく。
そのほとんどが——ムスタファのものだった。
「休むという発想がないのか」
その声は、誰にも届かなかった。




