陽だまりの対話
昼下がりの中庭は、張り出された定期試験の結果に一喜一憂する生徒たちの熱気に包まれていた。
人混みの端から背伸びをするようにして自分の名を探したジャミーラは、そっと息を呑む。
五位。予想以上の順位に密かに胸を撫で下ろし、彼女の視線は自然と上級生の欄へと引き寄せられていった。
一位 アルテリス。
陽光を反射して淡く輝く金文字を見つけ、ジャミーラは自分のことのように嬉しくなった。普段は控えめで静かな彼だが、その実力は誰よりも揺るぎない。
(特待生だものね……本当にすごいわ)
胸の奥にぽっと温かな誇らしさが灯る。だが、そのすぐ下に刻まれた名が、彼女の思考を止めた。
二位 ムスタファ・ランデュエル
(えっ……?)
ジャミーラは思わず見出しの学年を二度見した。
【第五学年 上位成績者】
アルテリスが、一年生の自分より上級生であることは知っていた。けれど、せいぜい一つ上の二年生くらいだろうと思い込んでいたのだ。
ムスタファが五年生であることは知っている。けれど——アルテリスも同じ五年生だったとは。
ジャミーラの脳裏に、あの小柄で静かな少年の横顔が浮かぶ。どう思い返しても、自分と四つも学年が離れているようには見えなかった。静かな驚きが、さざ波のように胸に広がる。
「おや、シャマル様」
不意に背後から声をかけられ、ジャミーラは肩を揺らして振り返った。そこには、黒の外套を肩から落とすように羽織った青年——ライル・イルハンが立っていた。
漆黒の髪に深紅の瞳、淡い褐色の肌。人懐こい笑みが、その整った顔立ちを柔らかく彩っている。
「うちの学年は、今回もアルテリスと殿下が、一位と二位ですか」
掲示板を見上げて誇らしげに微笑むライルに、ジャミーラはまだ戸惑いを引きずったまま、曖昧な笑みを返した。
「本当に……すごい方々ですのね」
声にわずかに滲んだ動揺を察したのだろう。ライルが不思議そうに視線を落としてくる。
「どうかされましたか?」
「いえ……アルテリスさんも、五年生なのですね。少し驚いてしまって」
「ご存じなかったのですか?」
真紅の瞳を丸く見開くライルに、ジャミーラは少し恥ずかしそうにこくりと頷いた。
「ええ。上級生だとは存じておりましたが、せいぜいわたくしより一つ上くらいかと思っておりましたの」
「はは。あいつは小柄ですからね。実年齢も、恐らく私より下ですよ」
「……恐らく?」
ジャミーラが小首を傾げると、流暢に話していたライルの言葉が、ほんの一瞬だけぴたりと止まった。
「ええ。——あいつは、自分の年齢を知らないそうです」
その言葉に、ジャミーラは息を呑んだ。
周囲の賑やかなざわめきが、急に遠のいたように感じる。“自分の年齢を知らない”という言葉の重みが、ずしりと胸にのしかかってきた。
ジャミーラの戸惑いを察したのか、ライルは軽く咳払いをして、明るい声で話題を切り替えた。
「ところで、“見回り”の方はいかがですか?
お疲れではありませんか」
「……まだ慣れませんが、なんとか。お役に立てていれば嬉しいのですが」
ジャミーラが努めて平静を装いながら答えると、ライルは柔らかく目を細めた。
「いえ、十分すぎるほど助かっていますよ。殿下も感謝しておられます」
「ありがとうございます。そう仰っていただけて嬉しいです。アルテリスさんが、とても良くしてくださるお陰ですわ」
素直な感謝を口にする彼女を見て、ライルの口元がふっと緩む。
「実は、俺も驚いているんです。あいつが殿下以外の者に、これほど構うのは珍しくて」
「そうなのですか?」
「ええ。シャマル様の前では想像しづらいでしょうが、あいつは普段、必要最低限しか会話しません。それなのに、シャマル様にはよく懐いている。シャマル様のお人柄の良さですよ」
ライルの淀みない称賛に、ジャミーラは思わず頬を緩めた。洗練された貴族特有のお世辞も含まれているのだろうとは思いつつも、アルテリスが自分に心を許してくれているという事実が、くすぐったいような温かさを連れてくる。
「イルハン様は、褒め上手ですのね」
「本当のことを申し上げているだけです。——ハウゼンとの一件も聞いていますから」
ライルの声がふっと低くなり、真剣な響きを帯びた。
「多くの者が見て見ぬふりをする中で、シャマル様だけが手を差し伸べてくださった。
あいつが孤児だと知っても、態度を変えずに接してくださった。
……それらのことが、あいつには、本当に“特別”だったのだと思います」
静かな感謝を向けられ、ジャミーラは少し戸惑って首を振った。大層なことをしたつもりなど、少しもなかったからだ。
「暴力を受けているところを、見逃せなかっただけですわ」
その言葉を口にした瞬間。
ジャミーラは、ライルの人懐こい顔からすっと温度が消え去るのを見た。
「……暴力?」
深紅の瞳が、刃のように鋭く細められる。
「……アルテリスさんからお聞きになっていないのですか?」
「罵倒を受けていた、とだけ聞いています。暴力まであったのですね。殿下がお知りになれば——ただでは済まないでしょう」
漆黒の前髪の影で、ライルの瞳の色が暗く沈んだ。先ほどまでの和やかな陽だまりの空気が音もなく凍りついていくのを、ジャミーラは肌で感じる。
(アルテリスさんは、言わなかったのね……)
胸を突く痛みを抱えながら、ジャミーラはそっと自分の思いを言葉にした。
「あの時、アルテリスさんは、本当は抵抗できたのだと思います。けれど、敢えてそうしなかった気がするのです」
ライルはどこか遠くを見つめるような憂いを帯びた目をし、ぽつりと呟いた。
「……そうでしょうね。あいつは自分の立場を理解していますから。先が見えているから、貴族の子弟に手を出すような真似は、決してしない」
その震えるような声音には、友を想うがゆえの深い哀しみと、静かな憤りが滲んでいた。
普段の軽薄なほどの明るさからは想像もつかない、ライルの底知れぬ誠実さ。彼がどれほどアルテリスを大切に思っているかが痛いほど伝わってきて、ジャミーラの彼を見る目は自然と変わっていた。
「イルハン様は、アルテリスさんのことを、とても大切にしていらっしゃるのですね」
不意を突かれたようにライルは目を瞬かせたが、やがてふっと、いつもの穏やかな、けれど先ほどよりもずっと柔らかな笑みを浮かべた。
「あいつは、大切な“友”であり……同時に、“弟”のような存在なんです」
飾らない本音の言葉。そこに込められた深い情愛に、ジャミーラは強く胸を打たれた。彼がただ人当たりの良いだけの青年ではないことを嬉しく思いながら、心からの微笑みを返す。
「素敵なご関係ですのね」
ちょうどその時、塔の上から午後の鐘が柔らかく鳴り響いた。
それを合図にするように、ライルはジャミーラに向かって優雅に一礼する。
「今日はシャマル様も非番の日でしたね。どうぞ、ゆっくりお休みください」
「ありがとうございます。イルハン様も、良いお時間を」
「はい。——また明日」
二人は軽く会釈を交わし、別々の方向へ歩き出した。
背中に受ける陽光はあたたかく、石畳に落ちた自分の影がゆっくりと伸びていくのを見つめる。
静かな午後の陽だまりの中。彼らとの心の距離が少しだけ縮まったようなあたたかな余韻を抱きしめながら、ジャミーラは自分の足音を聞いて歩みを進めていった。




