14.がらんどうの部屋
「あの」
手を引かれるがままに歩く。さらりとした銀髪が揺れて陽の光を反射する。痛いというほどの力ではないのに、アンジェリカはその手を振り解くことができなかった。
手を離したら、彼がどこかに行ってしまう気がして。
「なに? 抱っこの方がいい?」
振り返ったかと思えば、そんなことを言う。にやりと笑う様は小生意気で確かにそこに十六歳の片鱗があるのに、すっと伸びた背筋には確かな決意のようなものが感じられた。
辿り着いたのは、中庭の木の前だった。
あの夜、ヴィルヘルムが上っていた木だ。
「この木だったよな」
「はい」
「じゃあ、ちょっと登ってみるか」
そう言って、ヴィルヘルムの手が木の幹に触れる。そのまま、手近な枝に手が伸びたかと思うとするすると登っていく。しなやかな身のこなしはさながら獣のようだ。
見る見るうちに見上げるほどの高さに登って、ヴィルヘルムは枝の上に立った。
「あんたもおいでよ」
「えっ」
この人は一体何を言っているのだろう。アンジェリカが木に登れるわけがないではないか。こんなフリルの付いたドレスに、踵の高い靴で。
けれど煽るような声が頭の上から響く。
「へえ、やっぱりおばさんには無理か」
その言葉にカチン、ときた。
最近はめっきり言われなくなっていたのに、おばさん。
きょろきょろと辺りを見回した。侍女も侍従も、影ひとつ見えない。
「……分かりました」
まずは靴を脱いだ。ついでに絹の靴下も脱いで、まとめて靴の中に入れておく。
それから腰の装飾のリボンを一つ解いた。スカートをたくし上げてその紐で止めれば、足元が幾分動きやすくなった。
陽の光に晒されることの少ない生っ白い自分の足は、見るからにひ弱そうな気がする。
そして、どこからどう見ても、はしたないの極みである。王太子妃が野生児のようだ。
けれど、売られた喧嘩をそのままにしておくわけにもいかない。文句を言うためにも、この木を登ってしまう必要がある。
どうか誰にも、こんな姿を見られませんように。
アンジェリカは心の中でそう小さく祈ってから、ヴィルヘルムがしたように木の幹に触れた。
それから一番手近な枝に手をかけた。
次は、彼はどうしていただろう。頭の中でそれをなぞるようにして、また枝に手を伸ばす。
「なんだ、うまいうまい。そう、次はそっちの枝だよ」
さて、喧嘩を吹っかけてきた張本人は枝の上に腰を下ろしたかと思うと、時折そんなことを言う。これでも応援してくれているつもりらしい。
ただ中ほどまで上ったところで手が疲れてきた。体力のなさを突きつけられるようだった。
どうしよう、と一瞬目線が下に行ってしまった。
思っていたよりも、高いところに自分はいる。それを実感したら目が眩むような心地がして、アンジェリカは咄嗟にぎゅっと目を瞑った。
「アン、目を開けて」
やさしい声が木漏れ日のように降り注ぐ。
「木登りのコツは二つだけ。一番近くの枝に手を伸ばすことと、絶対に下を見ないことだ」
促されるがままにゆっくりと目を開けた。そして、目に見える一番近くの枝に右手を伸ばした。僅かにしなるような感覚があるが、心細くはない。そのまま、その枝を頼りにして体を持ち上げて、左手でまた違う枝に手を伸ばす。
「やるじゃん」
投げかけられる声は幾分か弾んだものになる。あとは無心で、手足を動かした。
「あっ」
枝に掛けた足が滑って声が漏れる。片足ではもう、踏ん張りが利かない。
落ちる、と思ったところで、ぐっと引き上げられた。
「おめでとう。ちゃんとできたね」
確かな男の腕に抱き止められて、木の枝の上に下ろされた。汗ばんだ肌を風が攫っていく。
「結構いい眺めだろ」
「はい」
毎日を過ごす王宮も庭園も、眼下に見える。白い尖塔が日の光を受けてきらきらと輝いている。遠くの噴水は静かに水しぶきを上げていた。
こんな景色、はじめて見た。
小さな子供にするように、乱れた髪を撫でられる。自然とその肩に、とん、と頭を預けていた。
「ずっと考えてたんだ。なんであんたの部屋、あんなに殺風景なんだろうって」
引っ付いたところから、ヴィルヘルムの声がする。落ち着いた低い声は、染み渡るようにじんわりと響く。
「だから、特に必要だと思うものがなかったからで」
「だったら、なんで必要だと思えなかったの?」
そんなこと、考えてみたこともなかった。
「失くすのが嫌だったから、じゃないかなって」
ああ、そうか。そうだったかもしれないと、その声を聞いていたら思えた。今までどんな侍女も、クレアでさえも。そんなこと言われたことはなかったのに。
「あんたはずっとしっかりしてて、ちゃんとしてて。でも本当はすごい寂しがり屋なのかなって」
第三王女であっても、アンジェリカは顧みられる存在ではなかった。
大して身分も高くない女に産ませた取るに足らない娘の一人。
父王の政略の駒で、道具で、それ以上を望まれることもなかった。
それを当然だと思って、生きてきた。ファーレンホルストに来てからもそれは変わらない。
がらんどうの部屋。あれはわたしの心、そのものだ。
そこに誰かを入れようと思ったことも、なかった。
「最初に会った時、すごい可愛いなって思ったんだ。でも、なんでだろ、言えなかった」
それはまるで、遺言のようだった。声を聞けばいやでも分かる。
「ごめんな。もっと大事にしてやればよかった」
彼は、終わらせるつもりなのだ。
「さて、じゃあ降りるか」
こんなに苦労して登ってきたのに、もう降りるなどと言う。けれどアンジェリカにはもうそんな体力は残っていない。
「大丈夫だよ」
ヴィルヘルムはアンジェリカを片手でひょいと抱えたかと思うと、にたりと片方だけ口角を上げて笑った。
「きゃっ」
「しっかり掴まってて」
言われるまでもない。咄嗟にアンジェリカはヴィルヘルムの首に手を回してぎゅっと抱き着いた。そのまま彼は片手で器用にするりするりと木を降り始める。
皮膚の下で熱い血潮が脈打っているのが分かる。この人は確かに今、わたしの腕の中で生きている。
「ほらね」
気が付いた時にはもう、ヴィルヘルムの足は地面に着いていた。アンジェリカを抱えているとは思えないほど、軽やかな足取りだった。
「また木に登りたくなったら、こうすればいい」
「は、はい」
返事をしながら、アンジェリカはどこか上の空だった。
果たしてその時も、この人はわたしのそばにいてくれるのだろうか。そのことばかりが気になってしまう。
下ろしてくれると思ったのに、アンジェリカの足は地に触れなかった。宙ぶらりんの自分の足は、妙に薄ぼんやりと白く浮かび上がるかのようだった。




