25.二つのきらめき
「本当にこれでよかったのでしょうか?」
アンジェリカが訊ねると、ヴィルヘルムは立てた膝の上から顔を上げた。解かれたシルバーブロンドがはらりと流れる。
「不安なのか」
アンジェリカとヴィルヘルムは、ブロムステットの使者を退けるために一芝居打った。けれど、父王があの程度でおめおめ引き下がるとは思えなかった。
何か理屈を捏ねてきたらどうしよう。その時、この人に迷惑をかけるような結果になったら。
そう思って俯いたら、頭の上に大きな手が下りてきた。なんの変哲もない茶色の髪が、長い指に丁寧に梳かれていく。
「あれでだめなら、私が直接ブロムステットに出向く。だから、安心するといい」
「出向いて、どうなさるのですか?」
「それはまあ、魔力で牽制したり必要なら恐喝したり……色々な」
まるで明日の天気の話でもするような、なんてことない口ぶりだった。それはそれで、なんというか余計に心配になる。仮にも王と王太子だから、殴り合うことはないだろうけど。
「それに多分、君が思っているより事態は悪くはない。君の父上は君をただ心配しているだけだろうから」
続くヴィルヘルムの言葉にアンジェリカは目を瞠った。
心配? あの父がそんな? あり得ない。
きっとその気持ちそのままの顔をしてしまったのだろう。ヴィルヘルムは一度眉を下げてふわりと微笑んだ。
そうすると、硬質な美貌がひどくやわらかなものに変わる。十六歳の彼の奔放な笑みともまた違った何か。
「他国に嫁いだ娘を心配するのは当然のことだろう。別におかしなことではない」
「大して美しくも賢くもない娘なんて、気にかけたことなんてないくせに」
恨み言は息を吸うように口をついて出てくる。
父は、母を愛さなかった。大切にしなかった。
だから、そんな女の生んだ子なんてどうでもいいだろうに。
「お父上が真に何を考えているかは、私にも分からないことだが」
長い指は今度はむくれた頬をつつくようにしている。
「君は自分の頭で考えることができる美しい人だよ。そんな風に言うんじゃない」
アンジェリカの勘違いでなければ、弾むようなその手が、どこか嬉しそうに見えた。
「何が嬉しいのですか」
振り返れば、そこにあるのは変わらぬ端正な顔立ちだけである。けれど。微妙に表情の変化はあるのだ。アンジェリカはやっと、それが少しずつ分かるようになってきた。
「ああいや、君と普通に話ができるのが嬉しくてな」
そんな風に直截に返されたら、なんて言っていいのか分からなくなる。慌てて寝台に手をつくと、ヴィルヘルムの手と重なった。
「はっ」
慌てて手を引っ込めようとしたら、きゅっとその手を握られた。灰青の目が真剣な色を帯びている。
「何もそんなに嫌がることはないだろう」
「別にいやがってる、わけじゃ」
そう、いやなわけではない。
互いにあったわだかまりのようなものは、緩やかに溶け落ちた。けれど、ふとした時に浮かび上がってくる気恥ずかしさだけは、まだ消化しきれていない。
手なんか何度も繋いでいる。というかもっと、それ以上のことだってしたのに。
どこかぎこちなく手だけが触れ合ったまま、見つめ合った。
「もっとゆったりと過ごしてくれていい」
「いや、でも」
ここはヴィルヘルムの居室だ。なんとなく所在なげで、アンジェリカは寝台の上でちんまりと正座をしていた。
「夫の部屋に妻がいても何の不思議もないだろう」
そう言われれば、確かにそうである。こんなやり取りを、前にもした気がした。
「はい」
アンジェリカは足を崩して寝台に座り直す。
すると、ヴィルヘルムはそっとアンジェリカの手を取った。
「アンジェリカ」
この左手には、彼がくれた指輪がある。地金にミル打ちが施されていて、大きな青い石がはまっている。
使者に見せつけるなら指輪の一つも必要だろうと、彼が用意してくれたものだ。
恭しく手を添えたかと思えば、その指輪をヴィルヘルムはそっと抜き取った。
そのままそれを右手の薬指にはめ直す。
「でんか……?」
「君に返さなければ、と思っていたんだ」
意を決したように、ヴィルヘルムは一つ息を吐いた。
そうして彼が寝台の近くの棚から取り出したものに、アンジェリカは目を見開いた。
「それは」
空いた左手の薬指にはめられたのは、唐草模様に青の石。
忘れるわけもない。十六歳のヴィルヘルムがくれて、そして投げ捨ててしまったあの指輪だった。
それを二十八歳の彼がまたこの左手に戻してくれた。
「どうして、これを」
もしかして、彼は贈ったことを覚えていてくれたのだろうか。一縷の望みをかけて縋るように見上げれば、怜悧な相貌は静かに首を振った。
「君は時折、左手の薬指を撫でるだろう。あれはそこに何かがあったから生まれるくせだ。俺といる時、君はそんなことをしなかった。そう考えれば、大体の察しはつく」
そんなくせが自分にあっただなんて、思いもよらなかった。それほどまでに、この指輪はアンジェリカの拠り所だったのだ。
「俺が贈ったものなら、僅かでも俺の魔力が残っている。それを頼りに、少し探した」
木の上の枝に引っかかっていたとヴィルヘルムは教えてくれた。どおりで、いくら必死になって地面を探しても見つからなかったはずだ。
十六歳の彼ならともかく、魔力操作に長けた二十八歳の彼ならそれは容易いことだっただろう。
両の手で、青い石が輝いている。
この心が求めた、二つのきらめき。
果たしてこの両方を着けていて、いいのだろうか。
それは身に余る贅沢だ。多くを望めば、過ぎたものは零れ落ちていくものだから。
凛とした声が、頭の上から降ってきた。
「ファーレンホルストの東の地方では、左手に婚約指輪、右手に結婚指輪をする風習があるんだ」
まるでアンジェリカの不安を全て見透かしたような言葉だった。
「左手が示すのは今までの自分、右手が示すのはこれからの自分。それを両方捧げると、その指輪に誓うんだ」
それは嘘ではないのだろう。アンジェリカの知らない、ブロムステッドにはない、この国の文化。
ヴィルヘルムはアンジェリカの手にそっと唇を落とす。今の夫は、こうして時折自分に口づけてくる。
それが当たり前の夫婦の触れ合いなのかをアンジェリカは知り得ないけれど、決していやではない。
「だから君も両方着けていればいい。先を越されたのは癪だが、」
ヴィルヘルムは彼には珍しく、にやりと笑ってみせた。
「俺の石の方が大きいからな」
右手の指輪の石は本物の碧玉だろう。この人はこんな大人の顔をして、時々ひどく子供のようなことを言う。
「わかりました」
その様がなんだか無性に懐かしいような気がして、アンジェリカはこっそりと心の中で笑った。
例えば、ドイツ、オーストリア、ポーランド、ノルウェー、チェコなど東ヨーロッパや北欧では、右手薬指に結婚指輪、左手薬指に婚約指輪をはめるのが主流だそうです!
というのを参考に考えました。




