26.祝福
そうして、再び沈黙が満ちた。
気まずいというわけではない。厭うているわけではない。
けれど、記憶が釣り合わないことは事実である。そのぎこちなさは、ふと思い出したように浮かび上がってくる。
こういう時、どうしていたんだろう。
例えば十六歳のヴィルヘルムとは、と考えたところで、彼はこういう空気を少しも気にかけない人だったことに思い至った。
アンジェリカが呆然としていても、それを軽やかに飛び越えていつの間にかこの膝の上に寝転んでいたのである。
ああ、そうだ。この手があった。
「あの、膝貸しましょうか?」
これなら、きっとヴィルヘルムも喜んでくれるだろう。そう思って、自分の膝をとん、と叩いて示した。
けれど、夫は露骨に顔を顰めてしまう。ただ灰青の目は、じっと食い入るようにアンジェリカの膝へと向けられている。
「いや、ですか?」
今度は自分が訊ねる番だった。そもそも彼がどうしてあそこまで膝枕なるものに夢中になっていたのか、アンジェリカには分からないのだけれど。
「返さなくていいですよ?」
「違う。そうではなくてだな……」
ヴィルヘルムが首を横に降れば、光の粉でも散りばめたようにシルバーブロンドが輝く。
ゆったりとした夜着に着替えた夫を包む空気は、普段より幾分か砕けたものだ。下ろした髪はあどけなく、見えなくもない。
「大体、君に甘えすぎなんだ」
膝に頬杖をついて顔を背けたかと思えば、拗ねたようにそんなことを言う。まるで他人事みたいに。
「やれ眠れないだの、膝を貸せだの。やることが幼いんだ。子供じゃあるまいし」
「十六歳なら十分に子供だと思いますけど」
「それに、俺はもう十六じゃない」
「わたしは、甘えてもらえて嬉しかったですよ」
そう、アンジェリカは嬉しかったのだ。自分を真っ直ぐに慕ってくれる彼が、どうしようもなく愛おしかった。だから、今のヴィルヘルムに甘えてもらっても構わないのだけれど。
「えっと、殿下」
またそう呼んでしまったら、顰められた顔がますます険しくなる。もっともそんな顔をしていてもその美しさは損なわれることはなくてむしろ研ぎ澄まされるような気さえするのだけれど。
「寝台の上でまで“殿下”はやめてくれ」
じゃあなんて呼べばいいのだろう。
「だんな、様?」
「それは、なかなかに魅力的だが」
この顔を見る限り、少し違うらしい。だったらやはり、
「ヴィル……?」
「なんというか、あれだな」
それだけ呟いて、ヴィルヘルムはぱたんと寝台の上に横になった。彼と手を繋いでいるアンジェリカも、自然と引っ張られて共に横になるようになる。
「そもそも、惚れた女に母親に呼ばれていた呼び名で呼ばせようとしたのが、俺はどうかしている」
「大事な呼び名なんですもの。別に構わないと思いますけど」
「全然良くはない。マザコンもいいところだ。俺は君に、母親を求めているわけじゃないんだ」
受け入れるように、ヴィルヘルムが両手を広げてみせる。
「俺も、君に甘えられたい」
わたしと同じことを、この人も思うのか。
「あとできれば、十二も年下の自分に負けたばかりでは、いたくない」
無心にその胸に飛び込むことを許されるほど、わたしももう幼くはないのだろうけど。
「おいで、アン」
続く言葉に、体が勝手に動いてしまった。見れば自分の小さな頭はヴィルヘルムの腕を枕にしたかと思うと、肩辺りに当然というような顔をして収まっている。
「俺をどう呼ぶかは、君が自分で何か考えてくれ」
「わたしが考えて、よいのですか?」
にやりと笑って、男は満足げにぎゅっとアンジェリカを抱きしめる。
「他に誰がいるんだ」
あたたかなその体温に包まれれば、懐かしささえ感じる陽だまりの匂いがする。それが彼が好んで纏う落ち着いた木々の香りとやわらかに混ざり合って、ひどく胸がときめいてしまう。
「どうせずっと一緒にいるんだ。ゆっくり考えるといい」
右手の指輪、千の粒を示すというミル打ちは、永遠を示すという。
違う意匠で、同じ意味を願ってくれた人。
結局のところ、二人のヴィルヘルムがアンジェリカに望んでくれたのは、同じものだった。
当たり前のように彼が語ってくれる未来が嬉しい。
広い背に手を回して、確かな胸板に額を預けた。そのまま深く息を吸う。
「そうですね」
アンジェリカはうっとりと目を閉じて、惹かれてやまないヴィルヘルムの香りに存分に浸った。
*
ぴん、と突如部屋に満ちた魔力の気配に、ヴィルヘルムは目を開けた。
一瞬で皮膚が粟立つほどの強い魔力。
隣で眠る者を起こさないようにそっと、絡められた腕を外す。そのままヴィルヘルムは起き上がって、辺りを見回した。けれど目を凝らしても何の姿も見えなかった。
すると何もない闇に、足からふわりとその姿が現れる。蠱惑的な肢体が全て顕現したかと思えば、真っ赤な髪が揺れた。
ヴィルヘルムは、ただそれを見つめていることしかできなかった。
「やあ、久しぶりだね」
にたりと、真っ赤な唇が弧を描く。神出鬼没を絵に描いたような、魔女の姿だった。
「一体何の用ですか」
「やだなあ、そんな怖い顔しないでよ。ボクと君の仲じゃないか」
「と、言われましても」
言い返す自分の声に棘が混じっているのが分かる。
魔女の金色の目がゆらりと動く。ヴィルヘルムは傍らのしどけない妻の姿を隠すように上掛けを掛けた。
もう二度とこの手から零れ落ちることがないように、皆を守ることができるように。そのために魔法を鍛えたつもりだった。今の自分はあの頃の自分とは違うとわかっている。
けれどそれでも、例えばこの魔女と真正面から戦って、勝てるとは思えなかった。
何かあった時、果たして自分はアンジェリカを守り切れるだろうか。ぎゅっと上掛けを握りしめて対峙することしかできなかった。
「別に取って食ったりはしないよ」
どうだか。生きた人間の心臓が好物だと言ったくせに。
睨み付けても、彼女は全く動じない。現れた時のまま、ゆらゆらとそこに漂っている。その様は異質でしょうがないのに、その微笑みとは不思議としっくりと馴染む。
「いやさ、君と賭けをしたじゃない。それはいいんだけどさ、悪いことしたなと思って」
ふっと、彼女は息を吐いた。浮かべる微笑みの種類が少しだけ変わって、揺蕩う魔力の種類が変化した。
「君はいいよ。全部分かっていて、その上でボクと賭けをしたんだから。でも、君の奥さんは違う」
ああ、そうだ。
ヴィルヘルムは否応なしにアンジェリカを巻き込んでしまった。
真実の愛とやらの片棒を担ぐ存在として。
「この子は何も知らないまま、ボクらの賭けに関わる羽目になった。その分のけじめは、つけないと」
猫のような金色の魔女の目はアンジェリカの体を見透かすように、細められている。その目が、意味ありげに胸元から滑っていく。
「だから、何か適当な加護か付与でもあげよかと思ったんだけどね。でもこの分だとこの子本人にあげるより、違う方がいいかもしれないね」
それはこの人智を超えた力を持つ魔女なりの、精一杯の誠意なのかもしれなかった。
「なかなかできるもんじゃないよ、あんなこと」
魔女は手を伸ばして宙にかざす。すると、光の粒のようなものが灯り始めて部屋を昼間のように照らした。
「命綱も付けずに一息で木から飛び降りてみせた、彼女のその度胸と決意は賞賛に値する」
魔女の手から放たれた光はくるくると部屋を飛び回っている。
ひとつ輪から離れた光は、ヴィルヘルムの髪をくすぐるようにして弄ぶ。そっと手を伸ばせば、息継ぎをするように一度ヴィルヘルムの指に止まった。そうしてまた、踊るようにしてきらきらと飛んでいく。
「それはそうですね」
それらはまるで悪戯好きの子供のようだった。
触れてしまえば、いやでも分かった。間違いなく、これは祝福の色をした魔力だ。
しばらくの間そうしていたかと思うと、光はやがて満足したように魔女の金瞳が見つめる先――アンジェリカの腹の辺りに集束する。
「君は、いい妻を持ったことを心から感謝することだ」
その言葉と共に光の粒は、彼女の内に吸い込まれるようにして、見えなくなった。
「じゃあ、またね。まあ、もう会うことはないような気がするけど」
現れるのが突然なら、消えるのも同じこと。最初に赤い髪が消えて、次にしなやかな手足が続く。
「そうそう。ボク、十六歳の君のことは、割ときらいじゃなかったよ。だから少しだけ、おまけしておいた」
そう言って、魔女はまたにたりと笑った。
「いいものを見せてもらった。これで貸し借りは、なしだ」
それだけ言い残して、何もなかったかのように魔女の姿は消え失せた。
隣で横たわるアンジェリカの姿を見遣る。長い睫毛は伏せられたままで、規則的に胸元が上下する。どうやら穏やかに眠っているようだった。
「ん……」
寝返りを打った彼女は、敷布の上のヴィルヘルムの手をきゅっと握った。
顔にかかった茶色の髪をそっと払う。起きている時は凛とした表情を浮かべる妻が、こんなにもあどけない顔をして眠るのだとヴィルヘルムが気づいたのは、つい最近のことだ。
アンジェリカは何も知り得ない。この夜起きたことも、何もかも。
それでも、ヴィルヘルムは全てをアンジェリカに与えてもらったのだと思う。
「ありがとう、アン」
丸い額にそっと口づけて、ヴィルヘルムは眠る妻の隣を起こさぬよう、また静かに自分の身を横たえた。




