契約
漆黒の外套を纏うムスタファと、濃緑色のドレスに身を包むジャミーラ。
講堂の中央、燭光を受けて舞うふたりの姿は幻想的で、アルテリスは壁際に控えながら、静かにその光景を見守っていた。
美男美女——誰の目にも絵になる組み合わせだ。
普段は“悪魔の民族”と蔑む令息令嬢たちでさえ、今宵ばかりは言葉を失い、ただ見惚れている。
——喜ばしいはずの光景。
それなのに、胸の奥に、言葉にできない違和感が渦を巻いていた。
「よぉ、アル。踊らないのか?
ご令嬢たちがお前と踊りたそうにしているぞ」
思考の底に沈んでいたところへ、ライルが飲み物を二つ手に現れた。
黒髪は短く整えられ、後ろで細く結われたお下げが肩口にかすかに触れている。
深紅の瞳は悪戯めいた光を宿し、口元には菓子の欠片をつけたまま、いつもの軽薄な笑みを浮かべている。
——もっとも、
普段は無造作に羽織っている外套も、今宵ばかりはきちんと肩に掛けられ、襟元まで正されていた。
着崩した姿しか知らぬ者が見れば、別人のように映るに違いない。
「私は殿下の側仕えですので」
「相変わらず堅いな。お前も“生徒”なんだから、少しは楽しめよ。ほら」
差し出された杯を、アルテリスは断りきれず受け取った。
ライル・イルハン。
ランデュート王国イルハン侯爵家の長男。
同じ側近とはいえ、貴族の彼と庶子の自分とでは立場が違う。
それでも気負いなく接してくれる彼の存在は、ありがたいものだった。
「……おふたりの様子は、どうだ」
「良い雰囲気だと思います」
「……甘いな」
視線は中央へ向けたまま。
菓子の欠片を指で払うこともなく、低く呟く。
その声は、なぜかひどく重かった。
⚜️⚜️⚜️
曲が終わると、ムスタファはジャミーラを伴い、庭園へと向かった。
噴水のそば——風の音と、遠くから流れる音楽だけが満ちる静かな場所。
夜気はひんやりと肌を撫で、灯りの届かぬ影が足元に揺れている。
ムスタファは足を止め、深紅の瞳でジャミーラを見据える。
そして、一呼吸置いて告げた。
「失礼を承知で申し上げます。
私は、貴女を愛することはできません」
「……え?」
あまりに突然の言葉に、思考が凍りついた。
生まれる前から定められていた婚約。
妃となるために費やしてきた時間。
努力と覚悟——
それらすべてが、音を立てて崩れ落ちるような感覚。
しばらくして、ようやく声を絞り出す。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
噂のせいか。
アルテリスから何か聞いたのか。
思い当たる節はあるようで、決定的なものはない。
ムスタファは淡々と答えた。
「私には、想い人がおります」
「……そう、ですか」
どんな理由よりも、納得のいく答えだった。
それでも胸の奥が、ひどく冷えていく。
「では……殿下のお話とは、
わたくしとの婚約を破棄したい、ということですのね」
だが、ムスタファは首を横に振った。
「いいえ。
婚約は破棄せず、貴女には——対外的には、私の婚約者でいていただきたい」
「……は?」
思わず、言葉遣いが崩れる。
「承諾していただけるのであれば、それ以外は、貴女の自由です。
生活に不自由が出ることは、決してありません」
「意味がわかりませんわ!」
ジャミーラは、感情を抑えきれず声を荒らげる。
「想い人がおられるのであれば、わたくしとの婚約は破談にして、正式にその方と婚約なさればよろしいでしょう!」
「それは——できません」
その一言で、察してしまった。
「……その方は、貴族ではないのですね」
返答はない。
それが、何よりの答えだった。
愛人にするつもりなのだ。
理解はできても、胸が痛む事実。
「この提案は、貴女にとっても悪い話ではありません」
「……どういう意味ですの?」
ムスタファは、静かに続けた。
「シャマル様は——神聖術師に憧れておられるとか」
ジャミーラは息を呑む。
「……アルテリスさんに、伺ったのですね」
胸の奥がざわつく。
秘密の夢を打ち明けた相手。
その言葉が、今ここで使われている。
「婚約を破棄すれば、貴女はこの学園に留まる理由を失います。
しかし、私の婚約者でいる限り、ここで学び続けることができる。
聖騎士団の見習い試験を受ける道も、開けるでしょう」
——甘い。
あまりにも。
「殿下は……反対なさらないのですか」
「貴女の人生は、貴女のものです。
好きに生きればよい」
「……世間の評判は?」
「悪評なら、既に数え切れないほどございます。
これ以上増えたところで、気にはいたしません」
静かで、それでいて揺るぎない声。
胸に巣食っていた不安が、少しずつ溶けていく。
——ふわりとした金色の髪の少年、アルテリスの顔が脳裏をよぎる。
(……情報を集めるために、私に近づいたの?
友達になれたと思っていたのに……)
胸が、ちくりと痛んだ。
それでも。
「殿下のお話は魅力的ですわ。
ですが、これは非常に険しい道です。
それでも、お選びになりますか」
ムスタファは、迷いなく頷いた。
「少しでも可能性がある限り、私は行動します。
行動しなければ、叶うものも叶わない」
その瞳には、確かな覚悟が宿っていた。
「……殿下は、本当にその方を愛しておられるのですね」
ほんの少しだけ、羨ましいと思った。
自分もいつか——
こんなふうに、誰かに想われる日が来るのだろうか。
ジャミーラは静かに息を吸い、背筋を伸ばす。
「……かしこまりました。
その契約、お受けいたしますわ」
この選択が、吉となるか凶となるかはわからない。
それでも彼女は、諦めかけた夢のために——
自らの意思で、一歩を踏み出した。




