静寂の裏で
夜明け前の淡い光が、窓辺を染めていた。
生徒会室にはまだ朝の冷気が残り、紙とインクの匂いが静かに漂っている。
ムスタファは机に並べられた報告書を閉じ、ひとつ息を吐いた。
伏せた睫毛の影に、深紅の瞳が覗く。
くせのある漆黒の髪は整えられ、襟足には細い三つ編みがひと房だけ落ちていた。
背後には、護衛として復帰したライル・イルハン。
主と同じ編み込みを揺らし、深紅の瞳で静かに控えている。
静寂を破るように、扉が叩かれた。
「入れ」
「失礼いたします。ジャミーラ・シャマル様をお連れいたしました」
アルテリスが一礼し、扉を押し開ける。
朝光を受けた金の髪が、やわらかく揺れる。
琥珀の瞳は静かで、感情を奥に沈めたままだ。
その後ろから、ジャミーラが入室した。
漆黒の長い髪が歩みに合わせて揺れる。
伏せた睫毛の奥で、深紅の瞳がわずかに強張っていた。
「お呼びとのことでしたので、参りました」
「ああ。そこに座ってくれ」
腰を下ろした彼女を、ムスタファの真紅の瞳が真っ直ぐに見据える。
「まずは——昨夜の“審査”についてだ」
ジャミーラの背筋がわずかに強張った。
「聖騎士団より正式な報告が届いた。
その結果——貴女を“聖騎士団見習い”として登録することが決定した」
ジャミーラは息を呑む。
「わたくしが……見習いに?」
「ああ」
厳粛な声音の奥に、確かな信頼が滲んでいた。
「本日、授業後に聖騎士団支部へ向かい、見習いの証である外套と徽章を受け取って欲しい。
担当者より詳細な説明があるはずだ」
「承知いたしました」
姿勢を正したその瞳に、喜びと決意が灯る。
「それから——」
ムスタファは続けた。
「見習いとなった以上、
現在、我々が聖騎士団より託されている案件に、早速参加して欲しい」
「はい」
「結界石については、もう習ったか?」
ムスタファは静かに尋ねる。
「はい。先日の神学の講義で」
小さく頷き、ムスタファは言葉を継いだ。
この世界——ジャルダンは、聖女王が張る“大結界”によって守られている。
それは空のはるか高みに広がる、目には見えぬ光の天蓋。
代々、サンシャイン神聖国の聖女王が祈りを継ぎ、魔界との境界を閉ざし続けてきた、巨大な守りだ。
だが、その加護はあくまで“世界の外”を遮るもの。
すべての脅威を、完全に退けられるわけではない。
大厄災で侵入した魔族、そして大結界の綻びを縫うように微弱な悪魔が忍び込み、黒い霧のような瘴気が地の底から滲み出すことがある。
それらから人々の暮らしを守るため、聖教会は各地により小さな結界を設けている。
街の四隅。
教会の尖塔の根元。
学園の外周。
人目につかぬ場所に据えられた、それぞれの守り。
その中心に置かれるのが——結界石だ。
神の理を模して作られた聖なる核石。
祈祷を受けると淡い光を宿し、
そこから波紋のように、目に見えぬ守りを広げていく。
この学園もまた、四方に置かれた四つの結界石によって支えられている。
石は常に微かな光を放ち、
生徒たちの日常を静かに守っていた。
「先日——そのうち一つが、破壊された」
瞬間、ジャミーラは思わず口元を覆った。
胸の奥を、かすかな痛みが走る。
血の匂い。
崩れ落ちる家。
幼い自分の叫び。
古い記憶が、目の裏で音もなく揺らぎ、喉の奥が焼けるように痛んだ。
「そんな……では、学園の結界は……?」
「結界は、もう万全ではない。
神聖術師達が再祈祷を進めているが、
完全な修復にはひと月ほど要する見込みだ」
ジャミーラの指先がわずかに震える。
「この件は支部長の命により秘匿とされている。
公になれば混乱を招くだろう。
——その点を、心に留めておいて欲しい」
ジャミーラは呼吸を整え、ゆっくりと頷いた。
「承知いたしました。
……わたくしは、何をすればよろしいのでしょうか」
「貴女には、アルテリスと共に学園を巡回し、
瘴気の兆候を探ってもらう。
表向きは生徒会の見回りだが、
真の目的は“不穏の芽を摘むこと”だ」
ムスタファの声は低く、しかし明瞭だった。
「結界の欠損部から悪魔が侵入し、瘴気が学内に流れ込んでいる。
その影響で、生徒達の情緒が乱れ、争いが増えている。
異変を見つけた際は、まず静かに仲裁して欲しい」
ジャミーラは、真剣な眼差しで耳を傾ける。
「瘴気は、怒りや不安に共鳴し増幅するが、
落ち着いた空気には弱い。
第三者である生徒会が“話し合いの場”を作るだけでも、十分効果がある」
そして声を低めた。
「しかし——度を越せば、悪魔化する生徒が現れる可能性がある。
我々の最優先は“悪魔化する前に止めること”。
万が一、兆候が見られた場合は、
決して単独で対処してはならない。
直ちに聖騎士団へ報告するように」
「承知いたしました」
震える声だったが、真紅の瞳にはゆるぎない意志が灯っていた。
ムスタファは静かに頷いた。
「アルテリス、彼女を補佐せよ」
「承知いたしました」
アルテリスは胸に手を当て、深く頭を下げた。
「では、シャマル様。参りましょう」
「はい」
ジャミーラは立ち上がり、アルテリスの後に続いた。
扉が閉まると、ムスタファは窓辺に歩み寄り、朝靄に霞む学園を見つめた。
霧の中で揺れる塔の影が、不吉に歪んで見える。
「アルテリスが付いております。
シャマル様ならば、ご心配には及びませんよ」
ライルが穏やかに告げる。
ムスタファは短く息を吐き、目を細めた。
「……そうだな」
その視線は、遠く霧の向こうの尖塔に向けられていた。
⚜️⚜️⚜️
昼下がりの学園。
中庭には柔らかな陽が差していたが、空気の底にはどこか張りつめたものが漂っていた。
アルテリスは歩調を合わせながら、ふと横目でジャミーラを見る。
紅の瞳の奥が、わずかに強張っている。
「シャマル様……どうかご無理はなさらないでください」
抑えた声音に、そっと寄り添う気遣いが滲む。
ジャミーラは微笑んだ。
紅の瞳がふっと和らぎ、黒髪が風に揺れる。
「ありがとう。大丈夫よ」
彼女はひとつ、息を整えた。
「わたくし達の役目は、簡単に言えば——争いを見つけて仲裁すること、よね」
ジャミーラの問いに、アルテリスは頷いた。
「仰る通りでございます」
「でも……争いが起きてからでは、遅い気がするわ。
——瘴気の兆候を、もっと早く見極めることは出来ないのかしら」
アルテリスは微笑んだ。
「シャマル様であれば、可能でございます」
ジャミーラは思わず目を瞬く。
「昨日、“胸騒ぎがした”と仰っておりましたね。
恐らく——瘴気を感じられたのでしょう」
ジャミーラは、はっと息を呑んだ。
「通常、瘴気は感知が難しく、目にも見えません。
精神を少しずつ乱すため、侵されても“異常”と気づきにくいのです」
アルテリスは静かに続けた。
「しかし——神聖術師や、特別な感受性を持つ者は、
微弱な瘴気を“不穏・不快・胸苦しさ”として察知できます」
ジャミーラは胸元に手を当てた。
「では……あれは、瘴気だったのね」
「はい。
瘴気がある場所では、争いが起こりやすくなります。
シャマル様のお力なら、先んじて鎮めることが叶いましょう」
「瘴気を浄化することは……?」
「可能かと存じます。ですが——」
アルテリスの声音は、ほんの少しだけ鋭さを含んだ。
「瘴気を浄化するとは、“瘴気を放つ悪魔”を刺激する行為でもあります。
もし強力な悪魔が潜んでいれば、我々だけでの対処は困難です」
ジャミーラは苦く笑った。
「……無闇に浄化すべきではないわね。
では、争いが発展してしまった場合は?」
「当事者を医務室へ。
治療術師は聖騎士団と縁のある方で、
浄化術による処置が可能です。
それ以上の状態であれば——殿下のお言葉通り、直ちに聖騎士団へ」
ジャミーラは息を整え、柔らかく笑った。
「分かったわ。では、巡回を始めましょう」
「はい」
午後の光の中、二人の影は並んで廊下に伸びていく。
その足取りは静かだが、確かな使命感を帯びていた。




