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神の国  作者:
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第四章 繋いだ手に誓う 五

 五


 伊太から連絡があったのは、出雲と停戦協定を結んでから二ヶ月程経った頃だった。無駄と悟ったのか何がしか企んでいるのか、停戦以降ぷっつりと華州内の政治に干渉して来なくなった出雲を、不気味に思っていた所である。

 しかし欧州賢者が不当に雨へ行ったのだと伊太知事から告げられ、陳は納得した。こちらに構っていられないほど、あちらの状況が大きく動いていたのだろう。それでも出雲がどこから見ているか分からないから、用心はしていた。出雲の情報収集能力は、他州の比ではない。

 陳は出雲が欧州賢者の逃亡を手引きしたのではないかと考えたのだが、よくよく聞いてみれば、そういう訳でもないという。しかし知事の様子から、出雲は伊太の事に掛かりきりになっているのだという予想は、容易についた。出雲の目を逸らす為、露や雨に無茶な要求をする事に気を取られていたから、気付くのが遅れたのだ。蒙古へ侵攻した理由になど、出雲はとうに気付いているだろうが。

 伊太知事は、兎にも角にも会談をと要求してきた。訝りはしたが、陳の目的と彼女の目的は違う。話し合ったところで利があるかどうかは読めなかったが、華へ来ると言ってきたから損もないだろうと判断し、陳は日程を今日に決めた。余計な経費をかけたくなかった所だが、断ったらこちらが損をしそうな予感がしたのだ。

 講義の予定を全て取り消し、陳は伊太州知事を迎えた。欧州の民らしく華やかな美貌の女だったが、彼女の目に宿る虚を、陳は訝しくも思う。少なくとも、神を奪おうなどと画策している者の目ではなかった。そんな大それた野望を持っているような者の目は、もっと野心に光っている筈だ。

 北米賢者の目とも似ていたが、あちらのような、底の見えない沼のようでもない。人に捨てられた過去を持つ野犬、とでも言おうか。何かを諦めた末に活路を見出し、足掻く者の目だった。

「ご多忙の中お時間を作って下さり、光栄に存じます」

 伊太知事の出雲語には、少々訛りがあった。知事である限り共通語を喋る機会は多いものと思われるが、発音までは勉強しなかったのだろうかと、陳は思う。彼女の出自は伊太州庁にも残っていないというから、碌な出ではないのだろう。

 それも、陳が言えた事ではない。犯罪行為に手を染めた事はなかったが、賢者となる前の陳は、己自身嫌気が差す程愚かな男だった。お陰で婚期を逃してしまった程に。

「こちらこそご足労おかけして、申し訳なく思っております。それで、知事……」

 テオドラは軽く片手を挙げて、陳の言葉を制した。焦っているようにも見えないが、早く話を進めたいのだろう。

「まずは順を追ってお話します。賢者が雨へ逃げたのは、電話でお伝えした通り」

 電話では、賢者は不当に大陸を出て、雨へ向かったと伝えられただけだった。逃げたと言ったという事は、やはり彼女が欧州賢者を監禁していたのだろうと、陳は考える。

 別段それを責めるつもりもない。こうして密会している以上は、同じ穴の狢だ。同じ賢者という立場の者が、半分も生きていないような小娘に利用されていた事は些か不愉快ではあったが、陳も彼女を責められるほど品行方正に生きてきた訳ではない。

 テオドラが堂々と連絡を取ってきた所を見るに、華が何をしているかについて、隠し立ては不要だろう。共謀者として見ても、間違いはない筈だ。

「追わなかったのかね」

「無論追っ手はつけたのですけれど、何者かに撃墜されてしまいましたわ」

 さも当然のように言う彼女を、陳は妙だと思う。二週間前に約束をしてから今日まで経過の連絡はなかったが、撃墜されたという事は、賢者は既に雨へ逃げているのだろう。悔しげでも憤っているようでもないテオドラの口調は、そうなる事を予想していたかのようだった。

 食えない女だと、陳は思う。浮かべられた笑みは柔和にして美しいが、どこか違和感があった。作り笑顔が故ではなく、逆に、自然すぎて薄ら寒くさえある。今この場で笑っていられる事自体、不気味ではあった。どんな生き方をしてきたものか気になりもしたが、個人的な事に首を突っ込むのは控えたい。

 こういった手合いは、過去に何かあった者が殆どだ。相談事を持ちかけられている訳ではないのだから、悪戯に詮索はしたくなかった。人となりなど分からなくとも、問題はない。

「追わせた機は海に落ちましたが、幸い米の治海ではありませんでしたの。音声記録装置も飛行記録装置もダメになっていましたが、辛うじて偵察衛星が捉えておりましたわ」

「何か、映っていたのですかな?」

 テオドラは徐に懐から大判の写真を取り出し、テーブルの上に置いた。拡大したものらしきぼやけた写真には、ミサイル艦と思しき物体が大写しになっている。船体に大きく書かれた文字は艦の愛称と思われたが、解像度が低い為、読み取れなかった。伊太は偵察に関して、あまり性能のいい機器は持っていない。

「雨の巡洋艦だな。北米の治海から出たのかね?」

「欧州内での事のようでしたから、侵入して来たのですわね。そんな事より、ここを」

 そんな事、ではないような気もしたが、陳は催促に従う。赤い爪で指された箇所には、小さく旗が映っていた。通常は支部旗を掲揚するのだが、それとは別に、見慣れない旗が写っている。雨海軍の支部旗は赤と紺の縞地に三つの星が白抜きで描かれた、遠目にも目立つ旗の筈だから、明らかにそれではない。

 陳が怪訝に眉根を寄せると、テオドラは更にもう一枚、懐から紙片を取り出した。彼女は一回り小さいそれを、軍艦が写った写真の横へ並べて置く。陳は思わず、声を大きくした。

「本部旗か!」

 矢張りぼやけてはいるが、拡大して画像処理を施したその写真には、白地に金の桜が描かれた海軍本部旗が写っていた。旗の角度や波打ち方、背景から考えるに、軍艦と同じ画像を切り取って処理したものだろう。

「ご存知の通り、本部旗の使用は出雲の許可がなければ叶いません。賢者が大陸を出た事には、出雲が関わっていると見て、間違いないかと」

 順当に考えれば、出雲が雨に賢者を迎えに行かせたのだろう。しかしこうして証拠を突き付けられても、俄かには信じ難かった。

 あの慎重な出雲が軽挙に出るとは、陳には到底思えない。欧州賢者の状況を考えると止むを得なかったのかも知れないが、それでも腑に落ちなかった。

「……出雲が、法を犯したと?」

 陳が問うと、テオドラは大輪の薔薇の如き笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頷いた。

 賢者が大陸の許可なく治めるべき地を離れる事は、固く禁止されている。例え出雲の許可があったとしても法には触れる上、この場合は雨と出雲も、逃亡幇助という点で罰せられるべきである。止むを得ない事情があったにせよ、許される事ではない。

 しかし知事がここへ来たという事は、これを出雲に突き付けて強請る気ではないのだろう。その無意味を、彼女もよく理解しているのかも知れない。

 話し合いになれば、必ずあの狡賢い出雲賢者が出て来る。口では陳も敵わないというのに、彼女の半分も生きていないテオドラでは、到底対等に交渉など出来はすまい。上手く丸め込まれて、逆に糾弾されてしまうに違いない。

「そこで、確認しておきたいのですけれど」

 テオドラは写真を纏めて元通り懐へしまい、テーブルの上で指を組んだ。落としていた視線を上げ、陳は美貌の知事と目を合わせる。

「陛下はこの世界の覇権を握ることを、目的とされているとか」

 陳は枯れ葉のような瞼を伏せて、長い髭に覆われた唇を引き結んだ。連絡を取って来た時点でそうではないかとは思っていたが、勘違いされている。

 この世界の覇権が欲しい訳ではない。陳が欲しいのは、華の民だけで生きて行ける国なのだ。出雲に頼らず、神に縋るような生き方をしなくてもいいような、自立した国が欲しかった。

 そう考えたのも、世界の人々が出雲島民に似てきているからに他ならない。出雲島民が悪い訳ではないが、消極的な姿勢では、世界はいずれ崩壊する。ロスト以前の国民性が色濃く残っている地域もあるが、少なくとも、華は侵食されかけていた。 

 陳は、残して行きたかった。華という州に生きる人々が持つ、本来の人柄を。甘んじて受け入れる態勢ではなく、華に生きる者としての矜持を。

「……いや。私が欲しているのは華の独立だ」

「同じ事ですわ」

 手を口元に当て、テオドラは優雅に笑った。

「けれどこの世界の覇権を握るのは、永遠に神。いいえ、出雲と言っても、過言ではありませんでしょう」

 神の島たる出雲が落ちない限り、華の独立はない。長年悩み続けた末に陳が出した結論が、それだった。それは確かに、覇権を握ると同義だろう。否定はしたが、彼女の言う通り、同じ事だ。

 しかし華はあまりに貧しく、強大な軍事力を有する出雲相手では、どんな策を講じてみた所で勝ち目もない。だから蒙古へ侵攻し、露製の兵器を手に入れた。数少ない戦利品を元に生産は着々と進んでいるが、未だ全軍に装備させるには至っていない。

「その通りだが……知事」

 テオドラの手が、テーブルの下へ潜った。陳は一瞬顔をしかめたが、その手が拳銃を握ってテーブルの上へ出てくると、思わず目を見張って身を硬くする。

「伊太は独にこそ劣るものの、銃器の生産数は欧州内でもトップに入ります。いかがです?」

 彼女の細い指に、その黒い銃はあまりにも不釣り合いだった。自分が言えた事ではないが、何が彼女をそうまでさせるのか疑問に思うと同時に、陳は悲哀にも似た感情を抱く。この世界で反乱分子である事がどんなに孤独か、陳は知っている。

 そしてテオドラが何を言わんとしているか、彼女が銃を見せ付けてきた時点で理解出来た。それは喉から手が出るほど欲しかった兵器が、すぐにでも手に入るということ。

 それでも陳には、ここで軽挙に出るつもりもなかった。まだ早すぎると、彼はそう考えている。彼女も今すぐにとまでは言っていないだろうが、華の軍に他州製の兵器を扱えるまで教育が行き渡るには、相当な時間を要するに違いない。それまでこの気の短そうな女が待ってくれるかどうか、甚だ疑問だった。

「魅力的な誘いではあるが……貴女は華の状況をご理解頂けておるのですかな?」

「無論、存じておりますわ。すぐにとは申しません、こちらにも準備はございます」

 安請け合いしていいものか、陳は悩む。彼女が持ちかけてきているのはつまり、出雲とその協力地域を含めた大軍隊を相手取り、戦争を仕掛けないか、ということ。伊太の現在の支部規模を正確には把握していないが、華との連合軍となったとしても、とてもではないが敵うとは思えない。

 黙り込んだ陳の言葉を待っていたテオドラは、小さく笑い声を漏らして銃をしまった。女狐と仇名されるほど強かな彼女が、勝ち目のない戦いを仕掛けるとは到底思えない。他に策でもあるのだろうかと、陳は思う。

「不安ですか?」

 陳は答えなかった。テオドラは続ける。

「伊太には英支部がついておりますわ。狭い出雲を攻めるには、充分かと思われますけれど」

「英まで味方につけたか……」

 陳が感嘆の声を漏らすと、テオドラは笑みを深くした。それなら確かにやりようもあるだろうと思ったが、しかしそこで、陳は疑問を抱く。

 この女は一体、何の為に神を欲しているのだろう。彼女の目的は神を伊太へ迎える事と、それだけは噂程度に聞いている。しかしその理由は、こうして顔を突き合わせて話していても読めない。それ以上を知る由もなかった。

「知事よ。こちらが返答する前に、一つ聞きたい」

「なんなりと」

「私には貴女の目的が分からぬ。貴女の目的はなんだ?」

 両腕を組み、テオドラは椅子に凭れた。一挙手一投足にまで、陰性の艶がある。

「失礼、ご存知だと思っておりましたわ」

 細められた目に、先程までとは違う色をした光が宿る。陳は彼女には言うつもりがないのかとも思ったが、テオドラはあっさりと再び口を開いた。

「私は神にお仕えしたいのです」

 陳は顔には出さなかったが、訝しく思う。永遠に神に仕える賢者のようになりたいのかとも思ったが、それなら出雲を攻めようとは考えないだろう。

 テオドラの青い目に、鈍色の輝きが宿る。澄んだ湖面に薄墨を落としたように広がって行くその光は、しかし光と呼ぶには暗すぎた。陳は背筋が冷えるような感覚を堪えようと、テーブルの下で拳を握る。

「私は神のお側にありたい。その為なら、何だって出来るわ」

 彼女は純粋なのだろうと、陳は思う。純粋であるが故に、何かによって染められてしまった。彼女のそれは信仰と呼ぶにはあまりに卑俗で、汚れ過ぎている。そしてあまりに、純粋だ。矢張り噂に聞いた通り、知事は神を欲しているのだと、そう思う。

 彼女は、神に思慕の情を抱いている。誰も見た事がない筈の、絶対的な統治者に。何故そうなったのか気に掛かりはしたが、陳はそれ以上聞かなかった。

「結構。欲するものが違うなら、共闘も出来よう」

 無謀だ。それでも、やらなければならない事がある。

 華の民が自分の力で生きて行く為には、これしか道がない。出雲の庇護の下、何も考えずのうのうと生きて行くのは容易い。しかしそれでは、州は堕落するだけだ。何も考えずただ神を信じ、ひたすら仕事に打ち込んだ挙句己を見失っていた、陳と同じように。

 一つ頷いた後、テオドラは陳に向かって片手を差し出した。陳は迷わずその手を軽く握り、握手を交わす。

「安心しましたわ。伊太だけでは、どうにもなりませんから」

「それはこちらも同じ事。しかし宜しいのですかな? 華と手を組んで、そちらに利があるかどうか」

「兵は多いに超した事はありません。陛下から学ばせて頂く事も、沢山ありますから」

 伊太となら、まだやりようもある。初めは不安もあったが、今は出雲相手にも、対等に戦える気がしていた。対等でしかないかも知れなかったが。

「つきましては、伊太は華への資金援助と兵器の補充を確約致します。侵攻時期はまた、改めて連絡しますわ」

 それだけ援助するから、時期は任せろという事だろう。待ってくれとも言えないだろうと考えながら、陳は頷く。

 テオドラはスーツのポケットから革製の名刺入れを取り出して、中から一枚紙片を抜いた。飾り気のない名刺は、片面が伊太語、片面は出雲語で書かれている。

「こちらが直通電話になります。何かありましたらご遠慮なく」

 その名刺を受け取る事を、陳は何故か躊躇した。本当にこのまま、進んでいいものなのか。対等に戦えたとして、勝ち目はあるのか。

 後ろは振り返らないと、陳は蒙古へ侵攻した時に決めた。けれど今、ようやく本格的に行動を起こそうという段になって、不安が胸をよぎる。

 大陸を跨いで争いが起きた事は、今までになかった。出た芽は必ず、出雲が潰して来たからだ。根底にある神への尊敬心を揺さぶり、無為に武力を使わない、被害も加害も最小限に留めたやり方で。

 そんな出雲を、武力は持っても使用はしないというやり方を、陳は確かに正しいと思っていた。それなのに、自分は今何をしているのだろうか。ロスト以前、戦争によって多くの人々が傷付いた事は、他ならぬ賢者である陳が、一番よく知っているというのに。

 神が戦争を禁じた理由が、陳にはよく分かる。分かっているのに世界を戦火に巻き込もうとしている自分が、矛盾しているように思えてならなかった。

「……陛下?」

 怪訝な問いかけに、陳は思考を中断する。そう呼ばれるようになるのも、遠い未来の事ではない。或いは、永遠に来ないかも知れない。

 陳はゆっくりと手を出し、名刺を受け取った。これでもう、戻る事は叶わない。握手を交わした時は何も考えなかったというのに、今更ながらにそう思う。

 決して、振り返りはしない。そこに華の未来がある限り、進むしか道はない。

「愚かな出雲に、神の裁きを」

 テオドラの言葉が、頭蓋に反響して頭の中を巡る。手にした紙片の無機質な感触が、指先を震わせる。陳は己の迷いを振り切るかのように、ゆっくりと頷いた。

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