7.記憶の重複
「妃殿下にお伝えしたき儀がございます」
魔術師団長はそう言って跪き、アンジェリカの前で頭を垂れた。きっとヴィルヘルムに関わることだろう。
そう思って人払いをしたから、今この部屋には自分とこの魔術師団長しかいない。
「なにかしら」
とうとう呪いを解く別の方法が見つかったのだろうか。アンジェリカは膝の上で手を揃え、静かに彼の言葉を待った。
「呪いを解いた後のことなのですが」
けれど、紡がれたのは期待の斜め上をいく内容だった。
「殿下は今の十六歳に戻っておられた期間について、記憶を失う可能性が高いと考えられます」
「記憶を、失う?」
「はい。魔術は『記憶の重複』を許しません。今の殿下が体験する記憶は、もし呪いが解ければ、殿下の時間軸に重複する『別の軌道』として排されることが多いのです」
人は同じ時間を二度生きることはできない。
だから二回目の十六歳であるこの時間を、ヴィルヘルムは忘れてしまうのだという。
この呪いが解ければ、今までと同じ単調な毎日が帰ってくるのだと思っていた。けれど、それは何も具体的には考えられていなかったのだ。
夫はこの現在を忘れてしまうのだという。
「それで、その方法は見つかったの?」
「いえ、残念ながら」
その返事に、安堵してしまった自分がいた。僅かに浮かせてしまった腰をもう一度椅子の上に落とし、背筋を伸ばして座り直す。
「そう」
グレンに頼ませた女探しも進んでいない。アンジェリカに一度も触れなかったから外に女でも囲っているのかと思っていたが、そういうわけでもないらしい。
この世界に、ヴィルヘルムが愛する女は本当に存在しないのか。
「申し訳ございません。我々の全力をもって、引き続き解呪の方法を探す所存です」
「ええ、お願いね」
淡々とそう口にしながら、考えてしまうのは二人のヴィルヘルムのこと。
二十八歳のヴィルヘルムは、振り返りもせずアンジェリカのことを見なかった。
十六歳のヴィルヘルムとは、目が合う。
その目はいっそ不躾なほどにアンジェリカを見つめてくる。
元の夫に戻ってほしいと、アンジェリカは心の底から願っている。
その気持ちに嘘はない。
頭ではそれが一番正しい選択であると分かっている。
けれど、彼らは共に在ることはできないのだ。
「このこと、殿下には」
「まだお話しておりません。まずは妃殿下に、と」
魔術師団長はよく心得ている。
この国に必要なのは奔放な十六歳のお子様ではない。強く正しく国を守れる二十八歳の王太子だ。
「絶対に殿下のお耳には入らないようにして。万が一、解呪を拒むようになったりしたら大変だわ」
「承知いたしました」
もう一度恭しく礼をして、魔術師団長は王太子妃の部屋を後にした。
彼がいなくなった部屋の中で、大きく息を吐く。
心のどこかで、呪いを解く方法なんて見つからなければいいのにと思ってしまう自分がいた。
気は休まらないし、正直子守りは勘弁願いたい。
そう思っているのに、縋るように「アン」と名前を呼んできた声が耳に焼き付いている。
あの宝石のように輝いた灰青色の瞳は、アンジェリカの心をぎゅっと掴んで離さないのだ。
*
「殿下は最近、よく笑われるようになられましたね。まるで別人のようですわ」
今日のダンスの講師を務める伯爵夫人が言った。
別人、ということはない。けれど、記憶を失っているのだからほとんどそれに近いのかもしれない。
「そう、ですね」
けれど当然そんなことを口に出せることもなく、ただ曖昧に微笑むだけに留めた。
十六歳のヴィルヘルムが王宮に適応してきた結果、アンジェリカは無事彼の子守りからは解放された。もう必死でリードを握りしめていることもない。
なので、こうしてダンスの練習をすることもできる。舞踏会も近い今、アンジェリカにとってこれはとても重要な時間だった。
「では、前回の続きからはじめましょうか」
「ええ」
アンジェリカとて王女の端くれだ。それなりにダンスの心得ぐらいある。
けれど、ファーレンホルストとブロムステットでは好まれる曲の種類が異なるのだ。フォックストロットは得意だが、この国特有の早いテンポのワルツがアンジェリカは苦手だった。
舞踏会のはじまりは、いつも王太子とその妃によるダンスだ。
最初にこの国で舞踏会に出席した時、アンジェリカと踊りながらヴィルヘルムはひっそりとため息を吐いた。
それはほんの微かなことで、他のどの列席者にも分からなかったと思うけれど。向かい合って踊る自分には通ずるものがある。
きっと、ヴィルヘルムはアンジェリカに失望したのだ。
それでも、彼は見事アンジェリカをカバーして踊り切ってくれた。時折乱れそうになるステップを、流れるようなリードで導いてくれた手腕はさすがと言わざるを得ない。
けれど、今度一緒に踊るのは十六歳のヴィルヘルムだ。王子として育てられたのならそれなりに教え込まれているだろうが、自分のことぐらい自分で何とかしたかった。
くるりくるりとステップを踏みながら考えてしまったのは、またヴィルヘルムとのことだ。
ヴィルヘルムはあれから、暇さえあれば一緒に食事をしようと声を掛けてくる。時折ふるふると振っている尻尾の幻覚まで見える気がする。
つられて、アンジェリカも少しずつ昼食を取るようになった。おかげで少しばかり体重が増えてしまって、舞踏会で着る予定のドレスを手直しする羽目になった。
これはいいことなのだろうか。悪いことなのだろうか。アンジェリカには判断がつかなかった。
いつか本物のヴィルヘルムに戻った時、彼はこの時間のことを忘れてしまうのだ。
覚えているのは、自分だけになる。
最初から何もなかったのなら、ずっとただの白い結婚だったのなら、耐えられる。
こういうものだと諦めて、身の上に降り積もる月日をやり過ごせばいいだけの話だ。
けれど、今はもう違う。
あたたかさを知った体に染み込む寒さは、きっと今までの比ではない。
その時、わたしはわたしのままでいられるのだろうか。
「あっ」
ぐっ、と体が傾いだのが分かった。そのまま、床に吸い寄せられるようにして倒れ込んでしまった。
「妃殿下」
伯爵夫人が駆け寄って来る。その顔を見て、みっともなく自分が足を滑らせて転んでしまったのだと気が付いた。
「大丈夫、です」
差し伸べられた手を取って、立ち上がろうとする。けれど、左足に力がかかった時、ずきんと鋭い痛みが走った。
「……っ!」
「どうかされましたか?」
おそらく足を捻ってしまったのだろう。正直普通に歩くだけでも足が痛んだ。ダンスなどできる状態ではない。
「いいえ、なんでもありませんわ」
だが、誰にも知られてはならない。アンジェリカはドレスの内でこっそりと足を引きずりながら、部屋に戻ったのだった。




