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Prologue 悪夢

深淵。

底知れぬ泥濘でいねいに沈み続けるような、終わりのない暗闇。

気が付くと、少女は一寸先も見えぬ漆黒の中に一人取り残されていた。

足元の感覚すらとうに失せ、己が立っているのかどうかも定かではない。

絡みつく空気は氷のように冷たく、ひどく淀みきっている。

身体は重い鉛を流し込まれたように強張り、指先一つ、まばたき一つすら自由にならない。

見えない何かに心臓を直接握り潰されているかのように胸が激しく締め付けられ、喉から漏れ出る息は浅く、途切れ途切れだった。


突如——這い寄るような静寂を裂いて、闇の奥底から“手”が伸びた。

骨ばった、氷のように冷たい手。

それが少女の細い髪を無造作に掴み上げ、頭皮が裂けるほどの力で容赦なく宙へと引き摺り上げる。


「あ……っ、」


声にならない悲鳴が喉の奥で掠れた。

痛いはずだった。しかし、少女の心には恐怖とも悲しみともつかない、混濁した感情が激流のように押し寄せ、痛覚すらまともに働かない。

己が何の罪を犯したのかも分からない。ただ、抗う術などないのだという濃密な絶望だけが、小さな身体を支配していた。

少女はひび割れた唇をわななかせ、壊れた絡繰り人形のように、ただ虚ろな懺悔を繰り返した。


ごめんなさい。


ごめんなさい。


ごめんなさい……


乾いた、ひどく鈍い音が、淀んだ闇にこだまする。

頬を。頭を。華奢な身体を。

振り下ろされる掌が、あるいは何か別の硬質なものが。

幾度も、幾度も、執拗に打ち据える。

鉄の錆びたような血の味が口の中に広がり、視界が白黒に明滅する。


どれほどのときが流れたのか。永遠にすら思える暴力の果てに、唐突に戒めが解かれ、少女の身体は冷え切った床へと無情に投げ出された。


——っ!!


耳をつんざくような、女の半狂乱の叫び。

それに呼応するように、制止を促す複数の低い声が交錯する。蠢く黒い人影が揉み合っているのだと理解した頃には、少女に降り注いでいた暴力は嘘のように鳴りを潜めていた。


熱を持つ頬を硬い床に押し付けたまま、少女はゆっくりと視線を上げ、女を見上げた。

荒々しく息を乱す女のかおは、逆光に沈み判然としない。

だが——


女の頬を、一筋の涙が静かに伝い落ちた。それだけは、残酷なほど鮮明に見えた。

なぜ、泣いているのだろう。

あんなにも狂気のごとく己を打ち据えたはずの女の涙が、ひび割れた身体の傷よりも深く、少女の胸を鋭くえぐり取る。理由は分からない。ただ、身を切られるように哀しかった。


不意に、女と視線が絡み合う。

射抜くような、底冷えのする暗い瞳。


「あなたなんて」


意識はひどく混濁し、周囲の喧騒は深い水底にいるように遠のいているはずなのに。

その声だけは、呪詛のごとくはっきりと、脳髄の奥底に直接響き渡った。


「生まれて来なければ良かったのに」


決定的な、呪いのような言葉が落ちた瞬間。

少女の立つ足元が音を立てて崩壊し——その意識は夢の底から一気に現実へと引き戻された。


⚜️⚜️⚜️


「——さま……っ!」


縋るような哀切な譫言うわごとと共に、少女は弾かれたように目を覚ました。


「はっ、ぁっ……」


胸がギリギリと締め付けられ、空気が思うように吸えない。掛け布を握りしめる手は白く強張り、全身は冷たい汗でぐっしょりと濡れていた。

閉ざした瞳からは止め処なく涙が溢れ、熱を帯びた雫となって青白い頬を伝っていく。


(夢……。また、あの夢……)


大きく、震える息を吸い込み、早鐘のように打ち鳴らされる心臓を無理やりにでも鎮めようとする。

震えが微かに収まるのを待ち、少女はゆっくりと上体を起こして、乱れた寝台から滑り降りた。

裸足のまま窓辺へと歩み寄り、重厚な窓掛けをわずかに開く。

窓の向こうに広がるのは、夜の漆黒と暁の光が交じり合う、痛いほどに青く冷たい空だった。


(まだこんな時間……)


薄闇に取り残された部屋の中、少女は窓枠に浅く腰を掛け、夜明け前の空をただ茫然と見つめた。

冷ややかな窓硝子に額を押し当てても、胸の奥底にこびりついた鈍い痛みは決して消え去ってはくれない。

瞼を閉じれば、再びあの冷徹な瞳と呪縛の言葉が蘇りそうで、眠りの淵に戻るなど到底できそうもなかった。


静寂だけが重くのしかかる部屋の中。

少女は、己の震える心と身体を抱え込むように、きつく膝を抱いた。

そして、底知れぬ孤独を夜明けの空に溶かすように、いつ誰に教わったのかも忘れてしまった小さな小さな歌を、ぽつり、ぽつりと口ずさみ始めた。

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