8.どんな宝石よりも
ヴィルヘルムに手を引かれて見る町は、全てが違った。
世界はこんな色をしていたのか。
目にするもの全ての鮮やかさに眩暈がしそうなほどだった。いつの間にか、アンジェリカは自分が王太子妃であることも頭から抜け落ちるほどだった。
「それ、おいしい?」
平たくて薄いパンにハムと野菜を挟んだものを頬張ったところで、ヴィルヘルムが問うた。
今座っているのは町の広場のようなところだった。名物らしく、ほかにも多くの人がこのパンを昼食に食べている。
「はひ」
はむはむと食べながら返事をしたところで、自分がはしたなくも食べ物を口に入れたまま話してしまったことに気がついた。
コルセットを外したからだろうか。空気までがおいしく感じられる。
そうして、いつもよりも沢山食べられてしまう。こんな感覚を、アンジェリカは今まで知らなかった。
「その、すみません」
「なんで」
アンジェリカが言うと、ヴィルヘルムは怪訝そうな顔をする。彼も同じようなパンを食べていて、そちらにはみっちりと肉が詰まっている。
「オレはアンが沢山食べてくれて嬉しいよ。なーんか安心した」
「安心?」
「そう、安心だよ」
そう言って彼も大口を開けてパンを頬張る。その拍子に肉のタレが飛んだ。
すべらかな頬に付いたタレは、整った顔立ちとはびっくりするほどそぐわない。実際、二十八歳のヴィルヘルムであれば、こんなことは絶対に起こらなかっただろう。
まじまじと見つめてしまっていたら、ヴィルヘルムが目を瞬いた。
「オレの顔になんかついてる?」
「その……タレが」
躊躇いながら指摘すれば、ヴィルヘルムは手の甲で左の頬を拭うようにする。
「なんにも、ついてないけど」
「えっと、そっちじゃなくて」
「えー、もうじゃあアンがどうにかしてよ」
ヴィルヘルムがぐっと顔を近づけてくる。途端に近くなった距離にどうしていいか分からなくなる。髪と同じ色の睫毛が長いな、などと思っていたところで、はっと我に返る。
なんとかポケットからハンカチを取り出した。
「じっとしててくださいね」
「うん、じっとしてる」
こちらは息もできないほどに緊張しているというのに、どこかヴィルヘルムは楽しそうだ。熱くなるのは自分の方の頬。
ゆっくりと、彼の頬に触れた。
身構えた割にはそれは一瞬だった。布越しの指先に、確かな体温がある。四年間ずっと、アンジェリカが見ていたはずの横顔。
拭い取ってしまれば、元の彫像のように整った顔だけがそこにある。
「はい、取れました」
終わってしまえばなんてことはない。アンジェリカはそっとヴィルヘルムから距離を取る。
「なーんだ」
少しだけ残念そうに、ヴィルヘルムは言う。何かを確かめるように右の頬に触れる。
その後は、二人して何も言わずにパンを食べた。不思議なことにずっと、指先に彼の体温が残っているような気がした。
食事を終えてまた町を歩いていたところで、きらりと光るものを見つけた。
顔を向けてみれば、装飾品を扱う出店があった。指輪やネックレスが所狭しと並べられている。店全体がそのまま、宝石箱のようだった。
目を引いたのは青い石のはまった指輪だった。なんだかひどく惹かれてしまうものがある。
「へえ。ああいうのが好きなんだ」
「へっ」
そんなことを言った覚えはない。けれど、ヴィルヘルムはずんずんと歩を進めてしまう。そのまま彼は手近な指輪を手に取った。
「いいよね、こういうの」
二人並んで指輪を見ていたら、現れた女店主が言う。
「彼女さんにおひとついかがですか?」
「か、彼女!?!」
なんということだろう。今までの人生でそんなものだったことはない。
アンジェリカは人生の大半をこの男の婚約者として過ごし、結婚してもう四年になる。
それなのに、彼女とは。
「えへへ、彼女じゃなくてこちらはオレの奥さん」
ヴィルヘルムはにこりと微笑んで訂正する。アンジェリカはまたそれに面食らった。
「おおお、奥さん?!」
間違ってはいない。間違ってはいないけれど、言葉に満ちる親し気な雰囲気が、妙にくすぐったい。
「まあまあ、それは。失礼いたしました」
ヴィルヘルムの言葉に女店主は軽く頭を下げる。
「けれど結婚してからの贈り物も良いものですよ」
聞けばこの店は夫婦でやっているのだという。この品のいい女店主がデザインをして、奥にいる無骨な職人が夫が作製しているのだと。
その店主の左手に細いきれいな金の指輪がはめられていた。
「そっか」
そこでヴィルヘルムはそう呟いた。切れ長の目がこの手を見た気がした。
それは、何も着けられていないアンジェリカの手。
ああ、そうか。そこでどうして“彼女”と言われたのかが分かった。
庶民の間では、男性が女性に結婚の申し込みをする時に指輪を贈るのだと聞いたことがある。
婚約者であるならば、女は当然その指輪をしている。
結婚していたら、夫婦は揃いの指輪をしている。
そのどちらでもないから、自分は彼女だと言われたのだ。
王族の結婚は指輪の交換を伴わない。大切なのはそれよりも契約書による婚姻の成立だ。
婚姻に伴い、ファーレンホルストからは金が、ブロムステッドからは同等の価値の絹が送られたとアンジェリカは聞いている。
政略結婚とは、そういうものなのだ。
そこに愛だ恋だは必要ない。
果たして、アンジェリカがどう思うかは、別として。
ヴィルヘルムはおもむろにアンジェリカの手を取ったかと思うと、そっと左手の薬指を撫でた。
「これとか、どう?」
ヴィルヘルムが選んだのは、唐草模様の美しい銀細工の指輪だった。真ん中に一つ、小さな青い石がはまっている。
「……あ、あの」
応えた自分の声が上擦っているのが分かる。これでは、もう欲しいと言っているのと同じだ。
少しだけ、憧れていたのもある。そんなことができるのは、思うままに相手が選べるからだ。アンジェリカにはそんな自由はない。
案の定、ヴィルヘルムはアンジェリカの顔を見て心得たとばかりに笑う。
「お姉さん、これちょーだい。あ、すぐ着けるから包装はいらないよ」
「はい、承知しました」
店主はすぐに彼の意図を理解する。
「あ、あのわたし自分で!」
こんなものを、ヴィルヘルムに買ってもらうわけにはいかない。そう思ったところで、今の自分は無一文であることに気づく。
「だーめ。こういうのは人に買ってもらうものなの」
対するヴィルヘルムは胸元からさっと小さな袋を取り出した。そういえば、先ほどのパンのお金もここから出ていた。見れば銅貨がたんまりと詰まっている。
「それは……」
「グレンからもらったお小遣い。あ、悪いお金じゃないよ。ちゃんとオレが使っていいお金」
瞬く間に会計が済んで、ヴィルヘルムはアンジェリカに向き直った。
男はさっと片膝を突く。そのまま恭しくアンジェリカの左手を取った。
「アン」
彼しか呼ばない特別な愛称。
添えられる手に比べて、自分の左の手のなんて小さいことだろう。
本来ならここで儀礼の口づけでもするところだろうが、代わりにヴィルヘルムはそっとアンジェリカの手の甲を額に押し戴く。
流れるようなその所作の端々に育ちの良さが滲んでいて、ああ、この人は本当に王子だったのだなということを思わずにはいられなかった。
見上げてくる灰青の瞳。アンジェリカが望んだ石、そのもののきらめき。
「オレと結婚してください」
目が合えば、少年の顔をして男は微笑んでみせる。
誰かに指輪を着けてもらうのは、はじめてだった。するりとはめられた指輪は、アンジェリカの薬指にぴったりだった。
「なんてね」
おどけた様を見れば、誰も自分たちがもうすでに夫婦だとは思わないだろう。
もうずっと前から、この人は、わたしの夫だったのに。
*
王宮に戻ったのは約束の時間ぎりぎりだった。最後は走るようにして王宮に辿り着いて、そこでヴィルヘルムと別れた。
その手は離れる時、ひどく切なく感じたのはどうしてだろう。けれどその全てを塗り替えるように、王太子妃としての役目が現れる。
「遅くなってごめんなさい」
「おかえりなさいませ」
支度にかけられる時間はいつもよりも短い。手早く元のようにアンジェリカにドレスを着せながら、クレアはそれでもとても嬉しそうだった。
町娘の服もスカーフも、全てはこの身から離れていく。けれど、指輪だけをアンジェリカは外さなかった。
翳してみれば、当然のような顔をして指輪の青い石は輝いている。
夜の訪れとともに点されたランプの光に、虹色の揺らぎが落ちる。その光に、侍女はうっとりとした表情を浮かべた。
「唐草模様とは、お美しいですね」
蔓草が絡まり合いながら四方に伸びていくことに由来するこの模様の意味は、永遠だ。婚約指輪の意匠としては最もふさわしいと言えるだろう。
もっとも、十六歳の彼がそれを正しく理解していたのかは分からないが。
どんなに美しくても、これは宝石ではない。そんなものがあんな町中で売られているはずがないと、アンジェリカでも分かる。
もっと高価な石も、王女のアンジェリカには贈られたことは多々ある。
それでも。
「ええ、きれいね」
指輪がはまっている指をそっと撫でる。
外で何かを頬張ったのも、誰かに手を引かれて町を歩いたのも、指輪をはめてもらったのも。
何もかもが経験したことのないことだった。その全てを閉じ込めたかのように、この青い石はきらめいている。
どんな宝石よりも、今左手の薬指で輝くこの石こそが一等美しい。
何度も何度も飽きずにそれを眺めて、今日のことを一生忘れないだろうとアンジェリカは思ったのだ。




