25.重なる未来
小さな男の子が泣いていた。きっとどこかのご令息だろう。彼の視線の先には、木の枝に風船がひとつひっかかっている。
おそらくこの祝い席の余興か何かで配られたものなのだろう。到底子供の手で届く高さではない。
ヴィルヘルムはすっと一歩前に出た。そして、おもむろに手近な枝に手を伸ばした。
思わず見とれるほど軽やかに木に上ったかと思えば、風船を取ってすっくと降りてきた。身のこなしのしなやかさが、まるで猫のよう。
汚れることも厭わずに、ヴィルヘルムは泣きじゃくる子供の前に片膝をつく。切れ長の目は深い青を湛えて少年を見つめた。
「大切なものからは、手を放してはいけない。いいね」
言い含めるようにそう言うと、小さな手に風船を握らせた。
やがて母親が弾かれたように飛んでくる。王太子の手を煩わせたことをひどく詫びて、何度も何度も頭を下げていた。
ヴィルヘルムはそれに苦笑して、彼にしては珍しくやわらかに微笑んだ。
アンジェリカは一部始終を、少し離れたところから見ていた。
全てが、二重写しのように見えた。焼き付いたように、目から剝がせない。
「どうかしたか? アン」
アンジェリカの姿を認めたヴィルヘルムは、心配そうに顔を覗き込んできた。よほどひどい顔をしてしまっていたのかもしれない。慌ててアンジェリカは首を横に振る。
「いえ、あなたが木に登られるとは、思わなくて」
「ああ、そういうことか」
ヴィルヘルムは遠くを見るような目で、先ほど自分が登った木を見つめた。
「昔はよく登ったんだ。高いところに登ると気分が晴れるような気がしてな。確かに、王太子に相応しい振る舞いではなかったな」
君は知らないだろうが、とヴィルヘルムは最後に付け加えたが、アンジェリカはよく知っている。
だって、全部あなたに教えてもらったのだから。
「どうして、魔法をお使いにならなかったのですか?」
今の彼なら、わざわざ木に登らずにきっとそうすると思った。風の魔法を使えば、風船を取ることなど造作もないことだったろうに。
アンジェリカの言葉に、ヴィルヘルムはぱちぱちと瞬きをした。
「そうすればよかったと、今気付いたよ」
そのまま、気遣うように腰に手を回してくる。
「それより体の方は、大事ないのか」
あれから、アンジェリカは子を授かった。
両王家の血を引く子は、何よりも強い結びつきとなるだろう。内心は未だに娘を駒として使いたかったであろう父王も、さすがに取り下げた。
先日はそれなりに盛大な懐妊祝いの品が届いていた。あんな人でも孫が生まれるというのは嬉しいらしい。
あと三月もすれば、この子も生まれてくる。今はただ、それを願うばかりだ。
「ええ、つつがなく」
「そうか」
けれどそれを伝える度に、ヴィルヘルムはわずかに苦々しい顔をする。悔しいと安堵を綯い交ぜにして、少しだけ安堵が勝ったような。
初産にはなにかと不調が付き物だともいうのに、悪阻もなくアンジェリカは不思議と健康そのものだった。それはまるで、見えない何かに守られているみたいに。
ゆえにうっかり今まで通りに動き回ってしまうことがあって、ヴィルヘルムにもクレアにも――挙句の果てにはグレンにまで泣きつかれた。仕方がないので最近はそれはもう、ゆっくりと歩いている。
「では」
きゅっと、ヴィルヘルムはアンジェリカの手を握ってくる。近頃はずっとそうだ。
おそらくアンジェリカが転んだりしないように、ということなのだろうが、過保護すぎる。生まれる前からこんなにも心配性で大丈夫なのかと、アンジェリカはこっそり思ったりもする。
「大丈夫ですよ」
もうむやみに走ったりはしないのに、と自分が言っても夫はこの手を離してはくれなかった。
「どうだか」
ちらりと切れ長の目はアンジェリカを見やる。
「君は目を離すとすぐ、走ったり木から飛び降りたりする。風船と同じだ。こうしておくのが一番いい」
それを言われると、アンジェリカはもう何も言い逃れができない。
これを断れば、冗談ではなく彼はずっとアンジェリカを抱えたまま過ごしかねないところがある。そうなると、この足は子が生まれるまで地を踏むことはないだろう。
「俺はもう、この手を離さないと決めたんだ」
ヴィルヘルムの手は、自分の手を包み込んでくれるぐらい大きい。このぬくもりこそが、アンジェリカの依り処だ。
「行こうか」
「はい」
重ねられた手をアンジェリカは握り返す。華やかに飾り付けられた王宮の廊下を二人は揃って、王太子の生誕の宴へと足を進めた。
例年、王太子の生誕祭は盛大に行われる。
その日に合わせるために、花や木の魔法に長けた者達がこぞって王宮の庭園のリラの花に力を注ぐのだという。
そうして見事満開になった花で彩られた庭園を見下ろせるバルコニーに、ヴィルヘルムその人が立つ。
ひとつ大きく息を吸い込んで、彼はすっと目を閉じる。
祈るように両手を広げれば、銀色の髪がふわりと浮かび上がる。生まれた風が可憐な花びらを攫っていって、軽やかに踊るようになる。
瞬く間に辺りは一面の花吹雪に包まれる。見るも美しく幻想的な景色に、誰もがうっとりとため息をもらす。
これはまるで、目を開けて見る夢のようだと。
アンジェリカはこの四年、それを後ろから見つめていた。
けれど、今年は違う。
「どうだ」
すぐ隣に立つ夫は、彼にしては珍しく、得意げにそう訊ねてきた。
自分は今、全ての花嵐の中心にいる。一番美しい景色を特等席で、この男と見ている。
これは伊達や酔狂ではなく、国の内外に王太子の力を誇示するための儀式なのだと、頭では分かっている。それでも、その美しさに目を瞠らずにはいられない。
「きれい」
見渡す限りの花と芳香に眩暈がするほどだった。
舞い散る花の中に五枚の花びらのものを見つけて、アンジェリカは思わず手を伸ばす。
どんなに訊ねても、ヴィルヘルムはぐらかすばかりでこの花の場所は教えてくれなかった。
見事花びらを掴んだところで、体が微かにふらついた。すると、肩をぎゅっと抱き寄せられた。
見上げれば、ヴィルヘルムの瞳に光が差して、宝石のように輝いた。アンジェリカの心を捉えて止まない、灰青の煌めき。
一瞬息の吸い方が分からなくなるほど見惚れてから、本日一番大切なことをまだ口にしていなかったことに気が付いた。
「ヴィリー」
随分悩んでからやっと決められた、今のヴィルヘルムを呼ぶ愛称。これを呼ぶと、彼はいつもとても嬉しそうにする。それなのに。
「ん?」
「お誕生日、おめでとうございます」
アンジェリカがそう言うと、ゆっくりとヴィルヘルムは形のいい眉を顰めた。
「ああ」
「どうかされましたか?」
何せ今日は彼の誕生日だ。もっと嬉しそうな顔をしていてもいいはずなのに、その整った顔に拭い去れない不満の色が浮かんだ。
「俺はこれで二十九になった」
諦めたような拗ねたような声が言う。
それは、知っている。
「俺は君より七つも年上だ。どこからどう見ても立派なおじさんだろう」
そのまま天を仰げば、美しい銀髪がはらはらと流れて輝いた。裏腹に端整な顔が歪んで、絞り出すように彼は溜息を吐いた。
――なんだよ、おばさんじゃないか。
そう突き放された日のことを、思い出す。たまらずアンジェリカは笑みをこぼした。
「ふふふ」
「何がおかしい」
「いえ。わたしはあなたをおじさんだと思ったことはございませんわ」
全ては鏡合わせのように、向かい来る。言っていることは真逆なのに、そっぽを向く様がそっくりだった。
きっといつまでも、その面影をどこかに探してしまうのだろう。
けれど、わたしの愛した人はちゃんとここにいる。その指先に、横顔に、宿っている。
「わたしはヴィリーと一緒に歳を重ねられることが嬉しいです」
降り積もる月日の中を共に歩めるのならば、これほど嬉しいことはない。
「そうだな。俺もそう思う」
ヴィルヘルムがこつんと、額を合わせてきた。触れ合ったところから通じる体温が、彼が何を望んでいるかを伝えてくる。
「アン」
彼だけが呼ぶ、特別な名前。けれど、この場でこれはどうだろう。
「皆が、見ています」
「前もしたじゃないか」
「あれは」
あれは、事前にヴィルヘルムと対策を考えた。あれが一番効果的な手だと思ったから受け入れただけで、本来アンジェリカは人前で夫と睦み合う趣味はない。
けれど、ヴィルヘルムはそうは思わないようで。
「ふむ」
ヴィルヘルムは右の手を強く握った。すると、それに呼応するように逆巻く風が強くなる。アンジェリカとヴィルヘルムの姿を覆い隠すように、花が強く舞う。
「これなら、構わないだろう。誰にも見えはしない」
頬に熱い手が当てられる。ここまでされてしまっては、アンジェリカはもう何もできなかった。
「俺達二人だけの、秘密だ」
この目に映るのは、愛したこの男だけ。
アンジェリカの愛した二人の男――十六歳の彼と二十八歳の彼は、一つになって今二十九歳のヴィルヘルムとなっている。そして、これからもずっと、この日々は続くのだ。
「愛している」
返事をしようと思った言葉ごと唇を塞がれる。代わりにヴィルヘルムの首に腕を回した。
わたしもずっと、あなたを愛しています。
花の香に包まれながら、アンジェリカは目を閉じる。そのまま、幸せな口づけの余韻に酔いしれた。
変わってしまうものと変わらないものの話。
ということで、本編完結です。
アンとヴィルヘルムを最終話まで見守っていただき、本当にありがとうございました!!
あと2話番外編(ヴィル視点)がありますので、よろしければそちらもよろしくお願いいたします。
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