18.招かれざる使者
目を開ければ、寝台の上にいた。何もない、殺風景と言われた見慣れた自分の部屋だった。
「姫様」
投げかけられた声は、控えるクレアのもの。
「でんか、は?」
「魔物の討伐に行かれました。姫様をこちらにお運びになってから、すぐに」
色濃く心配の滲んだ侍女の声に、己が長く眠ってしまっていたことを理解した。
「お戻りはいつになるの?」
「来週になると聞いております」
「そう」
整えられたシーツをそっと撫でる。姿が見えないのなら、きっとそうだと思っていた。
すべらかな感触だけが手のひらに触れる。そこに、誰かの体温の名残はない。当然だ。彼はここに横たわったことなどないのだから。
討伐に行ったのなら、ヴィルヘルムは記憶を取り戻したのだろう。実際、見事に魔術を使いこなしていたと聞いた。
アンジェリカにできることは、彼の帰りを待つことだけだった。窓際に五枚の花びらのリラが揺れていた。
あの日そのままに、アンジェリカは大広間で夫を迎えることとなった。
そして、ヴィルヘルムその人が現れる。いつものように、アンジェリカは決まりきった礼をする。
「私の留守をよく守ってくれた」
頭の上から降ってくる声の平坦さに、全てを理解する。ここにいるのは二十八歳のヴィルヘルムだ。
顔を上げれば、やはりその灰青の瞳はアンジェリカを見なかった。一分の隙もなく整えられた銀髪が、きらきらと王太子たる彼を包んでいた。
名前を呼ぶことなど、出来るはずもなかった。
「殿下!」
すぐそばを通り過ぎていくヴィルヘルムに声を掛けることが精いっぱいだった。アンジェリカの声に、夫は一瞬足を止める。
ひらりと銀髪が流れて長身が屈んだ。吐息が耳元を掠めて、びくりと肩が震える。
「私は、何も覚えていない」
他の誰にも聞こえないように、潜めた低い声が囁く。金縛りに遭ったかのように、微動だにできなかった。
「何も変わらない。全ては元通りだ」
腫れた足首に触れたあの手も、交わした言葉も。
彼は、十六歳に戻っていたあの時間のことを覚えていないのだろう。
覚えているのはアンジェリカ、ただ一人。
香るのは、あの、冷たく凪いだ香り。
唐突に感じた。これは、拒絶の匂いだ。
手を伸ばすことも声を掛けることも、できなかった。
このまま彼は通り過ぎていく。そう思った時だった。
「へ」
きゅっと、手を握られた。十六歳のヴィルヘルムがよく、アンジェリカにそうしたように。
しなやかな指が、何かを探すように絡められる。
見上げれば、ヴィルヘルムは灰青の瞳をぱっと見開いた。ゆっくりと確かめる様に瞬きをする。そうしてしまったことに、彼自身が一番戸惑っているように。
「でんか……?」
その体温を感じるよりも早く、夫の手は離れた。
「君も早く、忘れるといい。あれは夢だったのだと」
それだけ言い放って、ヴィルヘルムはまた歩いていく。広い背は全てを拒むように、そこにすっくと立っている。
大きな手は強く強く握りしめられていた。覚えていないというのは、嘘ではないのだと思う。
そこでアンジェリカは思う。
流れた時間を自分のほかの誰とも分かち合うことができないのなら、それは目を閉じてみる夢と何が違うのだろうかと。
*
目を合わせない夫と、手も触れるまま過ごす毎日。このままずっと、こんな日々が続くのだろうか。
アンジェリカがそう思っていた頃だった。
「つまりブロムステット王は、私と妃の結婚を解消すべきだとお考えだと」
「はい、我が君はそのように申しております」
生国から訪れた使者は王太子たる夫の前で跪いている。その実告げているのは至極手前勝手な、かの国の事情だ。
おそらくもっと都合のよいと嫁ぎ先が見つかったのだろう。それはただただ父にとって、ということだけれど。
ヴィルヘルムの顔色は変わらない。王族たるもの表情で何かを悟らせるようなことはない。自分もそのように育てられたから分かる。
けれどその美点は、今はいたずらにアンジェリカの不安を煽るだけである。
アンジェリカは一歩前に出て使者と向き直った。
「恐れながら」
腹に力を入れて、声を出す。決してこの心の揺れを気取られることのないように。
「嫁いだからには、わたくしはもうファーレンホルストの財産です。それを不当に奪うようなことが、果たして許されるとでも」
使者は真っ直ぐに、自分を見上げてくる。まるでアンジェリカがそう返してくることもお見通しだったみたいに。
「それは、正しく婚姻が果たされている場合だけではないでしょうか」
腹の奥が一瞬で冷えた。飲み込んでいた石が、体の中で重く冷たくなっていく。
「『白い結婚では、それは婚姻が成ってないのも同じこと。四年も子を成さぬお飾りの妃など、何の意味を持とうか』」
使者の声は、父のものとは似ても似つかない。けれど、確かにアンジェリカには父王の声に聞こえた。
「ひっ」
ひゅっ、と首が締まるようになって、喉が鳴ったのが分かった。フリルに覆われたスカートの中で足が震える。
この王宮の者で、自分達の仲を知らないものはいない。
そして、ずっと父も知っていたのだ。
アンジェリカとヴィルヘルムが真に夫婦ではないことを。この結婚を、いつでも覆すことができるということを。
きっと一番いい時を父は見計らっていたのだろう。
今がその時だ。
「『いらぬ妃なら、我の元に返してもらう。その方が我が娘も幸せであろう』と」
どこにいても、何をしていても、嫁いでも同じこと。
だって父の娘であることには変わりがない。
ブロムステットでもファーレンホルストでも、それは変わらない。
死ぬまでアンジェリカは父の手駒の一つにしかすぎないのだと、突きつけられたのだ。
「そうか」
ヴィルヘルムはそう短く返す。
「子細、理解した」
低い声は泉に石を投げたように波紋を描いて、この心を揺らす。
「しばらく考えさせてもらう」
通りのいい声は、大広間に朗々と響く。ただ玉座の影で、使者からは見えないようにヴィルヘルムが左手をぎゅっと握りしめているのだけが見えた。




