7.お忍び
その日、アンジェリカの部屋を訪れたヴィルヘルムは随分と軽装だった。
中身が若返ったことによる軽妙さだけではない。これではどこからどう見ても王太子には見えない。まるでその辺の町の男か下男のようだ。
そして、下男の格好をした夫はこう誘いかけてきた。
「ちょっと町に出かけてみない?」
「はい?」
一体、彼は何を言っているのだろう。アンジェリカはこっそりと首を傾げる。
「ね、アンもこれに着替えて」
用意されていたのはこちらも簡素なドレスだった。ビスチェに加えて、ご丁寧に頭に飾るスカーフまで用意されている。いわゆる町娘の服装だ。
生まれた時から王女だったアンジェリカは、今までこんな服を着たことがない。全くそそられなかったと言うと、嘘になる。
けれど、こんなことバレたら大事になる。王太子とその妃が王宮から抜け出すだなんて。
思っていることがそのまま顔に出ていたのだろう。ヴィルヘルムは得意げに笑ってみせた。
「大丈夫。グレンとクレアには話してある。夕食までには帰ってきたら問題ないって」
ちらりと振り返れば、後ろに控えていたクレアが神妙にお辞儀をした。知っていて、彼女は黙っていたのだ。なんという根回しの巧さだ。
侍従と侍女の手を借りれば、お忍びも難しくはない。この二人ならば万事上手く隠し通してくれるはずだ。いつの間に、ヴィルヘルムはこんなことを覚えたのだろう。
「でも」
それでも、本当にそんなことをしてもよいのだろうか。アンジェリカには判断が付かなかった。
畳みかけるように、ヴィルヘルムが言う。
「恐れながら、賢明なる王太子妃殿下におかれましては、城下のご様子をご覧になったことがおありで?」
ない。一度も、なかった。
「それって問題じゃない? オレ達の国なんでしょ? よーく知っておかないといけないよね」
まるで嫌味な臣下のような、見事な慇懃無礼ぶりである。
けしかけられているのだと頭では分かる。そして、彼の繰り出す理屈は自分が散々振りかざした「王太子としての振る舞い」に依るものだ。ゆえに反論がしづらい。
アンジェリカが押し黙っていたら、
「じゃ、着替えてね。オレ、待ってるから」
ヴィルヘルムはひらひらと手を振る。こうなるともう、完全に彼のペースだった。
扉を挟んだ隣の部屋で、クレアに着替えさせてもらう。
これはブロムステッドから何度も繰り返されたことなのに、今日着せられる服は今までとは全く異なる。
王太子妃としてあるために身に着けた衣装を、一つ一つ脱がされていく。それには鎧を剥がれるような心もとなさがあった。まるで素肌を晒しているかのようで、落ち着かない。
だから、恨み言のようにこんな言葉も口を突いてきてしまう。
「どうして教えてくれなかったのよ」
クレアはいつだってアンジェリカの味方だった。こんな自分に連れ添って他国にまで付いてきてくれた。それなのに、あの昼食会以降どこかヴィルヘルム贔屓に思えてしまう。
背中の向こうの侍女が、にこりと微笑んだ気配がした。
「お二人で話される機会も、大切でございましょう」
コルセットを解かれると、自然と息が吸いやすくなった。着替えるだけでふわりと肩が軽くなった気がした。
こんなにもゆるやかで動きやすい服が、あったのか。
「それに、きっとこのお洋服も姫様によくお似合いだと思いましたので」
着付けが終わって、アンジェリカはふわりと回ってみせる。いつもきっちりと結い上げられている髪は編み下ろしにされて、スカーフが留められている。
鏡に映る自分は知らない女のようだった。けれど、悪い気分ではない。
今の自分はヴィルヘルムにどんな風に映るのだろう。それだけが気になって仕方がなかった。
*
町は、思いのほか賑やかだった。
行き来する人波にアンジェリカは圧倒される。王都の交易が盛んなこと、訪れる商人の数が増えたことは宰相の報告で聞いていた。けれど、実際聞くのと見るのとでは全く違う。
「あっ」
立ち尽くしている間に銀色の頭が見えなくなっていた。
ヴィルヘルムはどこだろう。お目付け役のつもりで来たというのに、これでは失格ではないか。きょろきょろと辺りを見回してみても、長身の姿は見えない。
どん、と肩がぶつかる。
見れば、大きな荷物を持った男がのしのしと歩いていた。誰もアンジェリカのことなど気にもかけない。
当然だ。だって今のアンジェリカはただの町娘に過ぎない。王宮で王太子妃として傅かれているのとは、わけが違う。
本物の自分としての価値を思い知らされた気がした。
「ねえ」
声とともに手首を掴まれる。
「なんですかっ!」
自分の喉から思いがけない大きな声が出た。振りほどくように腕を動かしても、不躾な手は揺るがない。きっと振り返れば、そこに探し続けたヴィルヘルムがいた。
「何って……どうかした?」
端正な顔に純粋な驚きが浮かぶ。それでも、ヴィルヘルムはアンジェリカの手を離さなかった。
「殿下」
「はぐれたら困るからさ」
するりと滑らせるように、手を繋がれる。剣を握る手は、自分の手を包み込んでしまえるほど大きくて、硬い。これはこのままヴィルヘルムは培ってきた力の象徴だろう。
「あっちにおいしそうな屋台があったんだ。ね、行ってみようよ」
「でも、わたしは」
「いいからいいから」
手を引かれれば、歩かざるを得ない。王宮から離れた世界で見る灰青は鮮やかさを増して、この心を捉えて離さない。それを分かっているかのように、ヴィルヘルムはにやりと笑った。
「見ておきたかったんだよな、今の世界」
ヴィルヘルムはすっと、切れ長の目を細める。その顔に微かに王太子としての気概が見えた気がした。
そうだ、二十八歳のヴィルヘルムはアンジェリカを顧みてくれることはなかったが、政務には手を抜くこともなかった。
「あ、あとさ」
吐息が耳元に触れる。アンジェリカにしか聞こえないささやきに、心臓が跳ねる。
「オレのこと『殿下』って呼んじゃだめだよ。こんなところに王太子がいるわけないんだから」
そうだ、こんなところに王太子がいると分かったら大事になる。だから、ここにいるのがヴィルヘルムだと気づかれてはならない。
「だからね、アン」
そこから先を、彼は言わなかった。けれど何を望んでいるかは明確だ。
「さあ、行こっか」
石畳が軽やかに二人分の足音を奏でる。痛いというほどの力ではないけれど、十六歳の夫はこういう時絶対に譲ってはくれない。そして、その強引さを心地よく感じる自分がいる。
「はい」
目の前にいるのは、ひどく幼い顔をした夫。呼んでくれと言われたい愛称を、口にする勇気はまだない。
それでも今はこの手だけがアンジェリカと世界とを結ぶ縁のように思えた。




