6.好きなものきらいなもの
ヴィルヘルムは目に見えて分かりやすく、“二十八歳”の世界に適応していった。
といってもすぐに十六歳の子供に政務ができるわけではない。けれど、彼はそれを補う方法を見つけたのだ。
例えば、重臣に何かを尋ねられたとする。その時、ヴィルヘルムはすぐには答えない。
代わりに、
「そなたはどう思う?」
と対立する別の重臣に意見を問うのだ。そうやって両方の意見を聞いてから、重々しく口を開く。
それはひとえに、宰相とグレンが凄まじい労力で宮中の権力闘争を教え込んだからにほかならないけれど。
それでも、随分とうまくやっていると思う。現にその証左のように宰相の眉間の皺はいくらか薄くなった。
返答がおぼつかないところも、幼さが垣間見えるところも確かにある。けれど、十六歳のヴィルヘルムは恐ろしく人当たりがよかった。
誰にでもやわらかく話しかける。陽だまりのような笑顔に、いつの間にか絆されてしまう。
大人のヴィルヘルムが、完璧さと近寄り難さでその権威を保っていたのとは対照的だ。
孤高の王太子は、いつの間にか人の輪の中心に立っている。その早さに、正直一番ついていけていないのはアンジェリカだった。
「あ、アン! こんなところにいた」
廊下でアンジェリカの姿を見つけたヴィルヘルムは、一目散に駆けてきた。その向こうで目を白黒させているグレンの姿が見える。
言葉を選ばずに言えば、飼い主を見つけた犬のようだった。
「ね、一緒にお昼食べよ」
「は、はい?」
「早く行こ。オレもうお腹すいちゃったよ」
そう言って、戸惑うアンジェリカの手を取って歩き始める。
アンジェリカは普段昼食を取らない。せいぜいお茶の時間に少し菓子をつまむ程度だ。
「わたしは、いいです」
その手を引いて、立ち止まる。
「え、食べないの?」
きょとん、と不可思議なものでも見るように灰青色の目が瞬きをする。
別にそこまでおかしなことは言っていないと思う。元より王侯貴族の子女はそこまで食事を取らないように育てられる。コルセットも締めるから、尚更だ。
「だからこんなに細いのか」
そのままヴィルヘルムは、確かめるようにアンジェリカの手首をきゅっと掴む。そして、おもむろに頷いたかと思えば勝手に頷いてまた歩き出した。
「あの、ですから」
「いいじゃん。だったらオレの向かいに座っててよ」
そのまま、ぐっと顔を覗き込まれる。
「だめ?」
そう問われれば、だめなことはない。
傍から見れば、王太子とその妃がともに昼食を取るだけだ。咎められるようなことは、何一つとしてない。
そうして気が付いた時には、アンジェリカはヴィルヘルムの向かいに座っていた。
彼の前には料理が所狭しと並べられている。
元々ヴィルヘルムはこんなに沢山の食事を食べる人だったのだろうか。食事を共にしたことが全くないということはないが、それは大抵公式の晩餐会などの場だったから普段の食事については知る由もない。
ただ、さすがは王族というべきなのか、どれも綺麗な所作でとてもおいしそうに食べるので、不快な印象は受けない。
なんなら、湯気とともに立ち上る料理の匂いに少しお腹が空いてきてしまうくらいには。
ぼんやりと座って、さながら生い茂る森の木々をなぎ倒していくかのごとく食べ進める様を眺めていたら、美しい男は食べかけの肉の皿から顔を上げた。
「……食べる?」
「け、結構です!!」
もしかして自分はそんなにも物欲しそうな顔をしてしまっていたのだろうか。表情で考えているようなことを悟らせるようでは、三流もいいところだ。
「いいじゃん、食べなよ」
「ですから、結構ですと」
「あ、やっぱり食べかけじゃだめか。じゃあスープにする?」
そういうことを言っているのではない。けれどヴィルヘルムはどこ吹く風で、スプーンでスープを一さじ掬って差し出してみせる。
「はい、あーん」
つまりはこれを食べろ、ということなのか。
「え、えっと」
アンジェリカはそれを見てしばし固まるほかなかった。
「なんで? こっちはまだ手着けてないよ?」
「その、皆が、見ておりますし……」
衆人環視の中、大口を開けて食事を取るようなことを許されるようにはアンジェリカは育てられていない。そもそも人のものをもらうだなんて行儀が悪いにもほどがある。
「あ、なるほど」
スプーンを戻して、ヴィルヘルムは納得したようにぽんと手を叩いた。よかった、やっと説得に成功したようだ。
けれど、そう思ったのもつかの間。
「じゃあ、みんな悪いんだけど。アンが恥ずかしいらしいから、ちょっと向こう向いといてくれる?」
朗々とした声でそんなことをのたもうた。
「なっ!」
恥ずかしいと口に出されることほど、恥ずかしいこともない。アンジェリカはうっかり椅子から立ち上がりそうになったところを、寸前のところで留まった。
目を遣れば、クレアが微笑んで礼をしてくるりと後ろを向き、グレンが恭しく頭を下げて同じように背を向けた。
それを見て、控えていた者達も続く。
どうしてだろう。この目に見えるのは背中だけなのに、グレンもクレアも、どこか嬉しそうに見える。
「ね、これならいいでしょ」
得意げにヴィルヘルムが言う。その灰青が、また宝石のように輝いた。
誰も見ていない。目の前にいるこの夫一人を、除けば。
それだけは、事実である。
「じゃあ、今度こそ、あーん」
差し出されたそれを、アンジェリカはもう断れなかった。
少しだけ口を開けて、スプーンに口をつけた。野菜の滋味が舌の上に広がって、ほどよい温かさのスープが喉を滑り落ちていく。
「どう? おいしい?」
「はい、おいしいです」
これは嘘ではない。王宮で供される料理はどれも贅の尽くされたものだが、どうしてだかいつもそれほどおいしいとは思えなかった。
けれど、ヴィルヘルムが手ずから食べさせてくれたこれは違う。はっきりと味があって、身に染み込んでいくような気がする。
「もう少し、食べる?」
そう言って、ヴィルヘルムはもう一さじスープを掬う。
「あの、でもそんなことをしたら殿下の分が」
「いいよ。オレはアンに食べてもらった方が嬉しい」
その言葉に、二の句が継げなくなった。切れ長の目がひどく優し気に細められる。
頬が熱くなっていくのはどうしてだろう。
これは、王太子妃としては正しい行いではないと、分かっているのに。
自分とヴィルヘルムの間の空気がゆったりと流れていく。まるでこの世界に二人きりのような気さえしてくる。こんな感覚を、アンジェリカは今の今まで知らなかった。
誤魔化すように、また差し出されたスープを飲んだ。それを何回か繰り返して、アンジェリカは結局スープを全て飲み干してしまった。
なんだか空っぽだったお腹の辺りがぽっとあたたかくなった。ずっと埋まらなかった欠落にすとん、と何かがはまったような気がした。
「あ」
惚けた顔を隠そうと俯いたら、ぽつんと残された人参に目がいった。きれいに片付けられた皿の上で、それだけが浮かび上がるようにしてある。
アンジェリカが顔を上げると、ヴィルヘルムはそっと隠すように皿をテーブルの隅へと押しやる。
間違いない、これは分かっていてやっている。きっと、きらいなのだ。
ヴィルヘルムにきらいな食べ物があるだなんて、アンジェリカは露ほども考えたことがなかった。
「殿下」
言外に圧を込めて言ってみても、十六歳はどこ吹く風だ。
「きちんと全部食べないと、大きくなれませんよ」
「いいじゃん、別に。オレもう大きくなれたし」
ふってわいたように都合よく二十八歳の体を手に入れた彼はそう言って、頭の後ろで手を組んでみせる。
「健康のためにも、好き嫌いをしてはいけません」
「なんだが、母さんみたいだな」
我ながら、さすがにこれは口うるさい母親のようだとは思ったけれど。二の句が継げなくなって、アンジェリカは押し黙る。
「じゃあさ、アンが食べさせてよ」
「はい?」
追いやられていた皿がぐいっと差し出される。
「アンが食べさせてくれるなら、ちゃんと食べる」
王宮の食事にふさわしく、美しくシャトー切りにされた付け合わせの人参。グラッセされたそれは、皿の上でつややかに輝いている。
「でも」
ヴィルヘルムがしたようなことが、自分にできるとは思えなかった。控えの者もこんなに大勢いるのに。
「だから、誰も見てないって。な? グレン」
振られたグレンは後ろを向いたまま、こくこくと頷く。
「はい、見ておりません。神と殿下に誓って、私は何も」
律儀な侍従は両手で目まで覆う始末だが、直視されるよりも余計に恥ずかしいのはなぜだろう。
代わりに、切れ長の目は訴えるようにじっとこちらを見ている。また、断れなかった。
「分かり、ました」
意を決して右手でフォークを取り、人参を突き刺す。左手を添えて、それをヴィルヘルムの口元へと運んだ。彼はぱくりとそれを頬張ると、ひどく満足げに微笑んだ。
部屋に戻ってからもクレアはずっとにこにこと微笑みを絶やさなかった。
「何か言いたいことがあるんじゃない?」
そう訊ねても彼女は、「いいえ、何も」とはぐらかすばかりだった。




