婚約者
ダンスホールの中央で、音楽に合わせて優雅に舞う男女。
ランデュート王国第二王子ムスタファ・ランデュエルと、その婚約者ジャミーラ・シャマル侯爵令嬢。
天井の大きなシャンデリアが燭光を反射し、二人の姿を淡く照らしている。
黒を基調とした正装に身を包んだ王子と、濃緑色のドレスを纏った令嬢。
艶やかな黒髪と紅玉のような瞳が並び立つその姿は、まるで夜天に咲く薔薇のように、妖しくも華やかだった。
ムスタファの漆黒の外套が翻り、ジャミーラの濃緑のスカートがふわりと弧を描く。
滑らかなステップに合わせて布が舞い、深紅の瞳が一瞬、光を弾いた。
まるで童話に出てくる王子と姫のような一幕に、周囲の生徒たちはランデュートへの悪評すら忘れ、うっとりと目を奪われていた。
二人の周囲だけが別世界のように静まり返り、音楽さえも祝福の旋律に聞こえる。
──しかし、その当のジャミーラは。
(……あの子は、どこにいるのかしら)
婚約者と踊っているにもかかわらず、意識は黄金の髪の少年——アルテリスへと向いていた。
くるりと回転するたび、濃緑色の裾が広がり、その隙間から会場の人影を追う。
(まさか、ムスタファ殿下の側近だったなんて……)
お茶会の日。
主君について尋ねたとき、アルテリスは“今はまだ”と口を濁した。
隠していた理由は何だったのか。
驚かせたかったのか、それとも——。
(……もしかして私を探っていた?
婚約者として相応しいかどうか、見極めるために?)
あり得ない話ではない。
噂の絶えない身分なのだから。
胸の内には、確かめたい思いが静かに渦巻いていた。
そのとき、壁際に立つ金糸の髪が視界に入る。
(……やっと見つけた)
誰にも話しかけられず、壁の花のように佇むその姿。
整った容貌はひときわ目を引き、数名の令嬢が落ち着かない様子で視線を向けている。
しかし、従者としての凛とした空気が近寄り難くしているのか、誰ひとり声をかけられずにいた。
一方で、近くにいる男子生徒たちは露骨に面白くなさそうな表情を浮かべている。
向けられる視線には、敵意すら滲んでいて——
(……あぁ。これも、彼がいじめられていた理由のひとつなのね)
思わず、納得してしまう。
「彼が、気になりますか」
不意にかけられた声に、はっと我に返る。
今はダンスの最中。
しかも相手は婚約者であり、王子だ。
他の人物を探すなど、本来なら無礼にも程がある。
「申し訳ございません……」
「構いません。——アルが気になりますか?」
「アル……?」
「アルテリス。彼の愛称です」
なるほど、とジャミーラは小さく目を瞬かせた。
愛称で呼ぶということは、それだけ親しいということなのだろう。
再びターンを描く。
ムスタファの黒衣が夜の帳のように揺れ、その腕に導かれ、ジャミーラの濃緑が月下の森のように広がった。
「仲がお宜しいのですね」
「何故そう思われるのです?」
「でなければ、愛称は使わないものですわ」
「……それも、そうですね」
ふっと、ムスタファの表情がわずかに和らぐ。
魅惑の悪魔の異名を持つ王子だが、こうして間近で見ると、確かに人を惹きつける美しさがあった。
「アルテリスさんとは度々お会いしていましたのに、その頃はまだ殿下の側近とは知らず……
先程それを知って、とても驚いてしまいましたわ」
正直に告げると、ムスタファは少しだけ目を細める。
「そういえば——まだお礼を申し上げていませんでしたね」
「お礼……?」
「アルを助けていただいたとか」
「いえ、とんでもないことでございます」
従者を顧みない貴族は多い。
そんな中で、王子自身から感謝の言葉を向けられるとは思わず、ジャミーラは胸の奥がかすかに温かくなるのを感じた。
(……優しい方なのね)
この婚約で得たものより、失ったものの方が大きかった。
だからこそ、喜ばしい縁だと思ったことは一度もなかった。
——けれど。
今は少しだけ、この婚約を前向きに捉えてもいいのかもしれない。
そう思いかけた、その瞬間。
「実は……貴女にお話ししなければならないことがあります」
ムスタファの表情が一変する。
先ほどまでの柔らかさは消え、深い影がその双眸に落ちた。
胸の奥が、ざわりと揺れる。
「……何でしょう」
「場所を変えて、お話しても?」
「……ええ」
ちょうど曲が終わり、互いに一礼を交わす。
濃緑の裾が静かに収まり、黒の外套が背に落ち着く。
先ほどまで童話の一幕を演じていた二人は、再び王子と侯爵令嬢という現実へと戻る。
ジャミーラは静かに、王子の後に続いた。
──このあと、自分の人生を揺るがす“あの話”を聞くことになるとは、
まだ知る由もなく。




