9.お飾りの孤独
そうして辿り着いたのは、アンジェリカの居室だった。ヴィルヘルムはアンジェリカを抱えたまま器用に扉を開けてみせる。
侍女たちは一様にその姿を見て、目を見開いた。
舞踏会のさなかのこんな時間に、まさかこんな格好で王太子妃が帰ってくるとは思っていなかったのだろう。
「氷嚢と包帯、早く持って来て」
侍女にそう命じると、ヴィルヘルムはそっとアンジェリカを椅子の上に下ろした。その意図を図りかねて、誰もすぐには動き出せなかった。
「早く、って言ったんだけど」
クレアだけが事態に気づいて、はっと踵を返した。慌てて他の侍女もそれに続く。そうして持って来られた小氷嚢と包帯を見ると、ヴィルヘルムは、
「ありがとう。もうみんな、下がっていいよ」
「ですが、妃殿下のお世話なら我々が」
やんわりと侍女の一人が抗議を述べる。それは当然のことだ。彼女たちからすれば、仕事を取り上げられることは、死にも等しい。
「ごめんね。でも、誰にもアンを触らせたくないんだ」
ヴィルヘルムは、ぎゅっと引き寄せてアンジェリカの肩を抱く。どこからどう見ても妻を溺愛する夫だ。
皆、ぼんやりと開いた口が塞がらなかった。そのまますごすごと下がっていくほかなくて、ただクレアだけは何かを深く理解しているようだった。
「さてと」
二人だけになった部屋の中で、ヴィルヘルムがアンジェリカの前に膝を突く。それはまるで、姫君の前に跪く騎士のようだった。
「なっ!」
ドレスの裾を大きな手に強引にたくし上げられて、アンジェリカの足が覗く。そのままクレアが結んだリボンを解いて、恭しく靴を脱がせていく。
足を見られることははしたないと教えられてアンジェリカは育てられた。いきなり裸にされたような羞恥がある。かっと頬が熱くなる。
「ああもう、どうせこんなことだろうと思った」
己の立てた膝にアンジェリカの左足を乗せる。
壊れ物に触れるように、その手はそっと足首に触れた。それでもつきん、と痛みが走る。
腫れた足が熱いのか、その手が熱いのかもう分からない。
「いつ怪我したの? ちゃんと冷やさなきゃだめだろ」
氷嚢が当てられて、ひんやりとした温度が染みていく。
「あの、わたし、自分で」
どう考えても王太子にこんなことをさせるべきだとは思えなかった。眼前に美しい男が跪いていることにも、夫が素足に触れていることにも耐えられない。
「いいからじっとしてて。捻挫は一度やると癖になる。ちゃんとした手当てが必要なんだ」
灰青色の瞳が糾弾するように見上げてくる。そう言われると、もう何も反論ができない。
足先が凍えるぐらいになってから、ヴィルヘルムは氷嚢を離した。そして、慣れた手つきで足首に包帯を巻いていく。びっくりするほど見事な手際だった。
じっと見つめてしまっていたら、ヴィルヘルムが顔を上げた。
「痛い? 少し緩めようか?」
「いえ、そのお上手だなと思いまして」
「ああ、オレ、今……あんたの感覚でいうと十二年前は、騎士団にいたからさ。一通りの怪我の手当ては習ったんだよ」
ヴィルヘルムは包帯の端をきれいに結んでそう言った。「王子の嗜みってやつ。自分の身は自分で守れるようにってね」
「どうして、相談してくれなかったの」
こつん、と膝頭が置かれる。それは忠誠を誓うようにも、甘えているようにも見える。
「別にダンスなんか、踊らなくてもよかったのに」
くぐもった低い声が言う。駄々をこねるようにすべらかな頬が何度も押し付けられる。ここまでは、自分が予想した通りだった。
「先に話してくれたら、もっとやり様はあったのに。そりゃあ、相手が十六のオレじゃ頼りないかもしれないけどさ」
糾弾するように、灰青色の瞳はアンジェリカを見上げてくる。
咎めるような声に隠しきれない幼稚さが滲む。整った顔立ちに、今のヴィルヘルムの声はひどく不釣り合いだ。
言えるわけがなかった。
一度もアンジェリカのことを見なかった、二十八歳の彼にも。
こうしてアンジェリカを見上げてくる、十六歳の彼にも。
――だってあなたは全部、忘れてしまうじゃない。
口をついて出そうになった言葉を、寸前のところで飲み込んだ。ほんの少しだけ残っていた理性がアンジェリカを留めてくれた。
何があってもこれだけは、知られてはいけない。
「あなたは、何も分かってない!」
代わりに突き刺すような己の声が言った。八つ当たりだと分かっているのに、最初の一声が出てしまったらもう止まらなかった。
「わたしは、国を背負っているの。ここでうまくやれなきゃ、何の意味もなくなるの!!」
アンジェリカの失敗は祖国の失敗。アンジェリカは不徳は祖国の不徳。
誰も分かってくれない。背負ってくれない。アンジェリカの孤独。
俯けば、ぽつりと流れた涙がドレスに染みを作った。泣きたいだなんて、思っているわけではない。
「もう、放っておいて」
手の甲で涙を拭って、顔を背けた。こんなみっともないところ、誰にも見られたくはなかったのに。
それでも、涙は止まらない。嗚咽を堪えたら、焼けるように喉が痛くなった。
「そんなに擦るなって」
ぎゅっと握った拳を、大きな手に掴まれた。そのまま、その胸に抱き込まれる。
「ごめんな」
宥めるように、その手はアンジェリカの頭を撫でていく。結い上げた髪が乱れないように、そっと。
「あんたがそんなに頑張ってるって、オレ知らなかった」
引っ付いた内側から、ヴィルヘルムの低い声がする。その声にはもう、拗れたような響きはなかった。
「でも、これからは話してほしい。オレも、ちゃんと頑張るから」
抱きしめられたら、自分の身の小ささを嫌でも自覚させられる。なぜだか、この頭は男の広い胸に当然のようにして収まっている。
そうしているうちに、やっと落ち着いてきた。
「……申し訳、ございません」
我に返れば、自分は夫を詰ってしまったという事実が込み上げてくる。その胸に手を付いて体を離そうとしたら、またぎゅっと抱きしめられる。
「いいよ」
まるでここにいろ、と言わんばかりに。
「お人形さんみたいに澄ました顔されるより、その方がいい。オレは、今のあんたの方がすき」
すき、という言葉に胸の奥がきゅっとなった。
それはきっと、十六歳のヴィルヘルムの常で大した意味はないのだろうけど。
「どうしてそんなに、やさしくしてくれるんですか」
その腕の中から見上げれば、ふわりとヴィルヘルムは微笑んだ。
「だって、オレたちは夫婦なんだろ。だったら、何があってもオレはあんたのことを分かろうとしなきゃいけないし、分かりたいよ」
灰青色の目には、一点の曇りもない。アンジェリカの目の前にあるのは、晴れた日の空のように澄み切った美しい瞳だった。
ああ、わたしはどうして、最初からこの男と出会えなかったのだろう。
ヴィルヘルムの語る夫婦というものを、アンジェリカは知らない。自分が知っているのは、ただ待ち続けた母の小さな背中だけだ。
またあたたかな匂いがする。全てを許し包み込むような、明るい日向の匂い。それを感じたらもう、止まらなかった。
恥も外聞もかなぐり捨てて、目の前の男の背に手を回して縋りつく。
なんて広い背だろう。その力強さにうっとりするような気持ちと、今までそれを与えられなかったのだという事実が迫りくる。みっともないったらなかった。
ヴィルヘルムは、何も言わなかった。ただアンジェリカのしゃくりあげる声だけが、夜の闇に溶けていった。




